The Ship who met.(出会った船-ヘルヴァ) 作:六位漱石斎正重
そこにそれまで口を挟まずに傍観していたヘルヴァがある提案をする。どうしてもリードテノールが必要なら私がそれを務めてもよいと彼女は言った。それに興味をそそられたジェナンは、1フレーズほど試しに歌ってみてくれとヘルヴァに提案するのだが……。
ヘルヴァはタナーとジェナンの掛け合いに興味を覚えて黙っていたが、ジェナンはタナーの糾弾もどこ吹く風で、俺には関係ないよといわんばかりに知らない風を決めこんで、ソファに長身の身体を収めたまま、チビチビとアルコールを胃に流し込んでいた。そんなジェナンの様子を見てヘルヴァは遠慮がちにタナーに声をかけた。
「テノールがどうしても必要なら、あたしがやってみるけど……」
「あきれたお嬢さんだ」タナーは少し驚いてそう言った。
船が歌を? 皮肉を帯びるというほどではなかったが、あきらかに訝しげな様子がタナーの声に加わっていた。だが、ヘルヴァのその提案を聞いて敏感に反応した者がいる。ジェナンだ。
彼は明らかに興味を持った様子でソファから体を起こして前のめりになり、手に持ったグラスの中の氷が室内の照明のあかりを乱反射する様子を見つめながら、ヘルヴァに提案した。
「試しにワンフレーズ歌ってみてくれないか?」
それは、やれるもんならやってみるがいいといった皮肉めいたものではなく、純粋に興味をひかれたかのような言い方だった。
それを聞いてヘルヴァはすぐに歌いだした。彼女の歌はリゴレットという極めてよく知られた歌劇(オペラ)で、ヴェルディの作曲した19世紀の地球の作品である。ストーリー自体はよくある男女の愛憎劇で、最後は悲劇に終わるのだが……。
その第3幕に【女心の歌】という、変わりやすい女心をつづった軽快なメロディーのカンツォーネ(歌)がある。その彼女の歌声を聞いて部屋の中にいる偵察員達全員が心を奪われた。
多くの者は驚きの表情で天井を見つめた。集中して彼女の歌声を鑑賞するために、腕組みしてまぶたを閉じる者もいた。ジェナンは口につけたグラスからウィスキーをぼたぼた垂らした。ワインの入ったグラスを左手に持って立っていたタナーはグラスを取り落として、グラスが割れたのさえ気づかない有様だった。
偵察員たちが一瞬で心を奪われた理由は、ヘルヴァが披露した歌がまさに【オペラ】だったからだ。偵察員たちはみな、彼女の地声が持つアカペラの美しいソプラノの歌声を背景に、極上の酒を楽しもうと待ち構えていたのだが、実際には重厚で見事なリードテノールを彼女は発声した。しかも楽器によるバックミュージックさえも同時に奏で(発声し)ていた。
シェルパーソンの肉体が置かれている状態から、彼女が自身の生の声を披露するのは不可能なので、かなりの数のツールやデバイスの組み合わせで声や音楽を奏でているのだろう。彼女の声質や彼女が作り出した音楽も、人間にとって不快な印象を抱かないように、巧妙に金属的な調子を限りなく低減させることに彼女は成功していた。
偵察員たちは皆思った。なんて女だ! 明らかに訓練された歌だ。楽器の音色も既存のものじゃない。つまり、声によって作られた音楽だ。恐らく相当な時間と、継続する意思が失せるほどの回数に及ぶ実験、そして失敗。たゆまぬ意志の力でここまでの【能力】を身に着けたのだろう。
この女は俺たちと同じく
ロールアウトする以前から、密かに偵察員たちの間で幾分噂になっていた【歌うことを趣味とする船】とは、彼女のことだったのだ、と彼らは今更ながらに気づいた。
しばらく歌劇を披露したヘルヴァは、部屋が異様に静まり返ったのに気がついて、歌うのをやめた。これまでの彼女の経験では、彼女が歌を歌うとみな静かに目を閉じて頭を動かしたり、合いの手を入れたり、感想をつぶやいたりしたものだが、ここではそれが全くなかった。
誰も彼も石像のように立ち尽くしたり、座って呆然と天井を眺めたまま固まっていた。それは風景画でも見ているかのような光景だった。ヘルヴァはその様子を見て不安になり、次のように尋ねた。
「……ごめんなさい、何か聞きざわりの悪い部分があったかしら?」
それを聞いて停止した時間が動き出したかのように、突如、部屋の中は騒然とし始めた。偵察員たちはお互いの顔を見合わせ会話を始めた。
取り立ててジェナンの興奮は凄まじかった。ソファから立ち上がり近くの偵察員たちを集め、この船を手に入れた者がいかにラッキーなのかを力説した。
「こんな声と引き換えなら、カルーソーでさえ自分の声と喜んで交換するだろうな」
カルーソーとは、後に歌劇王と呼ばれた19世紀初頭に活躍したオペラ史上最もよく知られたテノール歌手の一人で、本名はエンリコ・カルーソーという。
ヘルヴァは自分の歌声が彼らにとって不快な印象を与えるどころか、大いに気に入られたのに気を良くして、テノールの他に様々なパートを披露してみせたが、それを聞いて、ジェナンは目に見える形で焦り始めた。
まずい! 彼女の価値がますます上がっちまう。早く
「タナーが注文したのは声量のあるきれいなリード・テノールだけだったが……我らが魅力的な女王様はあらゆるパートの歌手を与えてくださったぞ! この船を手に入れた男は、遠くへ行って、大、大、大成功するだろうよ」
それを聞いてすぐにヘルヴァはジェナンの言葉の後をつないだ。
「馬の首星雲まで往復し、妙なる楽の音を響かせん、てわけね」
「われらこぞりて、さ」と、ジェナンは床を見つめながらそう答えた。
ジェナンの声は穏やかだったが、内心不安に満ちていた。そして彼女に自分がパートナーとして迎え入れられるきっかけを心底渇望していた。
彼女の声の素晴らしさに気づいたのはここにいる全員だ。彼女の歌声の素晴らしい価値に、一番最初に気づいたのは自分だと彼は信じたかったが……その他の条件では大きな差はないだろう。
だが、ヘルヴァに一番最初に会ったのはタナーだ。一体どうすればこのアドバンテージを埋めることができる? 何をすれば彼女に俺のことを印象づけることができるんだ? そう激しく自問しながら、彼は心の中であてもなくやたらめったら解決手段を探し求めた。
ジェナンはここに来てから自分の心の中に突然湧き上がったある違和感を拭い去ることができなかった。人と話しているときに今までこんなことは感じたことがなかった。
なぜだ? 彼女と他のヤツと何が違う? 彼女と話しているはずなのにどうしてこうも現実感がないんだ? そして、しばらくしてあることに気がついた。一体、彼女はどこにいる?
訓練学校のDS(訓練教官)は言った。
「いいか、お顔の綺麗な
DSはそういうと偵察員訓練生全員をじろりと睨んだ。
「浮ついた忘れやすいヤツが多いからもう一度念押ししておく。いいか、彼女らは人間だ! それを忘れた時、お前たちの足元に悲劇という魔物がしがみつくことになる。たとえ彼女たちの姿がお前たちの目に見えなくても、彼女らの声の調子や抑揚によって多くのことがわかる。他の一般的な人間たちとの会話に比べて、確かにこれは困難な
ジェナンはそのDSのセリフを思い出し、我に返ると部屋の中を狂ったように見回した。どこだ? どこにいる? 【ヘルヴァ】はどこにいる?
そして部屋の中のあるものに気づいた。床から天井まである漆黒の円柱、その半身が部屋の内側にはみだしている。ジェナンは内心の焦りを押し殺して制御柱に向かってゆっくり歩き出した。焦って行動することで、自分の意図が他の偵察員たちに察知されるのを恐れるかのように。
「ただし、歌うのはきみにまかせたほうがいいな。何しろこの声だから、僕はもっぱら聞き役にまわるよ……」
ジェナンはそう言いながら、何かを探すかのような様子で真剣な目つきをしながらゆっくりと制御柱に向かって歩き続けた。
それを聞いたヘルヴァは、「そんな、聞き役を務めるのはあたしのほうだと思ったのに……」と言ったが、その後の言葉をつなげることができなかった。
ジェナンが尋常ではないほど真剣な表情で
ジェナンは部屋を横断し、制御柱の前で立ち止まって柱の根元を見つめた。他の偵察員たちは、突然制御柱に向かって歩き出したジェナンの様子を興味深げに観察していたが、みなその意図をつかみかねていた。
ジェナンはそのまま暫くの間制御柱の根本を見つめ続けたが、意を決して顔を正面に向けた。彼の視線は上下左右に、何かを探しているかのようにさまよった。ヘルヴァにも彼の意図がまるでつかめなかった。
彼女はジェナンの行動を訝しんだが、そのうちにあることに気づいて驚愕した。まさか! この人、
ジェナンは制御柱の正面のある一点に視線を固定して柔らかな笑みを浮かべた。そして、彼は右手を大きく複雑に優雅ともいえる気取った動きで、ヘルヴァにとって永遠に忘れることのできない彼女だけに向けられた素敵なお辞儀をした。
その瞬間、ヘルヴァのパートナーは決定した。その晩、彼女は初めて自分が恋に落ちたことに気づかなかった。彼女とジェナンの視線は一瞬だけつながった。まるで透明な棒で固定されたかのように。
その時間はほんのミリ秒単位の出来事でしかなく、しかもそれは単なる彼女の勘違いにすぎない可能性も十分にあった。だが、彼女にとってはそれで十分だった。
一番最初に気づいたのはタナーだった。くそっ、ジェナンのヤツにしてやられたっ! 一体、俺は