立花祐一のガソリンスタンドに、宅配便で花束が届けられた。店主の祐一が怪訝そうな顔をする。
「花束ァ?何かの間違いじゃないのか?うちはただのガソリンスタンドだぞ」
配達員は否定する。送り状の住所はここで間違いないようである。
祐一は届けられた花束をじっくり観察する。すると花束にカードが付いていることがわかった。その宛名を見た祐一は送り状の送り主欄を見ると何事かを察し、受領印を押す。
「ありゃ〜とあ〜した〜(ありがとうございました)」
配達員が気の抜けた挨拶を残して帰っていくのを見送り、祐一は告げる。
「これは拓海宛だぞ。高橋涼介からだ」
ついに、秋名のハチロク・藤原拓海に、高橋涼介からの挑戦状が届いた瞬間であった。
夜八時。秋名道路では既に、いわゆる走り屋と呼ばれる速度競走型暴走族がチラホラと現れ始める。彼らは峠に来ると山麓側の広場で一度車を駐め、耳を澄まして下ってくる車がいないか確かめる。この時に居合わせた者同士で、その日の取り締まりの有無や近頃の走り屋情勢について情報交換する。
「しかし、ここ秋名といえば、やっぱり今年から『秋名のハチロク』が急に伸びて来てるよな」
「レッドサンズの高橋弟、ナイトキッズの中里に庄司ときて、多分、今度こそ高橋涼介が挑むんじゃないか?」
「『赤城の白い彗星』と『秋名のハチロク』の頂上決戦か、今年の夏は熱いよな」
今日も今日とて、地元の走り屋が集う。話題はやはり『秋名のハチロク』を中心に回る。
「高橋といえば、高橋啓介が最近ここで走り込んでるのがよく目撃されるんだってな」
「リベンジでも狙ってんのかねぇ。しかしたまんねえよな、あんな凄腕にあそこまで熱心に走り込まれちゃ…」
「しかも日に日に、来る時間が早くなってるらしいんだよ」
「マジか…」
噂をすれば影、レッドサンズのステッカーを後フェンダーに貼った黄色いRX-7が秋名道路を登っていく。噂をしていた者たちは一瞬沈黙し、それを見送る。
「もう来たよ、今日は…まだ八時だぜ…」
しばしの沈黙の後、ところで、と切り出す者がいた。
「早い時間といえば、最近現れた奴で、九時半過ぎてからピタッと見なくなる奴がいるだろ?」
「あぁ、それ『山賊』だろ?なんか古い車に乗っていて、鬼のように秋名道路を下っていくらしい。下っているといつの間にか背後にいて、鬼気迫る走りで追いかけて来るっていう…」
「下りは『秋名のハチロク』とどっちが速いんだろうな」
鈴木仁志はサニーで秋名道路を登る。昼間、ガソリンスタンドにて池谷の仲間である健二から、最近秋名道路に山賊が出るらしいと聞いて、そんな馬鹿なと思いながらのヒルクライムである。
(いつの時代の話だ?大昔の徒歩での峠越えじゃあるまいし…)
そうは言っても、走り屋が跋扈する現代の夜の峠もまた物騒な世界に違いはない。用心に越したことはないだろうと、仁志は注意深く登っていく。
ところで、仁志は今夜も窓を全開にしたまま、不愉快な温度の液体を湛えた紙コップを缶ホルダーに置いて秋名を走っていた。そういう意味でも、仁志は用心に用心を重ねて運転する。
(門限のせいで拓海には暫く挑めていない…。勝負勘が鈍っちまっちゃあどうにもならねぇからな…)
荷重移動の繊細さを保つために紙コップを使った練習を三往復半、それから水ないしは小便を捨てて高速走行に入るというのが、最近の仁志の秋名道路での日課である。秋名道路は毎晩誰かしらが走っており、コップがなくなったら誰彼構わず勝負を挑んでいる。
(アイツラみたいに、横に並べてヨーイドン、なんてイイ子ぶった真似は恥ずかしくて出来ねぇ)
仁志が挑むのはいつも、下りの途中で遭遇次第始まる野良試合である。やる気を見せない相手はそのまま置き去りにし、やる気を見せる相手は散々追い回した末、仁志が発するプレッシャーという名の狂気に相手が怯んだ隙に抜き去るのである。しかし、元々藤原拓海という強大な相手を追いかける仁志にとって、大半の相手はもはや敵ではなくなってきていた。
(門限までわずかな時間を見つけて走ってんだ。山賊さんよ、邪魔しねぇでくれよな)
赤城レッドサンズの副将、高橋啓介はここ数日間、連日のようにわざわざ前橋から秋名道路に通い詰めていた。自身の敬愛する兄であり、自身を走りの世界に引き込んだ師でもある高橋涼介が『秋名のハチロク』に挑む。涼介が負けるとは思っていないが、『秋名のハチロク』が負ける姿も想像できない。
さらに先日、赤城道路で涼介から聞かされたことは、登りも下りも両方こなせるように仕上げていたサバンナRX-7の最大出力を、敢えて340馬力から280馬力に落としたということであった。重力の影響で制御が難しくなる下りを速くするため敢えてパワーを絞る、下り特化のチューニングは、340馬力を乗りこなせる自信があった涼介自身にとっても半ば屈辱的ですらあると、涼介は語った。
高橋涼介はどんな相手にも全力を出し切らずに勝つと言われている。つまり、涼介の全力の走りは、彼が負ける時に見られるという。しかし啓介には、今回の涼介が、『秋名のハチロク』を相手に本気を出そうとしているように見受けられた。啓介は何故か、『秋名のハチロク』と涼介の対決を見たくなかった。
啓介は、来たるべき決戦を前に、この焦燥感を抱えたまま、まるでそれを振り切るためであるかのように、『秋名のハチロク』の本拠地である秋名道路を、連日取り憑かれたように攻めている。ふと、ルームミラーに視線が吸い寄せられる。背後に一台、ヘッドライトが張り付いた。丁度、誰かと対戦したかった啓介はそのままペースを上げる。開戦から最初のカーブで敢えて大きめのスリップアングルを付け、ドアウィンドウから相手の車を見る。黒い日産スカイラインGT-R。妙義ナイトキッズの中里毅らしいことを認め、絶対に負けられない宿敵の登場にさらに闘志を燃やす。
仁志は途中にあるチェーン脱着場の広場前を通過する。武内樹のカローラレビンと、その近くに樹と拓海の姿を見た気がした。
(アイツ、遂に走れるとこまで直したんだな…)
今日は別に絡まなくていいかとそのまま通過する瞬間、反射的にルームミラーを見る。遠くから急速に近づくヘッドライトの光と、全開にした窓から聞こえる爆音が迫る。ロータリーエンジンのどこかやさぐれたような音と直列六気筒の滑らかに唸る音から、二台がやり合っているらしいと悟り、登坂車線に入って躱す。二台が連なって、ブレーキディスクを紅く燃やしながら目の前のカーブに突入していくのを横目に見送る。
(アカギレ軍団のシド・ヴィシャスもどきと、妙義の甲斐性なし…。こんなところで何やってんだ?)
仁志が啓介と毅に抜かれた地点から山頂までは、さほど距離はなかった。仁志が山頂側広場に車を駐める頃、啓介と毅もそれぞれの車を降り、喋り始めていた。啓介も毅も、先ほどの遭遇でひと目見て相手が誰かわかったようである。毅が、啓介のRX-7の車体色と大型のリアウィングスポイラーを貶すと、啓介は調子に乗るなと返す。あれが俺の全開だと思わないことだ、と釘を刺せば、毅もあの程度では全開には程遠いなどと強がる。当然、二人ともさっきまで嫌な汗をかきながら本気でアクセルを踏み抜いたあとの強がりである。涼介と『秋名のハチロク』の対決が終わったら次は妙義山でナイトキッズとレッドサンズの交流戦がある。そこで捻り潰してやる、とお互いに息巻いていると、見覚えのある小さな黒い旧型車が少し離れて止まる。
仁志が紙コップを持って下車するのと、啓介と毅が仁志に近付いて声を掛けるのは同時だった。毅は仁志のサニーの窓が全開になっているのと、手元の紙コップを見て、何かを察したような顔をする。
「今夜も特訓か?随分早い時間に現れるようになったな」
「あんたのチームのバカをシバいたら、オヤジから罰で門限厳しくされちまってな」
「そうかよ…。あぁ、そうだ。ところで、うちの慎吾、何故か負けたのにあのハチロクのことを嬉しそうに褒めちぎるんだよ」
毅は一瞬、仁志が妙義山に殴り込んだ夜のことを思い出して怒りが再燃しかけるが、ふと思い出したように拓海に負けたあとの慎吾の様子を語り始める。
「自惚れの強い奴で、滅多に人を褒めることなんてない奴なんだがな…。あのハチロクにはそういう、人を惹きつける魅力があるんだ」
「結局、許したのかよ、あの赤いシビックの奴を?」
「二度と阿漕な真似はさせない。それは約束する」
「まぁどうでもいいけど、別に。俺に変な火の粉が降りかからなければ」
仁志が蒸し返す。毅は慎吾の更生を約束する。毅は啓介に言う。
「負けてほしくねぇと思ってるよ、俺以外の奴にはナ。兄貴ベッタリのお前には分からんだろうけど」
「ヌカせ…。ところで鬼瓦、お前、妙義山で何したんだよ?」
「あんたらエリートと違って、イザコザは血と泥にまみれねぇとどうにもならねぇんだよ」
「誰がエリートだ。褒められてねえのはわかるぞ」
啓介はふと、仁志の手元の紙コップに目を留める。ペットボトルの緑茶を注いで飲んでるのか、と考える。随分お行儀のいいことだ、と。
「生意気な野郎だ」
「あ、おい!やめろ!」
啓介が仁志の紙コップをひったくる。仁志は慌てて啓介を止める。
「飲むな!それは俺の特訓用の…」
「おい、マジでやめとけそれは…」
仁志が慌てて啓介を制止し、事情を知る毅も啓介を止めようとする。啓介はそのままぐいっと紙コップを空けると、次の瞬間、目を白黒させながらゲゲーッと全て吐き出す。
「何だよこれは!ヴォエッ!ヴォォォエッ!」
「お坊ちゃんのくせに手癖の悪い野郎だな!俺は止めたぞ!…なぁ、中里さんよ?あんたが証人だ!」
「うん、まぁ、そうだな。…今のは、高橋弟が…悪いな…」
啓介に自分の小便をお茶だと偽って飲ませたなどという濡れ衣は何としても避けたい仁志は、毅に証言を求める。毅は啓介が悪いと言うが、二人に背を向けてGT-Rの屋根に手を突き、顔を伏せたまま肩を震わせている。滅茶苦茶笑うじゃねえかコイツ、と仁志は呆れる。啓介は紙コップを握り潰すとカードレールの向こうの暗闇に投げてしまう。そしてRX-7のドアポケットからペットボトルの水を取り出し、必死で口をゆすいでいる。
「てめぇ、何飲ませた!?」
「飲ませてはねぇよ!あんたが勝手に飲んだんだろ!」
「うぐっ…。あれは何だったんだ!?」
「紙コップに水入れてこぼさねぇように走るんだ!あのハチロクの豆腐屋が豆腐の配達の時にやってる品質対策で、荷重移動の練習にも役立つんだよ!」
「今のは水じゃなかっただろ!?」
「俺は豆腐積んでねぇから気が緩むんだよ!だから絶対こぼしたくないものを入れてたんだ!」
「だからそれが何だったんだって訊いてんだろ!」
「知ったら後悔するぞ」
「…おいマジで何飲ませた?」
「…だから飲ませてはねぇよ」
啓介の拳骨が飛んできた。流石に気の毒な気がしたので、一発は黙って殴られてやろうと思った仁志は、二発目から避けることにした。拳骨は一発だけ飛んできて、仁志の頬に想定よりもやや弱く炸裂する。
「ブフッ!…本気では殴らねぇんだな」
「…ムカつくけどよく考えたら俺が悪いからな」
「そうかよ。案外物わかりがよくて安心したぜ。…まぁそこまでの猛毒にはならねぇと思うから安心しな。薬にもならねぇけど」
「だから何だったんだ、アレは?」
「飲まずに吐き出せたんだから気にするな」
啓介は恨めしそうに仁志を睨み、呟いた。
「…これでナイトキッズに負けたらお前のせいだからな」