ゴースト・ダンジョン・オーバーライド ~イカレマンサーと呼ばれた僕は、最愛の幽霊(ひと)のためにすべてを壊す~ 作:九泉
ダンジョンの空気は、いつだって湿った鉄の味がする。
かつて地下鉄の通路だった場所が異界へと侵食され、コンクリートの壁には血管のように脈打つ植物の蔦が這い回っている。蛍光灯はとっくに砕け散り、代わりにダンジョン特有の発光苔が、病的な緑色の光を投げかけていた。
彼女のジョブは【アーチャー】。斥候としての技能も持ち合わせているため、気配を断つことにかけては手慣れたものだ。だが今の彼女は、獲物を狙う狩人というよりは、得体の知れない怪物を恐る恐る覗き込む子供のような心持ちだった。
(私、なんでこんなことしてるんだろ……)
瑛奈は自嘲気味に息を吐く。
視線の先、三十メートルほど前方を歩く少年の背中があった。
藍川律。
高校の制服であるブレザーの代わりに、サイズの合っていない無骨な革鎧を胸当てだけ装着し、手にはホームセンターで買えるようなバールを提げている。
昨日の、あの言葉が耳にこびりついて離れない。
――『彼女はモンスターじゃない。僕の大事な人だ。処分なんて言葉、二度と口にしないでいただきたい』
何を考えているのかわからない大人しい少年が、あの一瞬だけ見せた、凍てつくような殺気。
あれは、正常な探索者の反応ではなかった。
(……どう見ても、ゴーストじゃない)
律の背後には、今日もあの黒い靄が漂っている。
不定形で、意思など希薄なはずのガス状の魔物。しかし律は時折、それに向かって優しげに何かを囁きかけ、愛おしそうに振り返るのだ。まるでそこに、生きた人間が存在するかのように。
「……気持ち悪」
思わず口をついて出た言葉は、嫌悪というよりは恐怖に近い。
瑛奈は身を屈め、崩れた柱の陰から彼を観察し続ける。
律の歩き方は奇妙だった。
ダンジョンの床は、崩落した瓦礫や魔物の排泄物、乾いた体液で汚れている。通常の探索者なら、汚れることを嫌って足早に通り過ぎるか、あるいは無頓着に踏み荒らしていく場所だ。
だが律は、時折立ち止まり、足元の瓦礫を丁寧に足で退かしている。
それも、自分が歩くためではない。
自分の後ろを「歩く」ゴーストのために、わざわざ道を平らにしているように見えるのだ。
(浮いてる魔物に、足場なんて関係ないでしょ……?)
その過剰な配慮が、瑛奈の背筋を寒くさせる。
彼の世界では、その黒い靄は地面を歩く人間として認識されているということか。
認知の歪み。精神汚染。
ダンジョンに長く潜りすぎた探索者が罹る病の一種かとも疑ったが、彼はまだ駆け出しのはずだ。
その時、前方の空気が変わった。
通路の奥、暗がりから複数の赤い瞳が光る。
「ギャッ、ギャウッ!」
耳障りな鳴き声と共に現れたのは、小鬼――ゴブリンの群れだった。
数は六体。錆びついた短剣や、棍棒を手にしている。
この階層ではありふれた敵だ。だが、ソロの前衛職、それも本来戦闘向きではない【テイマー】が相手にするには、少し荷が重い数である。
(六体……。囲まれたら厄介ね。援護した方がいいかしら)
瑛奈が腰の矢筒に手を伸ばしかけた、その時だった。
律の動きが、それまでとは一変した。
「……下がっていてください、皐月さん」
静かな、けれど有無を言わせぬ声が聞こえた。
律は愛おしげに黒い靄へ声をかけると、くるりと踵を返し、ゴブリンの群れへと向き直る。
その表情からは、先ほどまでの慈愛が嘘のように消え失せていた。
あるのは、ただの作業に向かう事務的な無感動と、その奥底に沈殿した昏い冷徹さだけ。
「ギヒッ!」
先頭のゴブリンが飛びかかる。
律は逃げない。盾となるべき魔物を前に出すこともしない。
代わりに、彼自身が踏み込んだ。
「【
短くスキル名を唱える。
本来、テイマーが使役魔物に掛けるべきバフスキル。筋繊維を強制的に活性化させ、一時的に爆発的な出力を生むスキルだ。
それを、彼は自分自身の肉体に行使した。
ビチチッ、と筋肉が悲鳴を上げるような音が、瑛奈の耳にも届いた気がした。
人間の体は、魔物ほど強靭ではない。魔物用の強化魔法を人間に使えば、反動で筋断裂や骨折のリスクがある。
だが律は、痛覚など存在しないかのように加速した。
ゴブリンの錆びた短剣が律の頬を掠める。
律は瞬き一つしなかった。
紙一重で躱すことすらしない。最小限の動きで急所だけを外し、肉を切らせて距離を詰める。
そして、右手のバールを振り抜いた。
ゴッ、という湿った破砕音。
バールの鋭角な先端が、ゴブリンの側頭部に深々と突き刺さる。
脳漿と血飛沫が舞う。
律は表情を変えずに手首を捻り、刺さったバールを引き抜くと同時に、その勢いを利用して回し蹴りを放った。
蹴り飛ばされたゴブリンの死体が、後続の二体を巻き込んで転倒する。
(な、なにあの動き……!)
瑛奈は目を見開いた。
洗練された武術の動きではない。
泥臭く、暴力的で、そして異常なほどに効率を重視した殺し方だ。
自分の怪我を度外視している。普通なら躊躇うような相打ち覚悟のタイミングで踏み込み、確実に相手の息の根を止める急所だけを狙っている。
「ギャギャッ!?」
一瞬で仲間が瞬殺されたことに動揺したゴブリンたちが、左右に散開して律を囲もうとする。
だが、律の目は彼らを敵として見ていなかった。
ただの「処理すべき障害物」として処理していた。
律はポケットから何かを取り出し、床に叩きつける。
パンッ! という破裂音と共に、刺激臭のする煙が充満した。
目潰しの煙幕だ。
ゴブリンたちが咳き込み、視界を奪われて混乱する。
その煙の中を、律は躊躇なく突っ切った。
ボグッ。グシャッ。
鈍い音が連続して響く。
煙の中で、律は正確にゴブリンの位置を把握していた。
彼の視線は、ゴブリンではなく、その背後にある壁の反射や、足音の反響に向けられているようだった。
あるいは、彼自身の感覚が、すでに人間離れした領域で研ぎ澄まされているのか。
(違う……)
瑛奈は見てしまった。
律がゴブリンの喉笛をバールで掻っ切る瞬間、彼が一瞬だけ後ろを振り返ったのを。
そこには、煙に巻かれないように、少し離れた位置で漂う黒い靄があった。
(彼は、自分の身を守るために戦ってるんじゃない。
律は、わざと大きな音を立て、わざと血を晒していた。
自分を餌にして、魔物の意識を皐月という存在から逸らすために。
煙が晴れる頃には、六体のゴブリンはすべて肉塊に変わっていた。
戦闘時間は、五分にも満たない。
律の呼吸は乱れていた。肩で息をし、頬の切り傷からは血が流れて顎を濡らしている。シャツの袖は返り血で赤黒く染まり、バールの先端からはドロリとした液体が滴り落ちていた。
「……ふぅ」
律は小さく息を吐き、袖口で乱暴に顔の血を拭う。
そして、足元に転がるゴブリンの死体を見下ろした。
その死体は、通路の真ん中で道を塞ぐように横たわっている。
律の瞳から、戦闘中の無機質な光が消え、代わりに底冷えするような嫌悪の色が浮かんだ。
「汚いな」
律は呟くと、ゴブリンの死体の腹部に躊躇なくつま先を突き刺した。
ドサッ、と死体が壁際へ吹き飛ぶ。
まるで汚物を掃除するように、彼は残りの死体も次々と通路の端へと蹴り飛ばしていく。
その際、内臓がはみ出ようが、骨が折れる音がしようが、お構いなしだ。
むしろ、通路の中央が
そして、すべての死体を片付けると、彼はポケットからハンカチを取り出し、自分の手とバールを入念に拭い始めた。
ゴブリンの血がついたままではいけない、とでも言うように。
その指先が震えているのは、【
身なりを整え終わると、律は再び、あの穏やかな少年の顔に戻った。
背後の黒い靄に向かって、血の気の失せた唇で微笑みかける。
「お待たせしました、皐月さん。少しゴミが散らかっていましたが、もう大丈夫です」
彼は手を差し伸べる仕草をする。
そこには誰もいない。
だが律の手は、空中で何か柔らかいものを包み込むような形を作っていた。
「足元、気をつけてくださいね。血溜まりがありますから。僕が抱えましょうか? ……ああ、いえ、まだ服が汚れていますね。すみません、僕がもっと上手くやれればよかったんですが」
律は心底申し訳なさそうに眉を下げ、自分の血で汚れたシャツを恥じるように隠した。
まるで、初デートで失敗した少年のような初々しさで。
周囲には、つい先ほど彼自身が撲殺した死体が転がり、鼻を突く血臭が充満しているというのに。
「……行きましょうか」
律は誰もいない空間をエスコートしながら、再び歩き出す。
その背中は、あまりにも痛々しく、そして狂気に満ちていた。
隠れていた瑛奈は、吐き気を堪えるように口元を押さえた。
生理的な嫌悪と、理解不能なものへの畏怖。
そして、ほんのわずかな――哀れみ。
(あの子、壊れてるなんてレベルじゃない)
イカレマンサー。
誰かが言ったそのあだ名は、これ以上ないほど的確で、そして残酷な響きを持って瑛奈の胸に落ちた。
放っておくべきだ。
あんなのに関われば、ろくなことにならない。
探索者としての勘がそう告げている。
だが、瑛奈の足は、なぜか彼とは逆の方向へ向かうことを選べなかった。
律の背中が、薄暗いダンジョンの奥へと消えていく。
その先には、さらなる深淵が待っているというのに。
(……見届けてやるわよ。アンタがどこまで落ちていくのか)
瑛奈は覚悟を決めたように舌打ちを一つすると、再び気配を殺し、血の跡が続く通路へと足を踏み入れた。
*
律の視界は、瑛奈が見ているものとは全く異なっていた。
彼にとって、このダンジョンは、愛する人との散歩道だ。
確かに空気は悪く、化け物たちが徘徊する危険な場所ではある。だが、隣に皐月がいるというだけで、この腐臭漂う地下道は黄金の宮殿にも勝る輝きを帯びていた。
「律くん、顔色が悪いわよ。無理してない?」
鈴を転がすような、透き通った声が律の脳内に響く。
律は隣を歩く皐月を見つめた。
今日の彼女は、生前によく着ていた清楚な白いブラウスに、膝丈のスカート姿だ。長い黒髪が、地下の風もないのになびいている。
その肌は透けるように白く、儚げで、けれど確かにそこに在る。
「大丈夫ですよ、皐月さん。これくらい、なんてことありません」
律は痛む脇腹を悟られないように、背筋を伸ばして答える。
【
呼吸をするたびに、肺の奥から鉄の味が競り上がってくる。
だが、そんなことは些細な問題だ。
重要なのは、皐月さんが無事であること。
先ほどのゴブリンとの戦闘。
律が一番恐れていたのは、ゴブリンの汚らわしい血が、皐月さんの白い服に跳ねることだった。
だから彼は、ゴブリンの攻撃を受けることよりも、血飛沫の方向を制御することに腐心した。
自分の体で壁を作り、飛び散る血を全て受け止める。
その結果、自分の服は汚れてしまったが、皐月さんは綺麗なままだ。
それでいい。それがいい。
(僕の血で、貴女が汚れないように。僕の体で、貴女の痛みを受け止められるように)
律は自分の掌を見る。
血と泥に塗れた、不浄な手。
かつて家庭教師として勉強を教えてくれていた頃、彼女はこの手を握り、「律くんの手は綺麗ね」と褒めてくれた。
ピアニストにでもなれそうな、細くて長い指だと。
今のこの手を見たら、彼女はどう思うだろうか。
人殺しの道具のように、無骨な鉄塊を握りしめ、魔物の頭蓋を砕く感触を覚えたこの手を。
(……いいんだ。この手が汚れるほど、貴女は輝くんだから)
律は視線を前方に戻す。
ダンジョンの奥から、また新たな魔物の気配が漂ってくる。
恐怖はない。
あるのは、彼女への供物を捧げられるという歓喜と、守護者としての使命感だけ。
「さあ、次はどんな魔石が手に入るかな。楽しみですね、皐月さん」
律が語りかけると、隣の皐月は、心配そうに眉を寄せながらも、ふわりと微笑んでくれた。
その笑顔を守るためなら、律はどんな地獄でも喜んで歩いていける。
たとえその道が、自分の血と、他者の死体で舗装された外道であったとしても。
律はバールを握り直す。
指の関節が白く浮き出るほどに、強く、強く。
その掌の温もりが、冷え切った彼の心を唯一繋ぎ止める鎖だった。
(まだ足りない。もっと強い魔石を。もっと多くの魂を。貴女を完全にこちらの世界に引き戻すためには、僕の命なんて安いものだ)
律の瞳の奥で、狂気の灯火が静かに、しかし激しく燃え上がっていた。
それはあまりに歪で、けれど誰よりも純粋な、祈りにも似た執着だった。