The Ship who met.(出会った船-ヘルヴァ) 作:六位漱石斎正重
ベッドの上で目を右腕で覆うようにしてジェナンは身体を横たえていたが、眠っていはいなかった。もうベッドに身を横たえて何時間経過しただろう。そう思い、壁掛け時計が見えるように右腕を少し上にずらした。
時刻は0時45分を過ぎたところだった。時刻を確認したのはこれで7度目だった。休息が取れるときにはどんなときでも取っておくようにと、訓練学校ではよく言われたものだが、どうしても眠ることができなかった。ジェナンは一つ大きなため息を付いて、ベッドから上半身を起こした。
ジェナンはハンガーに掛けられている偵察医務局の制服をじっと見つめた。訓練学校を卒業するときに支給された制服だった。これをもらった当初は誇らしい思いだったが、今はただただ不安だった。自分はこの制服を着用するにふさわしい人間だろうか。そして、ヘルヴァは僕を選ぶだろうか……。
タナーは少々おぼつかない足取りで廊下を歩いていた。昨夜はだいぶ飲みすぎた。夜中に目が冷めて用を足しに行くのはこれで2度めだった。彼は体を大きく左右に揺らしながら自分の部屋に戻ろうとしたが、その途中にジェナンの部屋のドアに何気なく視線を送ったとき、あるものに気づいて歩みを止めた。
この寮のドアはオークでできた質素なデザインのドアで、上半分に大きめのガラス張りの矩形が2つ、10cmほどの間隔で並んだデザインをしていて、部屋の中からも外からもそれぞれ見えるようになっている。プライバシーも何もあったものではないが、これはこの寮が建設されたときに寮長たっての希望で設計されたドアだった。
寮長は言った。
「この寮は訓練学校を卒業した隊員たちを、頭脳船のパートナーになるまで一時的に預かるための施設である。従って、私は隊員たちにこの寮に永住してもらうことを望まない。この寮の居心地が良くなれば良くなるほど、退寮する隊員たちが減ってしまう。よって隊員たちにプライバシーは必要ない」
タナーも入寮の際にドアの構造が少々気になったものの、部屋と部屋の間は十分な間隔が取られていて生活音に悩まされるといったことはまったくなかった。
タナーはガラス部分の矩形越しに室内を覗いてみると、ジェナンがテーブルの前の椅子に座っているのがわかった。ジェナンは手を組んで手の甲の上にひたいをのせてうつむいていた。
タナーは一つ大きなため息を付き、ジェナンの部屋のドアを音もなく開いて中に入り、部屋の照明を点灯させた。そして部屋の壁に背をあずけて腕組したあとジェナンを睨みつけた。
「ジェナン……何してるんだ?」
いきなり室内から声が聞こえたのでジェナンは驚いて顔を上げたが、その顔にはまるで生気がなかった。彼は声の主を認めて「眠れないんだ」と、つぶやくように返答した。
タナーはテーブルの方へ歩きながら「眠らないと身体にさわるぞ。いつでもどこでもどんなときでも眠れるようにしておくように、俺達はDSにたたきこまれただろう?」と言って、ジェナンの斜向いの椅子に座った。
ジェナンはタナーの顔を一瞥したが、すぐに視線をそらしてつぶやくように言った。
「まだ、ヘルヴァは僕を選んだとは宣言していない」
タナーはジェナンのその言葉を聞いてまじまじと彼の顔を見つめた。こいつがこんな弱気なことを言うのを初めて聞いた。こいつも一応人の子だったんだな、と彼は当たり前のことを改めて当たり前に認識した。
そして、快活で自信満々で抜け目のない普段のこいつらしくないと思った。タナーは何か言おうと口を開きかけたときに、ジェナンは語をつないた。
「僕が勝手に選ばれると思い込んでいるだけかもしれない」
そのジェナンの子供のようなすねた言い方にタナーは心の中で腹を立てた。この野郎、俺たちのヘルヴァをかっさらっといて今頃何抜かす! 彼女の返事がほしいなら今すぐ行って言質をとってこい、と心の中で叫んだ。
タナーは思った。俺たち偵察員は<中央緒世界医務局>のために当てられた任務を必ず果たす。その手段に物理的な制限はない。社会が混乱するような欺瞞工作もするし、必要ならば女性や子供を利用することにも大きな躊躇はない。
そしていつかは【汚い仕事(破壊工作や要人暗殺)】をすることがあるかもしれない。そのように訓練されてきたのだから。だが、俺達はキリングマシーンじゃない。医務局偵察員だ。隊員たちは任務に必要な手段を自律的に判断し行使する権限を与えられている。
目的を果たすのに手段を問わないのは確かだが、俺たちには矜持がある。男としてのダンディズム(余裕のある男のだて気質。女性ならそれと同等の気質)がある。DSから享受されたのは技術だけではない。最も大事なのはこの医務局偵察員が持つ矜持だ。これは心理的な枷ともなるが、これがあるからこそ俺たちは偵察員たりえる、とタナーは考えていた。
勝負でも何でも全知全能をぶつけあい、競い、戦う。俺たちの勝負に僅差はない。勝利か敗北かだけだ。【2位は負けの一番】なのは間違いないが、命がつながれば次がある。敗北は無駄にはならない。だが、矜持を失うことと引き換えに勝利を手に入れた者は<中央緒世界>の医務局偵察員ではなくなってしまう。
あれこれ心の中で思いを巡らしたタナーだったが、結局口から出てきたのは「そんなわけないだろ? ヘルヴァはお前にぞっこんさ、間違いない」という言葉だった。
「そうだといいんだが……」
そう言ってジェナンは力なく笑った。愛想笑いをさらに歪めたようなぎこちない笑みだった。
タナーは立ち上がって、何だって俺がこんな野郎を! と心の中で舌打ちをしたが、冷蔵庫の中からワインと良く冷えたグラスを2つ持ってきて再び席についた。こういうときには太古の昔からこういうのが最も効果があるものさ、と思いながらグラスにワインを注ぎ始めた。
一方、ヘルヴァはジェナンのデータに目を通している最中だった。
ジェナン・サイラン。非妻帯者。婚姻歴なし、子供なし、兄弟なし。母親は病気で死別、父親は元偵察員で惑星パルシーアの任務中に死亡。つまり天涯孤独な身というわけね。医務局の偵察員を目指したのは母親の病死も関係があるかもしれないけれど、父親のこの事件が大きな原因みたいね。
でも、今は亡くなった家族のことはどうでもいいわ、時間が有るときに見ておきましょうと、彼女は父親の部分にインデックスをつけてジェナン個人のデータの参照を続けた。
ヘルヴァは、ジェナンの訓練学校の成績をひとつひとつ確認するかのように読み上げた。
「基礎医学S、特に疾病学(症状、症候、病因、病態、治療、予後を研究する学問)に秀でた成績あり」か。
ふーん、医者の素養は充分あるようね。で、次が「臨床医学A+、神経学、症候学(診察所見を定義・分類して意味づけを与える方法論。診断の手がかりとなる)で主席」
つまり、才能に裏打ちされた技能をもっているわけだわ。そして、次々とジェナンの成績に目を通してはあれこれと感想を述べていったが、ある文章が目に止まった。そこにはこのように記述されていた。
ジェナンは父親の任務上の失敗をパルシーア事件の予想外かつ歓迎すべき結果によって合理化しているとあった。ヘルヴァはその文章に注目したまま考え込んでしまうのだった。
ジェナンとタナーはワインをいくらか胃の中に流し込んで、ふたりとも少しは気分が晴れてきて昔話に花を咲かせていた。そこにブレインシップからの緊急連絡が来た。
部屋の中空の何もない空間に突如魔法のように光学フレームが形成されたあと、発信者であるヘルヴァの名前が浮かび上がった。二人はそのフレームに顔を向けた。
フレームからヘルヴァの心地よい透明感のあるソプラノが流れ出した。
「私、コードXH-834ことヘルヴァは医務局偵察員ジェナン・サイランを正式に自分のブローンにすることを要請します」
タナーはそれを聞いて、左肘でジェナンの右腕を軽く小突いてニヤッと笑った。だが、ヘルヴァの通信はそれで終わらず、フレームもそのままだった。二人はまだ話の続きがあると思い、あらためて中空に出現したフレームに顔を向けた。
「もし、この要請に応じていただけるのならば、当機の制御柱室へ来てください。一方……」そこでヘルヴァは言葉を切った。
ジェナンとタナーは唐突に話が中断したのを訝しんで顔を見合わせたが、ヘルヴァが言おうとすることの見当がつかず、彼女の話をじっと待った。
「一方、もしあなたがこの要請を拒絶したとしても、上の者にあなたが不利となるような報告はしませんし、あなたの偵察員としてのキャリアには一切傷は付きません。その旨確約しておきます。いずれにせよ、今日の正午まで待っています」
そこまで言うと、ヘルヴァは即座に通信を切った。ジェナンの部屋の中空に浮かぶ通信用の光学フレームは、ジェナンの返事を待たず跡形も無く消え去ってしまった。
タナーもジェナンも、ヘルヴァが一方的に話しかけそのまま唐突に通信を切った理由が皆目わからなかった。ヘルヴァはジェナンに拒絶されるのが怖かったのだ。その点、彼女も間違いなくただの一人の人間なのだった。
ジェナンは人が変わったように喜びを満面に浮かべて部屋を出ていこうとしたが、数歩歩いたところで燃料が切れたかのように立ち止まった。そして、しばらく前方の床を見つめたかと思うと、肩越しにタナーを振り返った。
ジェナンの顔には思わず浮かれてしまった気恥ずかしさと、タナーに対して引け目を感じているような複雑な表情が浮かんでいた。そして、ジェナンはささやくような声で言った。
「いいのか? 本当に」
「何が?」とタナー。
「……」
「……」
そのまま黙ってしまったジェナンを眺めながらタナーは思った。ちぇっ、不器用なやつだな。そしてジェナンの背中を後ろから思い切り右手で叩きつけながら小さくウィンクをしながら言った。
「さっきも言っただろ、ヘルヴァはお前にぞっこんだって、あまり女を待たせるもんじゃないぜ」
「すまん……」そう言い残して、静かにジェナンは部屋を出ていった。
ジェナンの部屋に一人残されたタナーは、再び椅子に座りジェナンの前に置かれていたワインのグラスを見つめてこうつぶやいた。
「別にお前のためじゃない。俺はただ、【負けの1番】になるつもりがなかっただけさ。お前が振られちまったら、俺が
そう言って、タナーは自分のグラスを左手に持ち、軽くジェナンのグラスにぶつけた。涼やかな妖精の声のようなガラスのぶつかる音が、タナーを除いて誰も居なくなった部屋の中に響いた。そして、なにか吹っ切れたかのような表情を浮かべてタナーはささやいた。
「ジェナン……お前は運のいいヤツだよ」
そしてタナーはグラスの中のワインを一気に飲み干した。こうしてタナー、ジェナン、ヘルヴァ、3人のそれぞれの夜は終わりを告げた。