ゴースト・ダンジョン・オーバーライド ~イカレマンサーと呼ばれた僕は、最愛の幽霊(ひと)のためにすべてを壊す~ 作:九泉
肺の奥に、焼けつくような鉄の味が張り付いている。
呼吸をするたびに、肋骨のヒビが内側から肺を突き刺すような鋭い痛みを訴えてくる。先ほどのゴブリンの群れとの戦闘で負った代償は、決して安くはなかった。
けれど、僕の足取りは驚くほど軽い。
痛覚信号は脳に届いているはずなのに、それを幸福感が上書きしていく。
(……ああ、いいな)
僕は薄暗いダンジョンの通路を進みながら、熱を帯びた呼気を吐き出した。
身体が悲鳴を上げている。それは僕が戦った証拠だ。
僕が傷つくことで、彼女が傷つかずに済んだという証明だ。
その事実が、鎮痛剤よりも強力に意識を昂らせていた。
「この辺りは足場が悪いですね。滑りやすいから気をつけて」
僕は背後を振り返り、柔らかく声をかける。
そこには、僕の最愛の人――
今日の彼女は、先日プレゼントした魔石のおかげか、肌の血色がとても良い。
白いワンピースの裾をつまみ、水たまりを避けるように優雅に宙を舞う姿は、まるで夜の湖畔に降り立った妖精のようだ。
彼女は僕の言葉に、こくりと頷いて微笑む。
その笑顔を見るだけで、身体の痛みなど遠い世界の出来事のように思えてくる。
『…………』
彼女の唇が動く。まだ声帯が形成されていないため音は聞こえないが、僕には分かる。
『律くんこそ、血が出てるわ』と、眉を下げて心配してくれているのだ。
「問題ありません。これは僕の血じゃなくて、返り血が大半ですから」
それは半分嘘で、半分本当だ。
シャツに染み込んだ赤黒いシミのいくつかは、確実に僕自身の血管から流れ出たものだ。
けれど、彼女に余計な心配をかけたくはない。
僕は平静を装い、握りしめたバールのグリップを確かめる。
手汗と脂、そして乾きかけた血液で、グリップは吸い付くように掌に馴染んでいた。
現在地は、Dランクダンジョンの深層域手前。通称『
壁面には発光する苔がびっしりと張り付き、視界全体を病的な緑色に染め上げている。
空気は重く、湿度が高い。
生物が腐ったような甘ったるい悪臭が漂い、普通の人間なら数分で吐き気を催すような環境だ。
だが、僕にとってはここが職場であり、彼女とのデートコースだ。
二人きりの時間を邪魔するものは、すべて排除しなければならない。
(……来たか)
不意に、肌にまとわりつく湿気が重さを増した気がした。
風の流れが変わる。
奥の暗がりから、先ほどのゴブリンたちとは明らかに質の異なる、濃密な殺気が滲み出していた。
僕は足を止め、スッと右足を引いて重心を落とす。
皐月さんには、手で合図をして後ろに下がってもらう。
「……下がっていてください。少し、大物が来たようです」
暗闇の奥から響いてきたのは、湿った岩同士を擦り合わせたような、重苦しい足音だった。
ズズッ、ズズッ、と何かを引きずる音が近づいてくる。
やがて、緑色の燐光の中にその巨影が浮かび上がった。
身長は二メートルを優に超えている。
全身が分厚い緑色の鱗と、鋼鉄のように硬化した甲殻に覆われている。
頭部は爬虫類のそれだが、知性を感じさせる濁った黄色い瞳が二つ、ギョロリと僕を品定めしていた。
手には、身の丈ほどもある巨大な戦斧が握られている。
「……【
僕は小さく舌打ちをした。
Cランクモンスター。
通常、Dランクダンジョンのこの階層には出現しないはずの個体だ。いわゆる「
一般的な探索者のセオリーで言えば、Cランクモンスターは四人から六人のパーティで挑む相手だ。
前衛が盾となり攻撃を受け止め、後衛が魔法や弓で削り、回復役が戦線を維持する。
それだけの厚みがあって初めて、安定して狩れる相手だ。
対して、こちらの戦力は僕一人。
武器はホームセンターで買ったバール一本。防具は急所を守るだけの軽装。
そして何より、絶対に守らなければならない「彼女」が背後にいる。
(逃げるか?)
一瞬、その選択肢が脳裏をよぎる。
だが、即座に否定した。
ここは一本道だ。背後には皐月さんがいる。
僕が逃げれば、彼女が無防備な背中を晒すことになる。
それに、あの巨体だ。旋回速度は遅くても、直線的な突進速度は人馬一体の騎士にも劣らないと聞く。逃げ切れる保証はない。
(やるしかない)
覚悟を決めると同時に、思考が冷徹に切り替わる。
恐怖は消えない。だが、それを上回る使命感が、震える膝を無理やり固定する。
「グルルルルゥ……」
リザードマン・ジェネラルが、喉の奥から重低音の威嚇音を漏らした。
獲物が逃げないと悟ったのか、ゆっくりと戦斧を構える。
その動作だけで風が巻き起こり、床の水たまりが波紋を描いた。
圧倒的な質量差。
一撃でも喰らえば、僕の細い身体など紙屑のように吹き飛ぶだろう。
だからこそ、必要なのだ。
人間であることを辞めるほどの、狂気的な強化が。
「――【
僕は詠唱と共に、魔力を血管へと流し込んだ。
本来、強靭な肉体を持つ魔物にかけるべき支援魔法。
それを人間の脆弱な肉体に適用する。
バチチッ!
全身の筋肉繊維がきしみ、過剰な負荷に悲鳴を上げる。
心臓が早鐘を打ち、血液が奔流となって体内を駆け巡る。
脳のリミッターが強制的に解除され、視界が白く明滅した。
痛い。
全身を万力で締め上げられるような激痛。
だが、これでいい。
この痛みがある限り、僕は魔物と対等に渡り合える。
さらに、僕はもう一つのスキルを重ねがけする。
「【
赤い波動が僕の身体から立ち上り、リザードマンに向かって放たれる。
敵の注意を強制的に引きつけ、攻撃対象を自分のみに固定するタンク用スキル。
これも本来は、ゴーレムやタートル系などの防御力の高い盾役の魔物にかけ、テイマー自身を守らせるためのものだ。
だが、僕はこの場における「盾」であり「矛」だ。
すべての殺意は、僕が引き受ける。
皐月さんには指一本、視線一つ向けさせない。
「――来いよ、爬虫類」
バールを構え、僕は挑発的に笑ってみせた。
リザードマンの瞳孔が収縮し、明確な殺意が僕一点に集中する。
「ガアアアアアッ!!」
咆哮と共に、巨体が弾かれたように突っ込んできた。
速い。
巨体に見合わぬ瞬発力。床のコンクリートを踏み砕きながら、瞬きする間に間合いを詰めてくる。
戦斧が振り上げられる。
風を切る音などしない。空気を爆ぜさせる轟音だ。
(見える……!)
【身体強化】によって加速した思考が、スローモーションのように敵の軌道を捉える。
上段からの唐竹割り。
単純だが、それゆえに回避が難しい必殺の一撃。
避けるなら、右前方。
敵の脇をすり抜けるようにステップを踏めば、カウンターで脇腹にバールを叩き込める。
それが、対人戦や通常の魔物戦における正解だ。
だが――僕は動かなかった。
もし、僕が右に避ければ。
振り下ろされた戦斧は地面を叩き、その衝撃波と飛び散る礫(つぶて)は、扇状に広がる。
僕の背後、左後方には、皐月さんがいる。
礫の一つでも、彼女の純白のドレスを汚すかもしれない。衝撃波が、彼女の可憐な髪を乱すかもしれない。
それは「被弾」だ。
僕にとっては、死に値する失態だ。
(避けられないなら、受けるまで!)
僕は奥歯が砕けるほど噛み締め、バールを両手で持ち上げ、斜めに構えた。
受け流すのではない。
衝撃のすべてを、この身で殺す。
ガギィイイイイイイッ!!
凄まじい金属音が鼓膜を破った。
戦斧の刃がバールに噛み合う。
圧倒的な重量が、頭上から降り注ぐ。
「ぐ、ぅううううッ!!」
膝が笑うどころの話ではない。
足元のコンクリートが蜘蛛の巣状にひび割れ、靴底が地面にめり込む。
両腕の骨がミシミシと軋み、肩の関節が外れそうになる。
【身体強化】で無理やり強度を上げていなければ、今頃上半身が潰れていただろう。
「お、も……いッ!」
視界の端で、赤い警告色が点滅する。
血管が切れ、鼻からツーと温かいものが垂れた。
口の中も鉄の味で満たされる。内臓が圧迫され、微細な損傷を起こしているのだ。
だが、僕は一歩も引かなかった。
戦斧は僕のバールで完全に止まっている。
後ろへの余波はない。皐月さんには風圧さえ届いていないはずだ。
「――っは、はハッ!」
喉から、引き攣った笑い声が漏れた。
守りきった。
その事実が、苦痛を凌駕する快感となって脳を焼く。
リザードマンの目が、驚愕に見開かれていた。
人間ごときが、しかも細身の少年が、己の一撃を正面から受け止めたことが信じられないのだろう。
その隙を、僕は見逃さない。
「【
限界を超えていた筋肉に、さらに魔力を注ぎ込む。
ブチブチッ、と腕の筋繊維が数本断裂する音が、体内音として響いた。
構わない。
あとでポーションを飲めば治る。今は、この一瞬の出力が必要だ。
「どけぇええええッ!!」
咆哮と共に、僕はリザードマンの戦斧を強引に跳ね上げた。
体格差を無視した馬鹿力に、リザードマンの体勢が大きく崩れる。
がら空きになった腹部。
硬い鱗に覆われているが、内側までは鍛えられない。
僕はバールを逆手に持ち替え、弾丸のように踏み込んだ。
狙うは、鱗の隙間ではない。
鱗ごと粉砕する一点突破。
ドゴォッ!!
鈍く、重い打撃音が響く。
バールの先端がリザードマンの鳩尾に深々と突き刺さる。
リザードマンが「ゴフッ」と苦悶の息を吐き、膝から崩れ落ちそうになる。
だが、まだだ。
Cランクモンスターの生命力は、これ程度では尽きない。
僕は追撃の手を緩めない。
痛む腕を鞭のように振るい、バールを振る。
膝、肘、喉仏。
関節と急所を的確に、かつ残酷に破壊していく。
リザードマンが反撃しようと腕を振るう。
裏拳のような一撃が、僕の左肩を直撃した。
ゴキリ。
嫌な音がして、左腕の感覚が消える。
脱臼か、あるいは鎖骨が折れたか。
激痛で意識が飛びそうになるが、僕はそれを叫び声に変えて吐き出した。
「痛くない、痛くない、痛くないッ!」
こんな肉体の痛みなど、蚊に刺された程度にも及ばない。
僕は右腕一本でバールを振りかぶる。
相手は既に満身創痍だ。膝を砕かれ、呼吸も荒い。
トドメだ。
だが、その時。
リザードマンが最後のアガキを見せた。
残った力を振り絞り、大きく口を開けて噛みつき攻撃を仕掛けてきたのだ。
武器が使えない距離での、原始的かつ最速の攻撃。
避ける?
いや、ダメだ。
この角度で避ければ、リザードマンの勢いは止まらず、そのまま僕の背後へ雪崩れ込む。
そこには、怯えて震えている皐月さんがいる。
(噛ませる)
判断は一瞬。
僕は回避行動を取る代わりに、使えなくなった左腕を、自らリザードマンの口へと突き出した。
ガブゥッ!!
鋭い牙が肉に食い込み、骨に達する。
鮮血が噴き出し、視界を赤く染める。
咀嚼され、食いちぎられそうになる激痛。
「――捕まえた」
僕は、血塗れの口元を三日月型に歪めた。
左腕を犠牲にすることで、敵の頭部を固定した。
これなら、絶対に外さない。
これなら、絶対に皐月さんの方へは行かせない。
リザードマンの目が、恐怖に染まるのが見えた。
こいつは理解したのだ。
目の前の人間が、命を軽んじている者だということを。
「死ね」
右手のバールを、リザードマンの眼窩に突き入れた。
眼球が破裂し、その奥の脳髄へと鉄の棒が侵入する。
手応えあり。
さらにバールを抉るようにかき回す。
ビクンッ、と巨体が大きく跳ね、そして糸が切れたように脱力した。
ズズ……と重い音がして、リザードマンの巨体が崩れ落ちる。
食いついていた顎の力が抜け、僕の左腕が解放された。
肉は裂け、骨が見えている。血がボタボタと滴り落ち、足元に赤い水たまりを作っていく。
「はぁ……はぁ……はぁ……ッ」
呼吸が整わない。
視界が揺れる。失血のせいか、魔力欠乏のせいか。
膝から力が抜けそうになる。
けれど、僕は倒れるわけにはいかない。
まだ、確認すべきことがある。
僕はふらつく足で振り返り、必死に笑顔を作った。
「……ふぅ。驚かせてすみません。少し、強引な手を使いましたが……怪我はありませんか、皐月さん」
そこには、美しく輝く彼女がいた。
彼女は口元を両手で覆い、悲鳴を上げんばかりの表情で、僕のボロボロの左腕を見つめている。
『…………!』
駆け寄ってくる気配。
冷たい霊体の手が、僕の血まみれの腕に触れようとして、ためらっている。
「大丈夫、です……。かすり傷、ですから」
僕は嘘をついた。
実際には、神経までイっているかもしれない重傷だ。
ポーションを浴びるように使わなければ、後遺症が残るレベルだろう。
ソロの限界。
Cランク相手に、今の僕のやり方――「ソロでタンク兼アタッカー」という狂った戦法は、明らかに破綻している。いつか死ぬ。それは確実な未来だ。
でも。
「……貴女が無事で、よかった」
僕は血に濡れた右手で、彼女の頬をそっと撫でた。
指先に触れる冷たい感触。
それだけで、ちぎれそうな腕の痛みも、焼けつくような肺の苦しさも、すべてが報われる気がした。
視界の端で、リザードマンの死体が光の粒子となって崩れ去り、後に大きな魔石が残された。
Cランクの魔石。
これがあれば、皐月さんはもっと強くなれる。もっと実体に近づける。
「見てください……大きな魔石です。これならきっと……」
言いかけた言葉は、咳き込みと共に途切れた。
口からゴボリと血の塊が溢れる。
ああ、少し無理をしすぎたかな。
視界が暗く狭まっていく。
意識が遠のく中で、僕は皐月さんが必死に僕を支えようとしてくれているのを感じた。
実際には物理的な干渉力などほとんどない彼女の力では、僕の身体を支えることなんてできないはずだ。
それでも、その「想い」が、僕を倒れまいと踏みとどまらせる。
(まだだ……まだ死ねない。彼女が完全に蘇るまでは……)
僕はバールを杖にして、どうにか立ち続けた。
闇の奥から、僕たちの様子を伺う視線を感じた気がしたが、今の僕にはそれを気にする余力さえ残されていなかった。