ゴースト・ダンジョン・オーバーライド ~イカレマンサーと呼ばれた僕は、最愛の幽霊(ひと)のためにすべてを壊す~ 作:九泉
##
湿った靴音が、静寂を取り戻した洞窟に反響する。
僕はバールについた脂肪と血液を、ズボンの裾で無造作に拭い取った。完全には落ちないが、グリップが滑らなければそれでいい。
「……待って。ねえ、待ちなさいってば!」
背後から水飛沫を上げる音が聞こえ、僕は仕方なく足を止めた。
振り返ると、先ほどの弓の人が、息を切らして追いついてきたところだった。
彼女は警戒心を隠そうともせず、僕と、僕の斜め後ろに浮遊する皐月さんを交互に見ている。
「何か用ですか? 魔石の分配なら、トドメを刺したのは僕なので譲れませんよ」
探索者間のトラブルで最も多いのがドロップアイテムの権利争いだ。
僕はアイアン・ゲイターから剥ぎ取った魔石が入ったポーチを、さりげなく手で覆った。
「そんな話してないわよ! 君、怪我! 左腕、痛むんじゃないの?」
彼女が指差した先、僕の左腕は赤く腫れていた。
「ああ、これですか。たぶん、ただの打撲ですよ。指は動くし神経系に異常はない。帰還してから治療すれば問題ありません」
「問題大ありよ! その状態で探索を続ける気? 自殺志願者なの?」
「皐月さんのための魔石が、まだ目標数に達していませんから」
僕は当然の事実として告げた。
今日は魔石をあと三つは確保したい。皐月さんを安定させるには、質の良い触媒が必要不可欠だ。
弓の人は信じられないものを見る目で僕を見つめ、それから視線を僕の背後へとずらした。
そこには、心配そうに僕の腕を覗き込む皐月さんがいる。
透き通るような白い肌。長い睫毛が震え、悲しげに眉を寄せている。
「……君には、それが『サツキさん』に見えてるのね」
「見えているも何も、ここにいますから」
「私には……黒いコールタールみたいな靄が、人の形を真似て蠢いているようにしか見えないわ」
彼女の声がわずかに震えていた。
やはり、他人にはまだ見えにくいらしい。
霊体というのは不安定だ。観測者の魔力知覚能力によって見え方が異なるとネットで読んだことがある。
彼女の目が悪いのか、あるいは皐月さんの能力が高いのか。
「そうですか。それは残念だ。こんなに美しいのに」
僕は皐月さんに微笑みかけた。
彼女は弓の人の言葉に傷ついた様子もなく、ただひたすらに僕の腕を案じてくれている。
その優しさが、痛みを和らげてくれる気がした。
「……はぁ。もういいわ」
瑛奈さんが大きく溜息をつき、弓を背中に戻した。
そして腰のポーチから包帯とスプレー缶を取り出す。
「腕、出しなさい。応急処置くらいしてあげる」
「いえ、結構です。ポーションも持っていますし」
「いいから! 私が見てられないの!」
彼女は強引に僕の左腕を掴んだ。
ズキリと痛みが走るが、彼女の手際は驚くほど良かった。
冷却スプレーで患部を冷やし、添え木代わりの金属プレートを当て、手際よく包帯で固定していく。慣れている。おそらく、何度も修羅場をくぐってきたのだろう。
「……ありがとう、ございます」
「礼には及ばないわ。ソロ同士、助け合いは必要経費みたいなものでしょ」
彼女はぶっきらぼうに言いながら、包帯の端を結んだ。
それから、少しだけ声を潜めて尋ねてきた。
「君、名前は?」
「……藍川、律です」
「ねえ、藍川君。忠告しておくけど……そのモンスター、早めに処分した方がいいわよ」
場の空気が凍りついた。
いや、冷たくなったのは僕の心だけかもしれない。
僕は包帯を巻かれた腕を撫でながら、ゆっくりと顔を上げた。
「今、なんと?」
「だから、そのテイムモンスターのことよ。放つ気配が異質すぎる。ただのウィスプには思えない。なんだか、いつか君を――」
「訂正してください」
僕の声は、自分でも驚くほど低く響いた。
「彼女はモンスターじゃない。僕の大事な人だ。処分なんて言葉、二度と口にしないでいただきたい」
弓の人が息を呑むのが分かった。
僕の目を見て、たじろいだのだ。
おそらく今の僕は、酷い顔をしている。自分でも制御できない怒りが、腹の底から湧き上がっていた。
皐月さんを侮辱することは、僕の生きる意味を否定することと同義だ。
『…………』
背後で、空気が揺れた。
皐月さんが、スッと僕の前に出てくる。
怒りで震える僕を宥めるように、彼女は弓の人との間に割って入ったのだ。
弓の人の顔色が、一瞬で蒼白になった。
「ヒッ……!?」
彼女は弾かれたように後退り、尻餅をついた。
ガタガタと震えながら、皐月さんを指差している。
「な、なによ今……! 笑った……? 裂けて、笑った……!?」
「え?」
僕は皐月さんを見た。
彼女は困ったように眉を下げ、僕の方を振り返っている。
どこからどう見ても、争いを止めようとする聖女のような表情だ。
弓の人は一体、何を見ているのだろう。幻覚でも見ているんじゃないか。
「皐月さんは『喧嘩はやめて』と言っています。……あなたは疲れているようだ」
僕は興醒めした気分で、バールをホルスターに戻した。
これ以上、彼女と一緒にいるのは精神衛生上良くない。何より、皐月さんが悲しむ。
「……これで貸し借りなしです。行こう、皐月さん」
僕は弓の人に背を向け、水没回廊の奥へと歩き出した。
皐月さんが、少し申し訳なさそうに弓の人に一礼してから、僕の後をついてくる。
なんて礼儀正しく、慈悲深い人なんだろう。
なのに処分、だなんて、言いがかりも甚だしい。
背後で弓の人が何か言っていたが、水音にかき消されて聞こえなかった。
*
それから一時間ほど、僕はひたすら狩りを続けた。
水没回廊の中ほどにある広間。ここは水深が膝下ほどあり、足場が悪い代わりに魔物の湧きが良いポイントだ。
バシュッ!
水面を割って飛び出してきた【キラーフィッシュ】の群れ。
鋭利な牙を持つ巨大なピラニアのような魔物だ。
空中に飛び出し、集団で獲物に食らいつく習性がある。
「【アタック・フォース】!」
僕はテイマーの支援魔法を、自身にかけた。
本来は魔物の爪や牙を強化する魔法だ。だが、対象に自分を強くイメージすることで、強引に適用させる。
バールが淡い赤光を帯びる。攻撃力上昇の輝きだ。
一匹、二匹、三匹。
飛来する魚の軌道を見切り、バールを野球のバットのようにフルスイングする。
グシャ! ベチャッ!
硬い鱗と骨が砕け、魚のすり身のような肉片が周囲に飛び散る。
「四匹目!」
バックステップで噛みつきを躱し、着水した瞬間を狙って脳天をカチ割る。
汚い音がして、水面が赤黒く染まっていく。
(左腕が使えない分、バランスが取りにくい。でも、やれる)
キラーフィッシュはDランク相当の雑魚だが、数が多い。
群れを全滅させた頃には、僕は頭から泥水を被ったような有様だった。
肩で息をしながら、水面に浮いた魔石を回収していく。
「ありましたよ、皐月さん。水の魔石です」
キラーフィッシュの体内から出た、小石サイズの青い結晶。
それを指でつまんで掲げると、待機していた皐月さんがふわふわと近づいてきた。
今の彼女は、先ほどよりも一回り大きく見える。
先ほどのアイアン・ゲイターの魔石を与えた影響だろうか。
純白のワンピースの裾が、水面に触れるギリギリのところで優雅に揺らめいている。
「どうぞ。たくさん食べて、早く元気になってください」
彼女は嬉しそうに微笑み、魔石に口づけをするような仕草をした。
その瞬間、魔石が青い粒子となって崩れ、彼女の胸のあたりに吸い込まれていく。
ドクン、と。
心臓の鼓動のような音が、周囲の空気を震わせた気がした。
『――――』
皐月さんの輪郭が、一瞬だけブレた。
光が増す。いや、光の中に、より濃い影のようなものが混じったような……。
彼女の髪が、ふわりと舞い上がる。
その長さが、今までよりも伸びている気がした。腰までだった黒髪が、今は膝の裏あたりまで届いている。
(成長している……!)
僕は確かな手応えを感じていた。
Fランクのウィスプだった彼女が、今は明らかにその枠を超えようとしている。
魔力を吸収し、僕の記憶にある「村瀬皐月」という存在へと近づいているのだ。
ふと、彼女が僕の顔を覗き込んできた。
その瞳は、以前よりも深く、吸い込まれそうなほど暗い黒色をしていた。
彼女はそっと手を伸ばし、僕の頬についた魚の血を拭う動作をした。
冷たい。
指先の感触が、今までよりも鮮明だ。
実体を持たないはずの霊体なのに、まるで氷に触れられたような明確な温度を感じる。
「……
僕は感動で声を震わせた。
すごい。受肉へのプロセスは順調だ。
あとどれくらい魔石を与えれば、彼女を抱きしめることができるだろうか。