ゴースト・ダンジョン・オーバーライド ~イカレマンサーと呼ばれた僕は、最愛の幽霊(ひと)のためにすべてを壊す~ 作:九泉
グシャリ、と湿った音が地下道に響いた。
手応えは悪い。骨を砕く硬い感触のあとに、熟した果実をぶち撒けたような粘着質な感覚が掌に残る。
鉄錆の臭いと、ドブ川のような腐臭。それが混ざり合って鼻腔を突き刺す。
「……ふぅ」
僕は大きく息を吐き出しながら、右手に握ったバールを振り抜いた。
遠心力で、こびりついた緑色の血液がコンクリートの壁に飛び散る。
足元に転がっているのは、頭部がひしゃげたゴブリンの死骸だ。
痙攣していた四肢がだらりと力を失い、動かなくなるのを確認する。これで五匹目。
(この程度の傷は許容範囲。出血量から逆算して……あと三時間は稼働できる。問題ない)
僕は冷静に自分の身体を見下ろした。
白いワイシャツはボロボロに裂け、脇腹からは赤い血が滲んでいる。
さっきのゴブリンが持っていた錆びたナイフが掠めたのだ。
痛みはある。焼けるような、皮膚をヤスリで削られるような鈍痛だ。
けれど、そんなものはノイズに過ぎない。
右手の甲には、吹き矢の毒針が突き刺さっていた。
紫色に変色し始めている傷口を見て、僕は眉一つ動かさずにシャツの袖を歯で食いちぎる。
それを帯状にして、傷口の根本を強く縛り上げた。
(痺れが回る前に処置しないと。解毒ポーションはコストが高い。ここで使うわけにはいかない)
ズキリと走る痛みを意識の外へ追いやる。
こんな痛みよりも、もっと大切なことがある。
僕はゆっくりと振り返った。
そこには、この世で一番美しい人が立っていた。
透き通るような白い肌、夜空を切り取ったような長い黒髪。
そして、僕だけを見つめてくれる慈愛に満ちた瞳。
薄暗いダンジョンの闇の中で、彼女だけが淡い燐光を纏って輝いている。
「お疲れ様です、
僕はバールを持ったままの手を後ろに隠し、できるだけ優しく微笑みかけた。
血と泥に塗れた僕とは対照的に、彼女は塵ひとつない純白のワンピース姿だ。
彼女――
その手は僕の肌をすり抜け、触れることはできない。
けれど、確かに温かさを感じた。……いや、感じた気がした。
『…………』
彼女は言葉を発しない。まだ、喉が形成されていないからだ。
それでも僕には分かる。彼女が「律くん、無理しないで」と言ってくれているのが。
「大丈夫ですよ。僕は『テイマー』ですから。
そう、僕の探索者としてのジョブは【
本来であれば、強力な魔物を数多く使役し、それを壁にして後方から指揮を執るのがセオリーだ。
人間よりも遥かに頑強なモンスターを盾にし、矛にする。それがテイマーの戦い方だ。
だが、僕が連れているのは彼女だけ。
ダンジョンで自然発生する最弱のFランクモンスター、【ウィスプ】。
実体を持たず、攻撃力も皆無に等しい、ただ浮遊するだけの存在。
だから、僕が戦う。
彼女に傷一つつけさせるわけにはいかない。
彼女は僕の全てで、僕の世界そのものなんだから。
「さあ、これを受け取ってください。少しずつですけれど、必ず元の姿に戻れますから」
僕はゴブリンの胸部をナイフで切り裂き、心臓付近に埋まっていた小指大の結晶――『魔石』を取り出した。
袖で軽く汚れを拭い、それを彼女の前に差し出す。
皐月さんが嬉しそうに目を細めた。
彼女がそっと口を開く仕草をするのと同時に、魔石がふわりと浮き上がり、彼女の胸元へと吸い込まれていく。
淡い光の粒子となって、彼女の霊体に溶け込んでいった。
燐光が、一度だけ強く瞬く。
まるで「おいしい」と言ってくれているみたいだ。
(よかった。これでまた少し、
胸の奥が温かいもので満たされる。
脇腹の傷も、毒針の痺れも、この幸福感の前では些細な代償だ。
薄暗い通路の向こうから、また新たな呻き声が聞こえてきた。
ゴブリンの増援だ。
僕は緩みかけた表情を引き締め、再びバールを握り直す。
「下がっていてください、皐月さん。僕が守ります」
彼女を背後に庇うように立ち塞がる。
テイマー固有のスキル【
本来は「魔物が主人のダメージを肩代わりする」ための非道なスキルだ。
だが、僕はその対象設定を逆転させている。
もし万が一、敵の攻撃が彼女を掠めたとしても、その痛みと傷はすべて僕の肉体に転送される。
彼女は痛みを感じない。傷つかない。
その代わり、僕の身体が弾け飛ぶかもしれないけれど、それは必要経費だ。
「……ギ、ギギャ?」
角を曲がってきたゴブリンが、僕を見て足を止めた。
獲物であるはずの人間が、血塗れの形相で、バールを構えて笑っている。
その異様さに、魔物である彼らが怯んだのが分かった。
「邪魔をするなら、壊します」
僕は地面を蹴った。
筋肉が悲鳴を上げ、肋骨が軋む音が体内で響く。
けれど、僕は止まらない。
愛する人を守るための、幸せな蹂躙が再び幕を開ける。
*
もし、この場に第三者がいたとしたら。
その光景は、まったく違ったものに見えていただろう。
薄暗いダンジョンの通路。
制服を血に染めた痩せた少年が、凶器を振り回して魔物を撲殺している。
その少年の背後には、美しい女性など存在しない。
そこに漂っているのは、顔のない、不定形の白いガス体。
ゆらゆらと不気味に蠢く低級の魔物が一体いるだけ。
少年は優しく語りかけながら、得体の知れないガス体に魔石を捧げ、恍惚とした表情を浮かべている。
それは、端から見れば狂気以外の何物でもなかった。
けれど、少年――藍川律《あいかわ りつ》にとっては、紛れもない愛の物語だった。