国道沿いのガソリンスタンドで、昼下がりの閑散とした道路を眺めながら、立花祐一は昨夜の出来事を思い返し、酷い目に遭ったと独りごちる。
鈴木政志・仁志親子の板金修理とサスペンションチューンを受けたスプリンタートレノを、軽く試運転すると言う藤原文太に付き合い、秋名道路を登った。藤原拓海を導けば、そのうち自分で何かを始めるだろう、などと語る父親・文太と、ここからの夜景は変わらないなどと黄昏れる祐一。ここまでは良かった。
そういえばシェイクダウンテストしに来たんだった、少し攻めていいかと断る文太に、ハンドストラップとドアトリムにしがみつき、少しだけだぞと返す祐一。あっという間にキンコン、キンコンと警告音が鳴る速度まで加速するスプリンタートレノ。減速による前のめりの慣性力が外向きに変わり、ドリフト状態に入った途端に、両手を離し、煙草に火を点ける文太。何をやっている、ハンドルに手を戻せと祐一は叫ぶ。
文太としては、昼間のテストランの時に同じように煙草を点けた際、助手席に乗った仁志が思ったほど怖がらなかったのと、交通量がゼロに等しい夜中だったことにより、煙草を点けてからセンターコンソールの灰皿を引き出して灰を落とすなどという動作を加えていた。煙草を点けるだけでも祐一にとっては恐怖でしかなかったのに、さらに脇見運転という危険運転数え役満とも言うべき文太の奇行により、祐一は叫ぶことすらできなくなり、これはダメだと固く目を瞑る。
その後、煙草を咥え直し、昼間以上のハイペースで秋名道路を下る文太に、下ろしてくれ、だから嫌だったんだと絶叫する祐一。祐一の恐怖の絶叫を聞き、文太はご機嫌のまま帰っていったのである。
目の前では閑散とした時間に雑談する、バイトリーダー池谷浩一郎、まだ肋骨が痛むらしくノロノロと動く、退院間もない武内樹、そして昨夜、祐一を恐怖のどん底に突き落として笑っていた男の一人息子・拓海が見える。池谷と健二の話題は、ガムテープデスマッチすらやり遂げる拓海こそ群馬県最速ではないか、いや、まだ赤城レッドサンズの高橋涼介が狙っている、などという内容である。
祐一も昔は文太とつるんで走り屋をやっていたので、多少のことでは恐怖を感じないと自負するものの、文太のことは当時も現在もスピードに魂を捧げており、速さを求めるためなら平気で理性を捨てる狂人と評している。昨夜の横乗りでそれを久しぶりに思い知った。拓海も高橋涼介も速いとはいえ、走りの懐の深さは文太に遠く及ばないだろう、と確信していた。
ふと拓海は樹に尋ねる。RX-7の排気量は何リッターなのか、と。ロータリーエンジンの排気量を考えたことがあまりなかった樹は池谷に尋ねる。丁度、窓拭きウエスを洗い終わった仁志も通りかかってちらりと一瞥する。池谷は答える。
「排気量で言ったら1,500ccくらいだった気がする…そうだったよな、仁志?」
樹はもとより、そこまで車に詳しくない拓海も流石に驚きの声を上げる。池谷に急に話を振られ、仁志が答える。
「13Bは654ccの2カケで1,308ccですね。レシプロで1.3リッターって言えば、ローバー・ミニとか、ちょっと小さいと1.2の俺のサニーとかですね」
ポケットからメモ帳を出した仁志は、フリーハンドでローターのような形とハウジングのような形を描いていく。
「このオニギリの一面分で容積が最大654ccになるんだ。この点線で描いたのがオニギリの側面が凹んでるローターリセスっていう部分」
「絵、上手いな」
どうも、と仁志は素っ気なく返す。樹は自分の愛車・カローラレビンSRよりも小さい排気量でそれこそスカイラインGT-Rにも負けない最大出力を発揮するロータリーエンジンに対してズルいなどと言っている。池谷は答える。
「ロータリーはレシプロと構造が違うから単純に比較できないよ」
軽くて小さい上にパワーもある。そしてそんなRX-7はそんなロータリーエンジンがあってこそ生まれた、まるで戦闘機のようなピュアスポーツカーだと池谷は語る。
「俺は今でも
確かに、自由度皆無かつテコの原理の恩恵が得られにくいエキセントリックシャフトのレバー比やローターとエキセントリックシャフトとの間のギアによるエキセントリックシャフトの増速によるトルクの細さ、トルクの細さを回転数でカバーする乗り方による燃費の増大、および燃焼ガスと触れる内壁面積が大きいことからくる熱効率の悪さなど、デメリットも多いエンジンだが、仁志含め殆どの車好きはロータリーエンジンには特別な思いを持つ。実習で解体したことがある仁志などは特にそうであるが、あの小さなオニギリ形のローターが、繭形のハウジングの中でガソリンを燃やしながらくるくると回り、搭載された車やバイクを走らせてしまうことが面白く、そして愛おしく感じるのである。しかし、その乗り手をエンジンと同じように特別視することに対して仁志には違和感があった。
なぜ急にそのようなことを気にしだしたのか、池谷が拓海に問う。拓海が答えるには、ナイトキッズの中里毅との対戦の際、まるで二台の対決を眺めるように真後ろから付いてきた白いサバンナRX-7がいたという。確かにあの夜、白いサバンナRX-7が二台を追いかけるように飛び出して行ったのを池谷は覚えていた。あれは赤城レッドサンズの主将・高橋涼介だと池谷は伝える。拓海は、あの夜はGT-Rを追うのに集中していたので気にしなかったが、後から考えると拓海の背後で無視できない存在感を放っていた、と語る。
「俺にははっきりとわかりますよ。あのRX-7の実力は、ナイトキッズのGT-Rよか遥かに上ですよ」
今までに会ったどんな奴よりも速い、と拓海は付け加える。
「やはりな、気になってたのはクルマじゃなくてドライバーってわけか」
仁志が呟く。
(族のヘッドを張るくらいだ。そりゃ腕前はいいんだろうが、クルマを特別視する理由にはならねぇな。どうせあの兄弟、実家が太くなけりゃ
喉からはみ出しかけたルサンチマンを辛うじて飲み込み、胸の内に留める。ドブ板を這いつくばるように生きた時期が長い仁志にとって、高橋兄弟のような人種は屈折した敵対心を向ける対象であった。そんな仁志を横目に見ながら、どうせまた何か捻くれたことを考えているな、と思いながら、池谷は拓海の言葉に答える。
「そうか、やっぱりわかるもんなのか、そういうことは…」
尊敬と畏怖の入り交じった表情のまま、池谷は続ける。
「高橋涼介は速いよ…!!」
三年前、群馬県内でも特に走りのレベルが高いと言われる赤城山に登る赤城道路に、特に速いFC3Sが現れ、最速の座を射止めた。高橋涼介。赤城道路に留まらず、ジムカーナやサーキットでのタイムアタックでも結果を残し、白い車体色と、どこのチームにも属さず、誰とも馴れ合わず、ただ孤高を貫くその姿に、いつしか人は彼を『赤城の白い彗星』と呼ぶに至った。赤城レッドサンズは高橋涼介が赤城道路最速の地位を確立した後に結成したチームであり、モータースポーツ活動を積極的に行う、普通の走り屋チームとは毛色の違うハイレベルなチームであった。チーム結成後の今でこそ黄色いアンフィニRX-7に乗る実弟・高橋啓介と合わせて『ロータリーの高橋兄弟』と呼ばれることも多いが、池谷と同世代世代の走り屋の多くにとって、高橋涼介といえば『白い彗星』なのである。
池谷が話を終えると、樹が興奮した様子で背中がゾクゾクしてきたなどと口走る。どうやら、二つ名が付いていることが羨ましいらしい。中高生男子の平均的な反応である。
「なぁ拓海さぁ、お前もしそんな凄い相手にバトルを挑まれたりしたらどうする?」
樹が拓海に問う。まぁ素直に受けるわけはないよなと樹は付け加える。仁志も、そうだろうなと思う。しかし拓海の返答は予想とは真逆であった。
「もしそういうことになったら俺、やってみたい気もする…」
池谷と樹が驚いた声を上げ、仁志も意外そうな顔をする。
「すごい進歩だ!拓海が化けたァ!」
樹がいつもの謎のポーズを取ったまま興奮する。そんなんじゃないよと否定する拓海に、池谷が、走り屋らしさが出てきたと請け合う。
「らしさって言われても、第一、俺、自分のこと走り屋だとは思ってませんよぉ。自分のクルマも持ってないんだから…」
拓海にとってはそこが一番の悩みどころらしい。仁志は、車さえあれば走り屋と呼ばれることに何の抵抗もなくなってきているらしい拓海を見て、胸の内でひとり呟いた。俺もお前も、碌な死に方出来ないかもしれないぞ、と。