政志は人史を翻弄したスプリンタートレノの正体を明かす。その正体とは、政志の知り合いの豆腐屋の親父とその配達車という、あまりにも近くにいる人物と車であった。
藤原とうふ店はいつもの通り、暇な昼下がりを迎えていた。夕方は地元の主婦がボウルやタッパーを片手に豆腐を買いに来るが、昼間はいつも暇なものである。壁掛け型の電話が、静まり返った店舗兼住居に無機質な電子音を響かせる。
「はい、藤原とうふ店」
「文太か。俺だ。政志だ」
「なんだ、お前か。整備代ならもう振り込んだろ?」
「なんだよ、つれねぇな。その話じゃねぇっての」
「何の用だ。こちとら商売してんだ」
「何をお前、豆腐屋。この時間は大体暇だろ」
「まあそうだけどよ」
「うちの仁志が今朝、客の車の試運転で秋名に行っててな。下りでお前に抜かれたって話をしてたからよ、電話したんだ。色々衝撃だったみたいだぜ」
「何の話だ?」
「いや、今朝お前、配達帰りに五連ヘアピンの三つ目で溝落とししてワインレッドの32のセダン抜いたろ?あれがうちの仁志だったんだよ」
「あぁ…それは俺じゃねぇな」
「いやいや、溝落とし使うパンダトレノなんてお前しかいねぇだろ。車種まで覚えてたぜ、アイツ」
「ンあ…何というか…クルマは俺のだけどよ、運転してたのは俺じゃねぇ」
「どういうことだよ…」
「祐一には昨夜話したんだが、昨夜ハチロク取りに行った時はお前のとこの倅の話になって、俺も祐一もお前に言うタイミングがなくてな…」
時は、前日の夕刻に遡る。市内の国道バイパス沿いにあるガソリンスタンドでは店員の池谷浩一郎が、今年運転免許を取得したばかりの後輩二人、武内樹と藤原拓海を秋名道路へのドリフト体験に誘っていた。その後、すっかり乗り気の武内樹とあまり乗り気ではない藤原拓海の高校生コンビが先に帰り、その後池谷も帰った店舗事務所で、閉店作業を終えた店主、立花祐一はふと思い出したように藤原文太に電話を掛ける。電話の向こうから、いつもの無愛想な声が電話を取った。
「はい、藤原とうふ店」
「おう、文太か。俺だ、祐一だ」
「なんだ、お前か。お前から掛けてくるなんて珍しいじゃねーか」
「うちの若いのが今夜走りに行くって話していたんで懐かしくなってな。それより、お前のハチロクも元気そうじゃねぇか。今朝も見たぞ。合図したのに無視しやがって」
その日の早朝、祐一は足として使っているトヨタ・カムリに乗り、ふらりと秋名道路に寄り道していた。対向車線に見えたヘッドライトが近づき、見慣れた白いトレノが現れる。今日もやっているな、と祐一は挨拶代わりにパッシングランプを点滅させたのだが、トレノは何の反応も示さず、市街地へと飛び去って行ったのである。
「いや、違うな。そいつは俺じゃねぇ」
「何言ってんだ、文太。秋名で、白いハチロクであの時間に豆腐を配達してるのなんてお前以外にいねぇだろ」
「いや、確かにクルマは俺のだけど…乗ってるのは俺じゃねえ。息子の拓海だ」
「何だとォッ!?い、いつからだ!?」
「五年前だ」
息子の拓海とは当然、夕刻に退勤した藤原拓海のことである。今年十八歳を迎えて運転免許を取ったので、五年前というと十三歳、つまり中学生の頃から運転させていたというのである。当然無免許運転である。
「五年前だァ!?毎日か!?」
「毎日だ」
お戯れで一回か二回、誰もいないところでハンドルを握らせた程度だろうと思いきや(とはいえそれでも犯罪は犯罪だが)、毎日同じ経路を無免許運転させていたというのである。
「五年前っていったら中坊だろ。誰かに見つかったらどうするつもりだったんだ」
「別にバレやしねぇよ。朝早いし、田舎だしな。たまにヒヤヒヤすることもあったけど、今はもう免許取らせたから時効だ」
「ばぁかやろ…」
「ところで、今ヒマか?丁度政志のところにハチロク取りに行くんで送ってってくれないか」
「代車とか借りなかったのかよ?」
「日帰り入庫だ。勿体ねぇだろ。固いこと言わずに乗せてけよ」
「ったく、しょうがねぇな。ちょっと待ってろ」
時は再び、土曜日の昼に戻る。政志は唖然とするも、納得した様子である。
「ったく、昔からクレイジーな奴だとは思っていたが、まさか中坊の息子に無免で運転させるとは…でも確かに、五年前からセッティングの注文が変わったもんなぁ。ビギナー向けの内容からステップアップなんて、今更どうしたのかと思ったけど、そうか、拓海のためだったのか」
「どっちかっつーと最初は豆腐の方が大事だったが、思いのほか筋が良くてな。色々細工はしたさ。」
「そうだったのか…。うちの仁志も似たようなもんだ。最初はアイツに居場所があるってことを教えるために色々手伝わせてきたが、途中でアイツにはメカニックの才能があることに気付いてな。家事は折半にして、工場の手伝いを増やしたんだよ。まぁ、まだまだヒヨッコだがな。流石に文太のハチロクはまだ任せられんよ」
「筋がいいなら少しずつ手伝わせたらどうだ?うちの拓海もヒヨッコだ。ヒヨッコ同士ちょうどいいかもしれんぞ」
「珍しいな。文太からそんなこと言ってくれるとは思わなかった」
「あくまで少しずつ、だ。いきなりエンジンとかブレーキとか触らすなよ」
その頃、仁志は級友の西田淳二と秋名道路にいた。破滅願望がなくなったことで遅くなったと仁志自身は自認しているが、死なない程度に安全マージンを残しつつも速いペースで仁志のドリーム50が右へ左へと身を翻し、連続するカーブを抜けていく。後ろから淳二がモッズスクーター風にカスタムされたホンダ・ジョルノに跨り追走する。
(自殺願望がなくなって遅くなったとは思っていたが、まさかシャーに、しかもあんなふざけたジョルノで煽られるとは)
仁志は内心苛立つが、仁志と淳二は関東各所から週末を使って秋名に来たライダー達が引くほどのスピードで秋名道路を下っていた。仁志自身は気づいていないが、仁志が遅いのではなく、淳二が速すぎるのである。そのことには気づかないまま、仁志は麓の広場に入った。淳二も後に続く。
「駄目だ。走れば走るほど遅くなってる」
「そんなことないと思うよ、トシ」
「気休め言うな。そんなミラーとライトのてんこ盛りみたいなふざけたスクーターにも煽られるヤツが速いわけないだろ」
「トシ、何に焦ってるのか知らないけど、顔に出して苛立つのはやめたほうがいい。みんな怖がってる」
仁志は並の人間が幼少期には経験しない辛酸を嘗めて生きてきたため、同世代の他人よりも老けて見える。さらに、負の感情を表に出せばその風貌はまさしく顔面凶器である。現に、広場にいた観光者は皆引いていたし、そそくさと広場を出ていく者さえいた。
(ちょっと前までは、自殺願望があったからこそ全てのカーブに全開で飛び込めてたんだ。頭の中には自殺願望があっても、生存本能か何かがギリギリで生き残ろうと足掻くから、そのうちどんな突っ込み方をしてもギリギリ立て直せるようになった。どうやら俺は、そんなギリギリの走りを繰り返すうち、自分がまるで誰よりも速いかのように錯覚していたらしい…。…こんなことはシャーはおろか誰にも言えんな)
仁志は両の手のひらで自分の両頬を二回叩く。そうして落ち着きを取り戻すと、淳二に向き直る。
「ごめんな。ちょっと色々あってさ」
「気にするな。俺達三年生だし、色々あるよナ」
「帰るか」
帰り際、秋名道路を振り返り、ハチロクめ…、と昨日見た藤原とうふ店のトレノに複雑な思いを抱きながら、仁志はドリーム50のスロットルを捻った。
豆腐屋ハチロクを目撃したことで、仁志の心境には無意識のうちに速さへの渇望のようなものが芽生え始めた。
その正体がわからぬ仁志は、わけもわからぬままただただ苛立つのであった。