キュ「さあ、後編を始めるぞ!」
景&ピク((マジでやりやがった……))
すでに精神的な疲労が限界に達しつつある景太とピクシーは顔を見合わせ、完全に乾いた引きつり笑いを浮かべるしかなかった。
まさか本当に「後編」と銘打って勝負を続行するとは、この妖怪のエリートとしてのプライドと執念は常軌を逸している。
キュウビはそんな二人の呆れ顔など全く気に留める様子もなく、風に揺れる美しい金髪を優雅にかき上げると、目を細めて芝居がかったポーズをとった。
キュ「ここまでは運良くこの僕に勝てたが、此処からは僕も本気で行かせてもらう! 調子に乗っていられるのも今のうちだ」
そこから、キュウビの長々とした独演会が始まった。いかに自分がこれまで妖魔界で数多の女性を魅了してきたか、自らの立ち振る舞いがいかに計算し尽くされた芸術であるか。腕を組み、天を仰ぎ、時にはうっとりと目を閉じて自分自身の紡ぐ美辞麗句に深く陶酔しながら、キュウビは延々と語り続けた。
自分が本気を出せば、通りがかる乙女たちは瞬く間にひれ伏し、ピンク色の雨が降るだろう。そんな妄想を言葉に乗せ、彼は一人の世界にどっぷりと浸かっていたのだ。
その熱弁は数分…いや、十数分にも及んだ。
ようやく自分に酔いしれる時間がピークに達し、キュウビはクライマックスに向けて声を張り上げた。
キュ「フッ……君のその無自覚な優しさが通用するのもここまでさ。この僕の本当の力を見て、跪くが……」
ビシッ!と効果音すら聞こえそうな完璧なポーズを決め最高のタイミングでバッと目を開けたキュウビ。当然、そこには自らの圧倒的なカリスマ性に恐れおののき、戦意を喪失した景太の姿がある……はずだった。
しかし。
キュウビの視界に飛び込んできたのは、予想とは全く違う、信じがたい光景だった。
キュ「って!?
僕が話してる間に何勝手に落としてんだ!!?」
キュウビは目玉が飛び出んばかりに見開き、情けない裏返った声で叫ぶ。
視線の先では、いつの間にか景太が三人の女子小学生に囲まれていた。
一人は華やかな服装に身を包んだ、いかにもセレブなお嬢様といった雰囲気の女の子「星風キララ」。そして、その後ろに控えるお下げ髪の「羽沢順子」と、ジト目の「百舌昌子」である。
なぜか三人は揃いも揃って耳の先まで顔を真っ赤に染め上げ、手と手を胸の前で組みながら、完全に恋する乙女の顔になって景太をうっとりと見つめているではないか。
彼女たちの周囲には、目に見えるほどのピンク色のキラキラとしたオーラが漂い、完全に景太を中心とした甘い空間が出来上がってしまっていた。
景「え!? いや、困ってたから……」
キュウビの悲痛な叫びに振り返った景太は、まさか自分が三人を「落とした」などとは露ほども思っていない様子で、不思議そうに首を傾げた。ただ目の前で困っている人を見過ごせなかっただけ、という無自覚かつ善良すぎるその態度は、敗北者たるキュウビのプライドにさらなる致命傷を与える。
ポン♥ポン♥ポン♥
キュウビが言葉を失ってワナワナと震えている間に、完全に景太の虜となってしまったキララ、順子、昌子の胸元から、極上の輝きを放つ三つのキュン玉が立て続けに弾け飛んだ。
ピクシーは出てきた三人のキュン玉をケータに渡した。
キュ「で……彼女たちに一体何があったの? ボクが自分の美学について語り合っていたほんの数分間のうちに、彼女たちの心を奪うだなんて、何か恐ろしい罠でも仕掛けたのかい?」
キュウビは身を乗り出し、まるで信じられない怪奇現象でも目撃したかのような顔で景太を指差した。
ピク「結局聞くのね……。あれだけ自分の世界に浸っておいて、他人の成功には敏感なんだから)
宙に浮いたピクシーは、やれやれと肩をすくめ、小さくため息をつきながらジュースの缶をパタパタと弄んだ。
ピクシー「アンタが長々と自分の華麗な歴史(笑)を話してる間にね……。ほら、あそこの「カフェ・オ・シャレンヌ」のテラス席に、確か…5年1組のキララと昌子と順子?ってのがいたのよ。そこでケータがあれこれ試行錯誤してたってわけ。……いい? ちゃんと聞きなさいよ」
ピクシーは目を細め、少し前の出来事を思い出しながら、事の経緯を話し始めた。
― 回想 ―
「カフェ・オ・シャレンヌ」のテラス席。
色とりどりのパラソルの下で、華やかな雰囲気をまとった3人の女子小学生がテーブルを囲んでいた。
その中心にいるのは、まるでおとぎ話のお姫様のように縦ロールの髪を揺らし、フリルのついたお嬢様風のブラウスを着こなしている星風キララ。
そして、その両隣には、茶色のお下げ髪が特徴的な羽沢順子と、長い黒髪に落ち着いたジト目が印象的な百舌昌子が、影のようにぴたりと寄り添っていた。
キララ「おーほっほ! やはり、週末の昼下がりは、このような格式あるテラスでのティータイムがセレブの基本ですわ! 皆さんも、そう思いませんこと?」
順子「さすがキララ様! そのお言葉、まるでパリのカフェテラスにいるかのような気品を感じますわ!」
昌子「ええ。キララ様とご一緒していると、私たちまで上流階級の仲間入りをしたかのような錯覚を覚えます」
キララ「え、ええ……当然ですわ。これくらい、私にとっては日常茶飯事……ですもの……」
「おーほっほ!」と扇子をかざすような仕草で笑うキララ。順子と昌子が「素晴らしいですわ!」と熱狂的に持ち上げるたびに、キララはさらに背筋を伸ばし、大金持ちのお嬢様らしい、少し高飛車で完璧な振る舞いを続けていた。
だが、その様子を少し離れた通路から見ていた景太は、彼女たちのやり取りに、どことなく不自然な空気を感じ取っていた。
景太(……あれ? 星風さん、なんだか笑い声のあとに、ちょっとだけ肩を落として疲れたみたいな顔をしてないかな……?)
アラスターとシルキーの一週間にわたる「紳士の観察眼」の特訓が、無意識のうちに景太の視野を広げていた。ただ相手を見るだけでなく、その表情の微細な強張りや、目の泳ぎ、呼吸の浅さに至るまで、「相手が今どういう状態にあるか」を察する癖がついていたのだ。
キララは順子と昌子の過剰な期待と称賛に応えようと、必死でお嬢様としてのペルソナを演じ、キャラを維持するためにすっかり疲れ切っているように見えた。
景太(…キララさん、無理してるのかも。……でも、だからって、いきなり『何か悩んでるの?』とか『無理してない?』なんて声をかけたら、絶対に怒られるか、心を閉ざされちゃうよね。アラスターも『淑女のプライベートな領域に土足で踏み入るなど、野蛮人のすることですよ』って言ってたし……)
まずは敵意を無くし、自然な形で彼女たちの警戒を解く必要がある。景太は今ある頭をフル回転させ、どのように話しかけるべきか試行錯誤した。
景太(アラスターの『人心掌握術』……まずは『相手の価値を認め、頼る形』で近づくこと。自分を小さく見せて安心させ、共通の、かつ相手が得意な話題で懐に入る……。よし、やってみよう)
景太はゆっくりと、歩行姿勢と身だしなみに気を配りながら(これも一週間の特訓の成果だった)、彼女たちのテーブルへと近づいていった。
景太「あの、星風さん、羽沢さん、百舌さん。こんにちは。突然話しかけちゃってごめんね」
その声に、3人が一斉に振り返った。
キラ「あら? あなたは……隣のクラスの、天野景太さん?」
順「……何か御用かしら? 私たち、今キララ様と極めてエレガントな歓談の最中なのですけれど」
昌「ええ。庶民の貴方がキララ様に何の用かしら?」
順子と昌子が、キララを守るように鋭い視線を投げかけてくる。キララ自身も、突然の男子の登場に、いつもの高飛車なお嬢様モードの防御壁をグッと固めた。
ここで一歩でも引いたり、怪しい態度をとれば、即座に不審者扱いされて会話は終わる。景太はアラスターの「心を開くテンポと視線」を思い出し、あえて少し困ったような、下手に出た態度で、3人の目を順番に優しく見つめた。
景「ううん、邪魔するつもりは全然ないんだ。ただ……実は、すごく困ってることがあって。学校で一番オシャレで、いつも流行に詳しい三人なら、もしかしたら教えてくれるんじゃないかと思って、思い切って声をかけちゃったんだ」
キラ「……困っていること、ですって? そして……『流行に詳しい三人』?」
キララが少し意外そうにパチパチと目を瞬かせた。順子と昌子も、自分たち3人をひとくくりに、しかも「オシャレで詳しい」と肯定的に頼られたことで、わずかにトゲが和らぐ。
景太「うん。実はね、知り合いの女の人(シルキーなどを想定した方便)に、ちょっとしたお礼で『このデパートで買える、上品で本当に素敵なお菓子』を贈りたいんだけど……。
俺、そういうセンスが全然なくて、何を選んだらいいかさっぱり分からなくてさ。でも、いつも完璧でセレブな星風さんと、その星風さんを一番近くで支えてるお二人なら、絶対に間違いないアドバイスをくれると思って」
景太は一生懸命に言葉を紡いだ。その目は真剣で、お世辞ではなく、本気で彼女たちのセンスを頼りにしていることが伝わってきた。
キラ「ま、まあ! 私の、この星風キララのセレブな審美眼を頼るとは……天野さんも、なかなか見る目がありますわね!」
キララは一瞬で上機嫌になり、フフンと胸を張った。自分の「お嬢様キャラ」が真っ当に認められ、頼りにされたことが嬉しかったのだ。
順「当然ですわ! キララ様のおすすめになるお菓子なら、パリの王室御用達レベルに間違いありませんもの!」
昌「ええ。天野くん、キララ様に相談したのは大正解ね。それに……私たち二人のことも、よく見てくれているじゃない」
昌子が少し照れくさそうにジト目を和らげた。景太がキララだけを持ち上げるのではなく、「キララを支えるお二人」として彼女たちの存在も尊重し、3人の信頼関係そのものを肯定したことで、順子と昌子の防衛本能は完全に瓦解した。
景「本当にそう思うよ。星風さんのおすすめもすごいし、何より、羽沢さんと百舌さんが星風さんのことをいつも本気で信じてて、そばで支えてるの、すごく息がぴったりで素敵だなって思ってたんだ。こんなに信頼し合ってる三人なら、最高の意見が聞けると思ってさ」
景太は3人の警戒が完全に解け、自分たちを好意的に受け入れているのを確認すると、ホッと胸の内で安堵した。
まずは成功だ。アラスターの言った通り、敵意を無くし、相手を尊重することで、自然と「対等に話せる関係」の輪に入り込むことができた。
キララ「仕方がありませんわね! この星風キララが、あなたの貧困なセンスを救うべく、極上のセレクトを授けて差し上げますわ! さあ、そこにお掛けになって!」
キララが嬉しそうに隣の椅子を指差し、順子と昌子も「さあ、聞きなさい!」と歓迎の姿勢を見せた。
こうして、景太は3人の心の壁を完全に崩し、自然な会話の輪の中へと入り込んでいったのだ。
ピクシー「……とまあ、ここまではただの『お悩み相談』に見えたんだけどね。そこからが、ケータのあの無自覚な本領発揮だったってわけよ」
景太が席につくと、キララは得意げに扇子を広げ、優雅な手つきでおすすめのスイーツについて語り始めた。
キラ「よろしいですか、天野さん。贈り物として間違いないのは、デパートの奥にある『特製マカロン・アソート』ですわ。あそこのパティシエは本場フランスでの修行経験があり、一口かじれば、まるでセーヌ川のほとりにいるような気分にさせてくれますのよ! おーほっほっほ!」
景「へえーっ、すごい! さすが星風さんだね。俺じゃそんな素敵なお店、絶対に見つけられなかったよ。すごく参考になる!」
景太は目を輝かせ、心からの称賛を口にした。お世辞ではなく、純粋に彼女の知識量とセンスに感心したのだ。その素直な反応に、キララは「当然ですわ!」とさらに胸を反らせた。
そこから景太は、巧みに会話の矛先を順子と昌子にも向けた。
景「それにしても羽沢さんと百舌さんもすごいよね。
星風さんがこうして自信を持っておすすめできるのも、二人がいつも隣で星風さんのセンスを信じて、『さすがです!』って盛り上げてくれてるからだと思うんだ。
お互いのいいところを引き出し合ってるっていうか……三人の絆が深いからこそ、星風さんもより一層キラキラ輝いて見えるんだね」
順「あっ……そ、そうですわ! 私たちがいればこそ、キララ様の魅力はさらに倍増いたしますのよ!」
昌子「ええ、その通りよ! 天野景太、あなた、ただの庶民かと思っていたけれど、意外と見る目があるのね」
景太に褒められ、順子も昌子も満更ではない様子で頬を染め、得意げに微笑んだ。
キララを褒め、さらにお付きの二人を「キララを輝かせるための欠かせない存在」として混ぜて褒める。これにより、三人の自尊心はすっかり満たされ、テーブルの空気はこれ以上ないほどに和やかで上機嫌なものになった。
しかし―。
景太は、三人が見せる笑顔の裏側に、ある決定的な「違和感」を見逃していなかった。
キララが「おーほっほっほ!」と高笑いをした直後、ふと息をつく瞬間に、ほんのわずかだけ肩が落ち、顔に疲労の色が滲むのを。
そして、順子や昌子が「さすがキララ様!」と持ち上げるたびに、キララの瞳の奥が、どこか窮屈そうに揺らぐのを。
景(……やっぱり、そうだ)
景太はテーブルの上に置いていた手をゆっくりと組み、今までのにこやかな表情から、スッと真剣な、それでいてどこまでも優しい眼差しへと変わった。
景「……キララさん。もしかして、無理してない?」
不意に投げかけられたその真っ直ぐな問いかけに、テーブルの上の空気がピタリと静まり返った。
キラ「……え?」
キララは面食らったように目を瞬かせ、持っていた扇子をピタッと止めた。
景「いつも完璧なお嬢様でいなきゃいけないって……本当は、ちょっと疲れてるんじゃないかなって」
景太の穏やかな声が、テラス席の風に乗って真っ直ぐに彼女の心へと届く。しかし、長年この「お嬢様キャラ」を守り続けてきたキララの防衛本能が、即座に心を閉ざそうとした。
キラ「な、何を馬鹿なことを言っていますの!? む、無理なんて……そんな事無いですわ! 私は常にエレガントで、完璧な星風キララですもの! 疲れるなどという庶民のような感覚、持ち合わせておりませんわ!」
必死に声を張り上げ、扇子で口元を隠して否定するキララ。だが、その声は微かに震え、目は泳いでいた。
景「……ごめんね。色々と話しあってる時に、違和感があって……」
景太は決して声を荒らげることなく、ただ静かに、心配そうに彼女を見つめた。
景「星風さんが笑った後、たまにすごくしんどそうな顔をしてるように見えたんだ。
羽沢さんや百舌さんが褒めてくれるたびに、なんだか『期待を裏切っちゃいけない』って、必死に自分を奮い立たせてるみたいで……。本当の自分を隠して、一生懸命背伸びしてるんじゃないかって……そう見えたんだ」
キララ「……ッ!!」
図星を突かれたキララは、息を呑んで完全に固まってしまった。
誰にも気づかれていないと思っていた。完璧に演じきれていると信じていた。それなのに、今日初めて深く言葉を交わしたばかりの男子に、自分が隠し続けてきた「素顔」と「重圧」を、いとも簡単に見透かされてしまったのだ。
キララが言葉を失い、震える手で扇子を握りしめていると、その異変に気づいた順子と昌子が慌てて立ち上がった。
順「ちょっと、天野景太! さっきから何を言っていますの! キララ様に失礼ですわよ!」
昌「そうよ! キララ様はいつだって完璧なキララ様なんだから! あなたみたいな無神経な男子が、キララ様の何を分かると言うの!?」
順子と昌子は、愛するキララを守るように彼女の前に立ち塞がり、景太に対して鋭い敵意を剥き出しにした。先ほどまでの和やかな雰囲気は完全に消え失せ、痛いほどの緊張感が走る。
普通の小学生なら、ここで「ご、ごめん! 気のせいだったかも!」と逃げ出してしまうだろう。女子の友情や複雑な関係に首を突っ込むのは、あまりにもリスクが高い。
だが、景太は引かなかった。
アラスターやシルキーとの特訓を経て「相手の心と真摯に向き合うこと」の強さを知った景太は、ここで逃げることこそが、彼女に対して一番失礼なのだと分かっていたからだ。
景太は、自分を睨みつける順子と昌子の向こう側――うつむいて固まっているキララの目を、真っ直ぐに捉え返した。
景「星風さん。確かに俺は、三人の関係に土足で入ると言う最低なことをしてる」
景太の声は低く、しかし確かな熱を持っていた。
景「何も知らない部外者が、知ったような口を利くなって怒られるのは分かってる。でも……これは、キララさんの人生だよ」
その言葉に、キララの肩がビクッと大きく跳ねた。
景太の放ったその一言が、キララの心の最も深い部分に真っ直ぐに突き刺さる。
盾のように立ち塞がる順子と昌子の背後で、キララはギュッと唇を噛み締め、俯いたまま動けなくなっていた。いつもなら堂々と胸を張り、「おーほっほ!」と扇子を翻して笑い飛ばして見せるはずの彼女の小さな肩が、今は小刻みに震えている。
キラ(……このまま、嘘をつき続けるの?)
キララの心は激しく揺らいでいた。
「完璧でセレブなお嬢様」という重い鎧を脱ぎ捨ててしまいたい。本当の自分をさらけ出して、普通に笑い合って、楽になりたい。……でも、もしそうしてしまったら、今まで「理想のキララ様」を熱狂的に慕ってくれていた順子と昌子は、どう思うだろう。失望して、自分から離れていってしまうのではないか。
その恐怖が、キララの喉の奥を締め付けていた。
景太は、彼女の震える背中と、迷いに満ちた沈黙から、その深い葛藤と怯えを痛いほどに感じ取っていた。
景(あと少しだ……。星風さんが本当の自分を出すには、もう一押し、絶対に安心できる『確証』が必要なんだ)
景太はふと、先ほどこのテーブルに加わって三人を楽しませていた時の会話を思い出した。あの時、景太が順子と昌子を褒めた際、二人はキララへの愛を語る中で、確かにこう言い放っていたのだ。無意識のうちに、最も強力な『言質』を。
景太は、いまだに敵意を向けて身構えている順子と昌子を決して責めることなく、穏やかな声で二人に語りかけた。
景「羽沢さん、百舌さん。さっき俺が二人のことを褒めた時、二人は星風さんのことをこう言ってくれたよね? 『どんなキララ様でも素敵なんですわ!』って」
順「え……?」
昌「そ、それは……確かに言いましたけれど……」
突然自分たちの過去の発言を引っぱり出され、二人は毒気を抜かれたように目を丸くした。
景「あの言葉、すごく本気だったよね。二人は『お嬢様だから』とか『完璧だから』星風さんの隣にいるわけじゃない。星風さん自身のことが本当に大好きだから、一緒にいるんだって……俺にはそう見えたんだ」
景太の言葉に、順子と昌子はハッとして顔を見合わせた。自分たちの胸の奥にある本当の気持ちを、見透かされたような気がしたのだ。
二人の反応を確認し、景太は再び視線をキララへと戻した。
頑なに俯き続ける彼女の震える背中を見つめ、景太は少しだけ声のトーンを落とし、まるで秘密を共有するような、等身大の優しさで語りかけた。
景「キララさん。……本当の自分を見せるのが怖いのは、すごくよく分かるよ。嫌われたらどうしよう、ガッカリされたらどうしようって、不安になるよね。実は……俺も同じだから」
景太の脳裏に、アラスターの厳しすぎる特訓から逃げ出したくなった自分や、完璧な紳士には程遠い、いつも失敗ばかりしている情けない自分の姿がよぎる。
背伸びをして自分を偽る苦しさと、それをさらけ出すことの恐ろしさには、誰よりも共感できた。
景「でもね……」
景太は、少し困ったように眉を下げながらも、春の陽だまりのように暖かく、一点の曇りもない満面の笑顔を浮かべた。
景「怖いのは分かるよ。俺も同じだから……でも、彼女達の関係はこんなものでは壊れないはずだよ」
その笑顔には、何の計算も、下心も、見栄もなかった。
ただ純粋に、「君たちの絆は本物だ」と信じ切っている少年の、真っ直ぐすぎる表情だった。その裏表のない言葉と笑顔は、キララの心に分厚く張り巡らされていた最後の防御壁を、優しく溶かし…。
そして遂に、キララの心にずっと重くのしかかっていた恐怖の鎖を、跡形もなく打ち砕いた。
キララは胸の前で強く両手を握り締め、震える唇を固く結んだ。
目の前で自分を庇うように立ち塞がっている順子と昌子の背中を見つめる。二人は本気で自分を心配し、守ろうとしてくれている。
景太の言う通り、この絆は、自分が勝手に作り上げていた不恰好な鎧なんかよりも、はるかに強固なものだったのだ。
キララ「……じゅんちゃん、まーちゃん……退いて……」
消え入りそうな、しかし確固たる意志の籠もったキララの声に、順子と昌子は驚いて振り向いた。
順子「キララ様……?」
昌子「何を言って……」
キララは深く、深く息を吸い込んだ。そして、ポロポロと大きな涙を目から溢れさせながら、顔を真っ赤にして決死の叫びを上げた。
キラ「わ…私、う、う……嘘をついてたの…」
順&昌「「え?」」
キラ「だから、今までのは全部嘘なのよーッ!!」
順&昌「「えええええっ!?」」
あまりの叫び声に、二人だけでなくテラス席の客たちまでが一斉にこちらを振り返る。しかし、キララはもう止まらなかった。溜め込んでいた本当の自分を、堰を切ったように吐き出し始めたのだ。
キラ「私……私、本当はそんな大層なセレブなんかじゃないよ、! セーヌ川のほとりなんて行ったこともないし、高級マカロンより安売りしている棒アイスや駄菓子の方が大好きなの! おーほっほなんて笑うのも本当はすっごく恥ずかしいし、お嬢様っぽく振る舞うのだって、毎日胃が痛くなるほど必死で背伸びしていただけなのッ!」
涙でぐちゃぐちゃになりながら、一生懸命に自分の不器用な素顔をさらけ出すキララ。
キラ「二人が……二人がいつも『キララ様はすごい』『憧れです』ってキラキラした目で見てくれるから……失望されたくなくて、嫌われたくなくて、嘘をつき続けていましたの……! ごめんなさい……ごめんなさい……! 完璧なお嬢様じゃなくて、ごめんなさい……っ!」
両手で顔を覆い、子供のようにしゃくり上げて泣きじゃくるキララ。
全てを暴露し、ついに嫌われてしまうのだと身をすくませる彼女に対し、順子と昌子の二人は――茫然と立ち尽くしていた。
しかし、その瞳に浮かんでいたのは失望でも怒りでもなかった。
自分のために、どれほど無理をして背伸びをしてくれていたのか。
自分たちの言葉をどれほど大切にし、どれほど必死に期待に応えようとしてくれていたのか。その健気すぎる真相を知った二人の頬が、急速に朱に染まっていく。
順(……な、なんて……なんて愛らしいお方なの…っ!?)
昌(私たちのために……そんな愛おしい理由で、必死に背伸びを……っ!?)
ボロボロと涙を流すキララの姿は二人の目には「完璧なお嬢様」などよりも何千倍も可愛らしく、いじらしく映っていた。
絶望に打ちひしがれるどころか、本当の事を言ってくれたキララの人間味溢れる素顔に、二人は益々、そして決定的に彼女に惚れ込んでしまったのだ。
順子「キララ様……ううん、キララちゃん……っ!」
昌子「申し訳ありませんでしたわーーーッ!」
次の瞬間、二人は同時にキララにしがみつき、ボロボロと大粒の涙を流して叫んだ。今度は順子と昌子が号泣する番だった。
キララ「え……? じゅん、ちゃん……? まーちゃん……?」
予想外の反応に目を白黒させるキララに、順子は彼女の手を固く握りしめて謝罪した。
順「謝らなければいけないのは、私たちの方ですわ! 私たちが勝手に『理想のキララ様』をキララちゃんに押し付けて、身動きが取れないほど追い詰めてしまっていたなんて……!」
昌「ええ、本当にごめんなさい! 私たちがキララちゃんの凄さを過剰に持ち上げるせいで、そんなに辛い思いをさせてしまっていたなんて……! 嘘をつかせていたのは、他でもない私たちですわ!」
順「私たちが好きになったのは、お金持ちだからでも、お嬢様だからでもありません! 一緒にいて楽しくて、誰よりも優しくて一生懸命なキララちゃんそのものですわ!」
昌「ええ! 駄菓子が好きなら、今度一緒に駄菓子屋に行きましょう! 棒アイスだって、どれだけでも買い占めて差し上げますわ!」
二人の温かい抱擁と、嘘偽りのない心からの言葉に、キララの瞳から再び温かい涙が溢れ出した。
キラ「あ……あ……っ! じゅんちゃん……まーちゃん……っ! ありがとう……ありがとう……!」
「理想の自分」ではなく「本当の自分」を受け入れてもえた歓喜。
こうして、ずっと重いペルソナを被っていたキララと、彼女を崇めていた順子と昌子は、ついに同じ目線で本音を語り合える、本当の意味での「対等な親友」となったのだ。
キラ「ふふ……なんだか、すごーく肩の荷が下りちゃった。二人とこんな風に笑い合えるなら、最初から正直になればよかったわね」
晴れやかな笑顔で涙を拭くキララに、順子と昌子は嬉しそうに頷いた。
昌「ええ! これからは何でも本音で話し合いましょう! ……まぁ、とは言いつつも」
昌子はジト目を少しだけ緩め、いつもの落ち着いた調子でクスッと笑った。
昌「今までずっとお付きとしてやってきたクセもありますし、何よりキララ様を誰よりも高く讃えるこのスタイル、私たち自身がすっかり気に入っておりますの。ですので……通常は引き続き、この性格と口調で行かせていただきますけれど!」
順「ええ! パブリックな場所では、これまで通り『完璧なキララ様』の第一の臣下としてお仕えいたしますわ! それが私たちの生きがいですもの!」
キラ「もう、ふたりとも……! 結局それかい!」
顔を見合わせ、楽しそうに笑い転げる三人。そこにはもう、痛々しい背伸びも、窮屈な遠慮も存在しなかった。
そして――。
自分たちの抱えていた問題を自然な形で解決し、最高の関係へと導いてくれた「恩人」である景太の方を、三人は一斉に振り返った。
キララ「天野さん……ううん、天野くん。私に……ううん、私たちに大事なことを気づかせてくれて、本当にありがとう」
順「ええ、天野くんのあの温かい一言がなかったら、私たちは永遠にすれ違ったままでしたわ」
昌「天野くん……あなたって人は、本当に罪な男子ね」
夕日を浴びる景太の爽やかな笑顔を見つめながら、三人の心臓がドクンと大きく跳ね上がった。
不器用で、土足で踏み込まない優しさを持っていて、でも大切な場面では逃げずに自分たちの絆を信じてくれた、あまりにも格好良すぎる同級生。
ポン♥ポン♥ポン♥
三人の胸元から、限界までときめきが高まったことを証明する極上のピンク色のキュン玉が弾け飛び、宙へと舞い上がったのだった。
ー回想終わりー
ピクシー「……ってなわけ。ケータはただ困ってる相手を放っておけなくて、アラスターから学んだ『相手を観察して尊重する』って基礎を当てはめただけ。アンタが『僕の華麗な美学が〜』とか自分に酔いしれてる横で、泥臭く相手の心と向き合って、結果的に三人まとめて撃ち落としちゃったのよ」
ピクシーは集めた三つのキュン玉をジャグリングのように軽やかに扱いながら、語り終えると同時にキュウビに向き直った。
ピクシー「ね、分かった? あんたの完全な自爆と敗北よ。キュウビ」
あまりにも完璧すぎるケータの「人心掌握(無自覚)」のドキュメンタリーを聞かされたキュウビは、口をぐうの音も出ないほど開けたまま、その場に固まっていた。
しかし、頭の中でその内容を反芻すればするほど、ある一つの決定的な「矛盾」というか「おかしさ」に思い至り、彼の整った顔がみるみるうちに引きつっていった。
キュ「事情は分かった。だが、言いたいことが一つ……」
ワナワナと指を震わせ、今にも血を吐きそうな勢いでキュウビは叫んだ。
キュ「これ、1話分出来るやつじゃないか!!」
本来なら、キュン玉集めという軽い勝負の合間のワンシーンで終わるはずの出来事である。それにもかかわらず、少女たちの葛藤と成長、そして少年の無自覚な人心掌握が見事に描き切られた濃密すぎる回想ドラマに対し、メタ的な視点から魂の叫びを上げたのだ。
ピク「それはご尤も」
宙に浮いたピクシーは、キュウビの発狂ぶりを冷ややかな目で見下ろしながら、心底同意するように深く頷いた。
そんな妖怪と妖精のメタなやり取りなど一切聞こえていない現実世界では、先ほど景太に心を救われたばかりの三人が、なおも胸の高鳴りを抑えきれない様子で佇んでいた。
やがて、モジモジと自分のブラウスの裾を指先で捏ねくり回していたキララが、耳まで真っ赤に染め上げながら、意を決したように景太の方へと一歩踏み出した。
キラ「あの……天野くん」
景「?」
突然呼び止められ、景太は不思議そうに首を傾げてキララを見つめ返した。そのまっすぐな瞳に見つめられただけで、キララの心臓は跳ね上がる。
キラ「もし、嫌じゃなかったら……『ケータくん』って呼んでも……///」
消え入りそうなほど小さな、しかしハッキリと甘さを帯びた声。上目遣いでじっとこちらを見つめてくるキララの頬は、熟したリンゴのように赤く染まっていた。
すると――。
キララの背後で、彼女には絶対に気づかれない角度から、順子と昌子の二人がぬっと景太の視界に割り込んできた。
二人は般若も真っ青の恐ろしい「無言の眼圧」を、ビシビシと景太に向かって放ち始めたのだ。
その眼圧は、言わずともはっきりと物語っていた。
(キララ様を救ってくれた事には感謝するが、キララ様の願いを断ったら承知しない!)
という、理不尽極まりない、しかし圧倒的な保護者ゆえの脅迫であった。
まあ、どのみちそんな圧がかかろうが関係なく、景太は最初からキララの願いを笑顔で了承するつもりだったのだが。
景「うん、良いよ。それじゃあ俺も『キララさん』って呼んでも良い?」
キラ「うん!」
快く承諾されたどころか、自分も名前で呼ばれたキララは、パッと顔を輝かせて心から嬉しそうに微笑んだ。その天使のような笑顔に、景太もつられてフワッと微笑む。
だが、二人の間に漂う甘い雰囲気を切り裂くように、今度は二人の影が景太の目の前に覆いかぶさった。
順「天野景太」
昌「……」
順子と昌子が、重厚な威圧感をまとって景太に詰め寄ってきた。先ほどまでの敵意は消えているものの、今度は「キララの親友」としてのプライドが前面に出ている。
昌「キララ様を助けてくれた事は感謝しますわ。しかし、それとコレとは話は別」
順「私達のキララ様に免じて、特別に私達も名前呼びをする許可を与えますわ。感謝なさい!」
腕を組み、高飛車に胸を張って言い放つ順子と昌子。彼女たちなりの照れ隠しと、景太を「自分たちの輪」に入れるためのツンデレな許可の提示だった。
景「ありがとう、順子さん。昌子さん」
景太は少しも嫌な顔をせず、二人に対しても何ひとつ裏のない、とびきりの爽やかな笑顔を向けた。
順「くっ……っ!」
昌「フン……っ!」
面と向かって名前で呼ばれ、完璧すぎる笑顔を至近距離で浴びせられた二人は、思わず胸が高鳴り、頬を少し赤らめながら「フン…」とあからさまにそっぽを向いた。しかし、その耳たぶが朱に染まっているのは隠しきれていなかった。
完全に三人のお嬢様方を骨抜きにし、極上の絆と甘い空気を作り上げてしまった景太。
キュ「……」
それらを最初から最後まで見せつけられたキュウビは、膝から崩れ落ちそうなのを必死に耐えながら、もはや何も言えずにただ絶句するしかなかった……。
ーーー
キララ、順子、昌子の三人は、すっかり憑き物が落ちたような晴れやかな笑顔で、「また学校でね、ケータくん!」「ごきげんよう、天野景太!」と名残惜しそうに手を振りながら、テラスを後にしていった。
その足取りは軽く、彼女たちの周りにはキラキラとした幸せのオーラが漂っているかのようだった。
しかし――その感動的な別れの余韻のすぐ横で、妖魔界きってのイケメンエリート狐妖怪は、まるで風化した石像のようにピシリと固まっていた。
キュウビは三人が景太と話している間、実はちゃっかりと景太のすぐ背後に立ち、一番美しく見える角度で髪をかき上げたり、流し目を送ったりと、ありとあらゆる「魅力アピール」を行っていたのだ。
だが、結果は惨敗。彼女たちの瞳には景太の姿しか映っておらず、キュウビの存在は「風景の一部」どころか、文字通り「完全に透明な空気」として、視界の端にすら1ミリも認識されていなかったのである。
ピク「ねえ、まだやるの?」
呆れ果てたピクシーが、空中からジト目でキュウビを見下ろしてため息をついた。これだけ圧倒的な「無自覚な人たらし」の威力を見せつけられ、さらに自分は空気扱い。普通なら心がバキバキに折れて妖魔界へ逃げ帰るレベルの屈辱である。
だが、キュウビの瞳にはまだ、どす黒い執念の炎が燻っていた。
キュ「まだだ。それにまだ手段はある!」
キュウビはギリッと歯を食いしばる。
キュ「あの三人は、たまたまアイツが『お悩み解決』というズルい手段を使って懐に入り込んだだけだ。だが、普通にすれ違う乙女であれば、間違いなく僕の美貌に目を奪われるはず! そう、ターゲットを変えればいいだけのこと!」
負け惜しみとしか思えない謎の理論を展開し、周囲をギョロギョロと見渡すキュウビ。
すると、デパートの連絡通路を歩いていた景太が、不意に足を止めた。
少し先に上品な黄色のワンピースを着た、おとなしそうな雰囲気の少女がファンシー雑誌を眺めていたのだ。彼女は個性の強い5年1組の中でも珍しい、とても清楚で素直な良識派の女の子、石ノ森ユウカだった。
景太は彼女の姿を認めると、パッと顔を明るくして駆け寄った。
ユウカが微かな足音に気づいて振り返る。そして、声をかけてきたのが景太だと分かった瞬間――彼女の少し控えめな顔立ちに、まるで春の花がパッと咲き誇るような、心からの嬉しそうな笑顔が広がった。
ユウ「ケータくん」
その声は弾んでおり、先ほどまでの静かな佇まいが嘘のように、彼女の瞳は景太を映してキラキラと輝いていた。
景「ユウカちゃん」
景太もまた、いつもの裏表のない爽やかな笑顔で応えた。
ユウ「奇遇だね。……あ、そうだ。あの時はありがとう。ケータくんが助けてくれたおかげで、本当に助かっちゃった」
ユウカは少しだけ頬をピンク色に染めながら、もじもじと両手を前で組み、上目遣いで景太を見つめた。
具体的な内容は語られなかったが、彼女のその甘さを帯びた瞳と態度からは、過去に景太がアラスター仕込みされた持ち前の優しさで、彼女のピンチをスマートに救ったという「決定的な出来事」があったことなど、火を見るより明らかだった。
景「役に立ててよかった。ユウカちゃんが困ってるのを見たら、誰だって放っておけないよ」
景太は全く照れる様子もなく、ただ心からの本心として、極上の殺し文句をさらりと放つ。
ユウ「もうっ……ケータくんったら、相変わらずそういうことサラッと言うんだから……ふふっ」
ユウカはさらに頬を熱くして、はにかむようにクスッと笑った。
その後も、景太とユウカは雑誌を見ながら「これ可愛いね」。「ユウカちゃんに似合いそう」などと、まるで休日を一緒に楽しむ小さなカップルのように、ひたすら甘く、楽しそうにおしゃべりを続けた。
ユウカの表情は終始とろけそうなほど穏やかで、景太への好意と信頼が全身から溢れ出ているかのようだった。
そして、しばらくの談笑の後。
ユウ「じゃあね。ケータくん」
ユウカは名残惜しそうに何度も景太を振り返りながら、小さく手を振って人混みの中へと消えていった。
……さて、この甘く微笑ましい再会と談笑の間、我らがキュウビはどうしていたか。
彼は景太とユウカのすぐ隣に陣取り、「僕を見ろ!」と言わんばかりに最高級のスマイルを浮かべ、指を鳴らして薔薇の幻影を散らしたり、情熱的なポーズをとったりと、文字通り死に物狂いで猛アピールを続けていた。
しかし――。
結局、最後までキュウビには見向きもされなかった。
ユウカの視界は景太で完全に埋め尽くされており、隣で必死に踊り狂う美形の狐妖怪など、やはり「透明な空気」として処理されてしまっていたのだ。
ぽつんと一人、虚空に向かって完璧なウインクをしたまま静止しているキュウビ。
彼の心の中で、張り詰めていた何かの糸が、ついにプツンと音を立てて千切れた。
キュ(最初から落とし済みかーい!!!)
デパートの中心で、キュウビの魂のツッコミが木霊した。
勝負する前から、すでに相手が景太の無自覚タラシの毒牙にかかっており、完全にオチている状態。これでは自分の魅力が通じる以前の問題、いわば戦う前から「ゲームオーバー」の画面を見せられているようなものである。
わなわなと震えながら膝から崩れ落ちそうになるキュウビの耳元に、ピクシーが容赦のない、そして恐ろしすぎる事実を囁いた。
ピク「言っとくけど、他の5年1組の女子も大体こんな感じよ。ケータの無自覚な特訓の成果で、あらかたフラグが立っちゃってるから」
キュ「マジか…怖……」
キュウビの顔から、ついに全ての血の気が引いた。
魔の5年1組の真の恐ろしさ(主に景太のせい)を前に、妖魔界のエリートはついに恐怖で全身を震わせるのだった。
ーーー
先ほどの圧倒的かつ無自覚な惨劇から気を取り直して。
自尊心をズタズタにされた妖魔界のエリート狐は、それでも決して自身の敗北を認めようとはしなかった。「あれは相手が悪かっただけだ」「次は絶対に僕の美貌が勝つ」とブツブツ呟きながら、強引に場所を移すことを提案したのだ。
景太達が連れてこられたのは、さくら中央シティの「しおかぜトンネル」を抜けて直ぐの高級住宅街「そよ風ヒルズ」。その中にある広大な「ひょうたん池公園」の奥、緑豊かな「ひょうたん池博物館」の側に設置された野外ステージであった。
そこは異様な熱気に包まれていた。
「うおおおおおっ!」「ふささたーーーん!!」といった地鳴りのような野太い歓声が響き渡り、無数の色とりどりのサイリウムが波のように揺れている。ステージの周りには、ステージ上の存在を一目見ようと、尋常ではない数の人々が群がっていたのだ。
そして、その熱狂する人だかりの最前列付近には、なぜか頭にハチマキを巻き、両手に何本ものサイリウムを握りしめて全力でオタ芸を打つ赤い猫の妖怪――ジバニャンの姿もあった。
キュ「良し。次はあの彼女達だ!」
先ほどの絶望から無理やり立ち直ったキュウビは、ビシッと野外ステージの上を指差した。
ステージの上では熱狂するファンたちに向けて、まばゆい笑顔を振りまきながら歌い踊る少女たちの姿があった。
彼女たちは皆、黒い縁に耳がピンク色の猫耳カチューシャを着け、手には可愛らしい猫の手を模した手袋、そして黒い猫の尻尾がついた、ピンクや白を基調とするフリルとリボンたっぷりの王道アイドル衣装を身に纏っている。
キュ「あの今超人気の『ニャーKB』! 彼女達のような年上の女性を落とした方の勝ちだ!! 相手が酸いも甘いも噛み分けた大人のアイドルならば、君の小手先の優しさなど通用しない。僕の真の魅力が完全に上回るはずさ!」
キュウビは自信満々にフッと前髪を払い、勝ち誇ったような笑みを浮かべた。今度こそ自分の土俵だと言わんばかりの堂々たる宣言である。
しかし……。
景「馬鹿じゃないの」
ピク「とうとう頭沸いたか」
景太とピクシーは、文字通り「絶対零度」の冷ややかな視線をキュウビに向けた。
彼らの反応は、至極真っ当な常識人そのものであった。
景「いや、キララさんたちの時はデパートのテラスで普通に休憩してたから話しかけられたけどさ。あんな何百人もファンがいるステージのど真ん中に乱入して、仕事中のアイドルを口説きにいくの? 警察呼ばれるよ?」
ピク「アンタ、プライド守るためにとうとう犯罪者になる気? そもそもあの数のファンがいるのに、どうやって近づくのよ。常識で考えなさいよ」
二人の容赦のない正論のフルコースに、キュウビの自信満々な笑顔がピキッとひび割れる。
だが、景太の疑問はそこだけではなかった。そもそも彼とピクシーは、世間の流行にはあまり詳しくなく、ステージで踊っている彼女たちのことを欠片も知らなかったのだ。
景「というか……そもそも『ニャーKB』って何?」
景太が不思議そうに首を傾げた、次の瞬間だった。
ジバニ「知らないのかニャン!?」
―― 刹那、ジバニャンは間合いを殺していた。
つい数秒前までステージの最前列で狂乱のオタ芸を打っていたはずの赤い猫妖怪が、瞬きをする間もなく、景太の目の前わずか数センチの距離にまで瞬間移動のように肉薄していたのだ。
その目は血走り、全身からは達人の闘気ならぬ、アイドルの熱狂的ファンの凄まじい執念のオーラが立ち上っている。
景「うわっ!? じ、ジバニャン!?」
突然の強烈なプレッシャーに景太がのけぞると、ジバニャンは両手に持ったサイリウムを激しく振り回しながら、口角から泡を飛ばさんばかりの勢いで熱血の説明を開始した。
ジバニ「ニャーKBを知らないなんて、人生の半分を損してるニャン!
彼女たちは「ニャき本ニャすし先生」が作った今をときめく超絶最強のトップアイドルグループ! そのキュートな猫耳! 魅惑の猫の手グローブ! そして何より、ファンに寄り添うあの純真無垢な笑顔! 週末の握手会のために、オレっちは毎日チョコボーを我慢してCDを積んでるんだニャン!!」
早口でまくしたてるジバニャン。聞いてもいないのに、彼女たちの衣装の尊さから、プロデューサーの偉大さ、そして自分が会員番号一桁台(7番)の古参ファンであることまで、凄まじい熱量で語り尽くしていく。
ジバニ「そして何より! 特にオレっちの推しである『ふささたん』は最高ニャン!!」
ジバニャンはステージの中央でひときわ輝く、センターの少女に向かってバッと両手を掲げた。
ジバニ「あのおっとりしつつも芯のある瞳! 控えめな男が好きだという、オレっちのためにあるような神設定! ふささたんと目が合った瞬間、オレっちの心臓はエキゾーストノートを響かせて……!! ああっ、ふささたーーーん!! 今行くニャーーーン!!」
熱弁を振るっていたかと思えば、ジバニャンは再び限界突破のスピードで人混みの中へとダイブし、凄まじい勢いでステージの最前列へと戻っていった。
その嵐のような一連の出来事を、ただ呆然と見送る景太たち。
キュ「……どうやら、ガチのアイドルファンらしいね……」
ピク「……必死過ぎて引く……」
先ほどまで「あの大人の女性たちを落とす!」と意気込んでいたキュウビでさえ、ジバニャンのあまりにも狂気じみたドルオタっぷりと、彼と同じような熱量でうごめく数百人のファンたちの異様な熱気に、完全にドン引きして頬を引きつらせていた。
ーーー
熱狂に包まれた野外ステージでのライブが終わった後。
アンコールも終わり、ステージ上の照明が少しだけ落とされると、景太は大きく息を吐き出して帰路につこうと背を向けた。しかし、その足が前に踏み出されることはなかった。
ジバニ「どこに行くニャン?」
背後から伸びてきた赤い肉球のある手に、ガシッと掴まれてしまったのだ。
景「え? いや、ライブも終わったし、そろそろ家に帰ろうかと……」
ジバニ「何言ってるニャン! これからが本番ニャン! だからオレっちが特別に握手会に連れて行ってやるニャン!」
有無を言わさぬ凄まじい気迫と共に、ジバニャンは景太の体をヒョイと持ち上げた。妖怪ならではの馬鹿力で、景太の足は完全に地面から浮き上がってしまう。
景「ちょっと待って! 確かアイドルって握手券が無いと出来ないはず……」
ジバニ「今日は特別に誰でも人数限定で参加出来るらしいから感謝するニャン! さあ、ふささたんの元へダッシュだニャーーーン!」
じたばたと暴れる景太を小脇に抱えたまま、ジバニャンは凄まじいスピードで握手会の待機列へと向かって突撃していった。
その様子を少し離れた場所から眺めていたキュウビは、マントを優雅に翻し、ニヤリと妖しい笑みを浮かべてその後を追った。
キュ「フフ、絶好のチャンスだ。あのアイドル達に僕の極上のスマイルと甘い言葉をかければ、一瞬でオチるはずさ!」
同級生の少女たちにことごとく敗北(しかも無自覚に)してきたキュウビだったが、相手が大人の女性、それも数多のファンを見てきたアイドルとなれば話は別だと踏んでいた。
子供の小手先の優しさなど、大人のアイドルには通用しない。己の完成された美貌と甘いエスコートこそが、彼女たちを魅了する最強の武器であると固く信じ、自信満々で景太たちの後を尾行したのだ。
握手会の特設テント前には、すでに長蛇の列が形成されていた。
夏の終わりの蒸し暑さと、ライブ直後の熱気が入り混じり、周囲は息苦しいほどの空気に包まれている。ジバニャンに無理やり列に並ばされた景太が、ため息をつきながら早く順番が来ないかと待っていた、その時だった。
「あっ……!」
列の先頭付近、特設テントのすぐ前で、短い悲鳴のような声が上がった。
次の瞬間、ドサッという鈍い音と共に、アイドルの衣装を着た一人の少女が地面に倒れ込んだ。ニャーKBのセンターであり、ジバニャンの推しである「ふささ」だった。連日の過密スケジュールと、先ほどのライブの疲労、そしてこの異常な熱気が彼女の体力を限界まで奪っていたのだ。
周囲のファンたちから「おい、嘘だろ!?」「ふささちゃんが倒れた!」とどよめきが起こる。
景「えっ……ふさささんが!?」
景太はハッとして列から身を乗り出した。しかし、すぐに「いや、ここはスタッフの人とか、大人のファンに任せよう。子供の俺が出しゃばる場面じゃない」と思い留まり、足を止めかけた。
だが、上空へとフワリと舞い上がったピクシーが、特設テント周辺の惨状を即座に見下ろして叫んだ。
ピク「ケータ、ヤバいわ。スタッフは人混みで塞がれてるし、変な奴らが近づいてる!」
ピクシーの報告通り、最前列の光景は目を覆いたくなるようなものだった。
アイドルの緊急事態というのに、一部のモラルに欠ける野次馬たちが「おい、ふささが倒れたぞ!」「マジかよ、動画撮っとこ!」と下品な笑いを浮かべながらスマートフォンを構え、倒れ伏す彼女にカメラのレンズを一斉に向けていた。さらに、混乱に乗じてドサクサに紛れ、彼女の身体に触れようとニヤニヤしながら手を伸ばす不埒な輩まで現れていたのだ。
その報告を聞いた瞬間、景太の顔から「普通の小学生の男の子」の表情が完全に消え失せた。
アラスターの地獄のような特訓の中で叩き込まれた、真の紳士としての矜持。それは「悪意に晒され、助けを求める者を決して見捨てない」という絶対のルールである。
景「通してください!」
景太は人混みを掻き分け、大人の男たちの間をすり抜けるようにして最前列へと躍り出た。
そして、地面に倒れて荒い息をつくふささの前に、周囲の群衆を遮るように立ちはだかった。
景太は躊躇することなく、自分が羽織っていた上着を脱ぎ捨て、それをサッとふささの露出した脚と顔を隠すように優しく被せた。アイドルの短いスカート姿で倒れている彼女を、無遠慮なスマートフォンのレンズや盗撮の暴力から守り、彼女の尊厳を真っ先に保護したのだ。
「あ? なんだこのガキ、邪魔すんなよ」
動画を撮ろうとしていた不埒な輩の一人が、急に割り込んできた景太に舌打ちをして凄んだ。体格のいい大人の男の威圧感。並の小学生なら泣いて逃げ出す場面である。
だが、景太は全く怯まなかった。
彼は上着を被せたふささを背に庇いながらゆっくりと立ち上がり、不埒な輩たちに向けて、氷のように冷たく、一切の感情を排した毅然たる眼差しを向けた。
景「下がってください。これ以上近づくなら、警察とスタッフを呼びますよ」
決して声を荒らげたわけではない。むしろ、その声は静かで、どこまでも平坦だった。しかし、その佇まいと瞳の奥底に宿る「これ以上踏み込めば容赦しない」という得体の知れない静かな圧力は、アラスターのそれを彷彿とさせるほどに重く、大人顔負けの凄まじい威圧感を放っていた。
「うっ……」
ただの小学生から発せられたとは思えないその圧倒的なプレッシャーに、不埒な輩たちは思わず気圧され、ジリッと一歩後ずさりをした。
その、張り詰めた緊張感が頂点に達した瞬間だった。
キュ「大丈夫かい、お姫様? 僕が癒してあげよう……」
群衆の頭上を飛び越え、景太のすぐ横に、キュウビが空気を全く読まずにド派手に舞い降りた。
彼はここぞとばかりに完璧な角度でキメ顔を作り、パチンと指を鳴らして周囲に幻の薔薇の花びらを撒き散らした。その姿は、まるで悲劇のヒロインを救い出す王子様そのものを演じているようだった。
少しだけ意識を取り戻し、薄く目を開けていたふささは、その光景をぼんやりと見つめていた。
ふささは、代々妖怪が見える家系に生まれていた。
だからこそ、自分を心配して大粒の涙を流しているジバニャンの姿も自分の尊厳を守り、大人たちに毅然と立ち向かってくれた小さな少年の頼もしい背中も、そして……突如として横に舞い降り、無駄にキラキラとしたオーラを撒き散らして薔薇を降らせている謎の狐妖怪の姿も、全てはっきりと見えていたのだ。
ふささの好きな男性のタイプは「控えめな人」「素朴でしっかり現実を見ている人」である。
そして逆に、最も苦手とするタイプは「身なりが派手な人」だった。
薄れゆく意識の中で、ふささの目はキュウビの放つ過剰なフェロモンと幻の薔薇をしっかりと捉えた。
そして出たのは恐怖や驚きではない。それは純粋で混じり気のない、ドン引きの感情だった。
ふささは無駄にキラキラしている狐妖怪のキメ顔を見て、素で顔を引きつらせると、まるで気味の悪い虫から逃れるように、庇ってくれている景太の足元へと身をすり寄せたのだった。
ーーー
騒動の後、景太たちは運営スタッフの案内により、特設テント裏に用意された関係者用の別室で待機させられていた。
外の喧騒が嘘のように静まり返ったパイプ椅子だけの簡素な部屋で、景太は誰にも気づかれないよう、水面下で迅速な対応をとっていた。
彼が頼ったのは、自身の左腕にはめられた『悪魔ウォッチ』である。
景太はすぐさま、治癒と癒やしの力に長けた「鬼女リャナンシー」を召喚し、ピクシーと共にふささが運ばれた控室へと向かわせた。人間のスタッフや医者には、悪魔や妖精の姿は見えない。だからこそ、医療行為の邪魔をすることなく、密かに回復魔法を掛けて彼女の体力を底上げすることができるのだ。
さらに景太は念には念を入れ、「天使エンジェル」と上位の「天使アークエンジェル」も召喚していた。彼らには霊体のまま、ふささが休んでいる控室の扉の前に立ち、見張りを任せている。
先ほどのようなどさくさに紛れて忍び込もうとする不埒な輩や、不審な気配を完全にシャットアウトするための、文字通り鉄壁の神聖な布陣であった。
ジバニ「ふささたん……どうか無事でいてほしいニャン……」
待機室の隅では、ジバニャンが両手を合わせ、今にも泣き出しそうな顔でウロウロと歩き回っている。
一方のキュウビは、先ほど渾身のキメ顔と幻の薔薇をふささに素で引かれた(ドン引きされた)という事実からまだ立ち直りきれておらず、腕を組んで壁によりかかりながらも、その視線は心配そうに床を彷徨っていた。
景太が静かに目を閉じ、悪魔たちの帰還を待っていると、スッ……と目の前の壁の空間が揺らいだ。
ピクシーとリャナンシーが、壁をすり抜けて景太たちの待つ部屋へと戻ってきたのだ。
ピク「ひとまずは問題ないわね。顔色も良くなっていたわ」
空中にふわりと浮遊したピクシーの報告に、ジバニャンが「本当ニャン!?」と勢いよく顔を上げた。それに続くように、豪奢なドレスを纏った憂いのある美女――鬼女リャナンシーが、静かに首を縦に振る。
リャナ「ええ、命に別状はないわ。……おそらくは過労ね」
景「過労?」
景太の問いかけに、リャナンシーは、少しだけ悲しげに伏し目がちになった。
リャナ「アイドルのセンターとしての、周囲からの異常なプレッシャーよ。プロのメイクアップでうまく隠されていたようだけれど、あの目の下の深いクマからして、連日夜遅くまで仕事に追われていたようね」
リャナンシーはそっと胸元に手を当て、眠っていた少女の心を代弁するように語り続けた。
リャナ「それでも……ファンのみんなに明るいアイドルとしての夢を見せるために、どれだけ心身が削られても、心無い批判を受けても、平気な様子を演じ続けなければならない。無理をして、無理をして、自分を奮い立たせてこのステージまでやって来たのよ、この子は」
その言葉には、表現者特有の孤独と苦悩を理解するリャナンシーならではの、深い哀れみと優しさが込められていた。
華やかな笑顔の裏側に隠された、悲痛なほどの努力と重圧。その真実を聞かされたジバニャンは「ふささたん……オレっちたちのために、そんなに無理を……っ」と大粒の涙をこぼし、景太もまた、同年代の少女たちとは違う過酷な世界で戦う彼女の背中を思い、静かに目を伏せた。
その時、コンコン、と待機室の扉が控えめにノックされた。
景「はい」
景太が声をかけると、ガチャリと扉が開き、首から関係者パスを下げた運営スタッフが入ってきた。その顔には、先ほどまでの緊迫した焦りはなく、深い安堵の表情が浮かんでいる。
スタッフ「あの……先ほどは、ふささをお守りいただき本当にありがとうございました。おかげさまで容体が安定しまして、無事に目を覚ましました」
景「そうですか、よかったです」
スタッフ「それで……ふささ本人が、助けてくれたあなたにどうしても直接お礼を言いたいと申しておりまして。……よろしければ、ニャーKBのメンバーたちがいる控室へご案内してもよろしいでしょうか?」
スタッフのその言葉に、景太は小さく頷いた。
傍らでは、憧れの控室に招かれるという急展開に、涙目だったジバニャンが「ホントかニャン!?」と歓喜の声を上げ、キュウビも「フッ、ついに僕の出番というわけだね」と、懲りずに前髪をかき上げて体勢を立て直していた。
ーーー
スタッフに促され、景太たちが足を踏み入れたのは、特設テントの奥に用意された広々とした控室だった。
鏡張りのメイク台や華やかな衣装が並ぶその空間の中央で、簡易の医療用ベッドの上に、ニャーKBのセンター・ふささが静かに腰を下ろしていた。
ふささの周囲には、ふーにゃん、れーにゃ、ゆっきーにゃといった、テレビやポスターでしか見ないような超人気アイドルたちが心配そうに彼女を取り囲んでいる。
部屋に入ってきた景太の姿を認めると、ふささはメンバーたちの間から少しだけ身を乗り出した。
景「……起きてて大丈夫ですか?」
景太が控えめに、しかし心から心配する声色で問いかけると、ふささはパッと顔を明るくし、アイドルのセンターにふさわしい、花が咲くような完璧な笑顔を浮かべた。
ふさ「ええ。お陰様で。少し貧血を起こしちゃったみたいで……もうすっかり大丈夫よ」
ふさ「あなたのお陰で助かったわ。本当にありがとう。あんな状況で、しかも小学生の男の子に守ってもらうなんて……私、ちょっと情けないわね」
クスッと悪戯っぽく笑いながら、ふささは景太の勇気ある行動に心からの感謝を伝えた。
それに続くように、周囲を囲んでいたメンバーたちも次々と景太に頭を下げる。
ふー「ふささちゃんを助けてくれて、本当にありがとうね!」
ゆっきー「すっごく男らしくてカッコよかったよ、小さな紳士さん!」
れー「あんな野次馬の前で堂々としてるなんて、すごいよー!」
背後ではジバニャンが憧れのふささを前に「ふささたぁぁん……無事でよかったニャァァン……!」と声にならない声で咽び泣き、キュウビは隙あらば甘い言葉を囁こうと前髪をいじっているが、やはり全く視界に入れられていない。
アイドルたちからの感謝と称賛。普通の小学生男子であれば、顔を真っ赤にして照れるか、有頂天になってしまう場面だろう。
しかし、景太の表情は険しかった。
彼の目は、ふささの浮かべている「完璧な笑顔」に釘付けになっていたのだ。
景(……違う。キララさんたちの時と同じだ。いや、もっと根が深い……)
景太は、かつて地獄の特訓で自分を指導した悪魔・アラスターの顔を思い浮かべていた。アラスターの笑顔は常に完璧で、一見すると親しみやすさすら感じさせるが、その奥には決して他人に本性を見せない鋼の意志と、計算し尽くされた虚像が張り付いていた。
長年、あの「完璧に作られた笑顔」の裏側にある重圧や心理を間近で観察し続けてきた景太とピクシーの目には、ふささの笑顔がどういう性質のものか、痛いほどに透けて見えていた。
周囲を心配させないための、そしてアイドルとしての自分を保つための、限界ギリギリの虚勢。
リャナンシーが言っていた通り、彼女の疲労は全く抜けきっていない。このまますぐに復帰してしまえば、彼女の心と体は近いうちに完全に壊れてしまうだろう。
だが、そう直感したからといって、景太はどう動くべきか分からなかった。
景(俺が何を言える……?)
心の中で葛藤が渦巻く。自分はまだランドセルを背負う子供であり、彼女が背負っているプロのアイドルとしての人生や、大人たちの事情なんて何ひとつ理解できていない。そんな部外者の子供が、彼女の覚悟や生き方に軽々しく口を出していいはずがない。
景太が一歩引き下がろうとした、その時だった。
ピク「……ケータ。行ってきなさいよ」
その危うさに気づいたピクシーが、景太の肩にフワリと降り立ち、耳元で静かに呟いた。
ピクシーの声には、珍しくふざけた調子が一切なかった。しかし、景太はギュッと拳を握りしめ、小さく首を振った。
景「でも……俺はただの子供だ。彼女ほど長い人生を歩んでないし、アイドルっていう厳しい世界のことなんて、何一つ分かってない。俺みたいな子供が、大人の彼女に何かを言ったところで……」
相手はトップアイドルであり、大人の女性だ。キララたちの時とはワケが違う。見ず知らずの小学生が、大人の抱える深刻な悩みに土足で踏み込むなど、あまりにも出過ぎた真似ではないか。そう躊躇する景太に…。
バーンッ!!
ピクシーが、小さな手で容赦なく景太の背中を引っ叩いた。
ピク「バカね! やらない後悔よりも、やる後悔よ! それに、アンタはあの『マム』の言葉を忘れちゃったの!?」
その言葉を聞いた瞬間、景太の脳裏に、もう一人の厳しい恩師の姿がフラッシュバックした。
家事のスペシャリストにして、一度スイッチが入ると熱血教官「マム」へと変貌する妖精、シルキー。彼女は景太を立派な紳士にするべく、一週間にわたって洗濯、掃除、料理、そして「人への気配り」に至るまで、徹底的に叩き上げてくれた。
最終日に景太に対し、シルキーは厳しいながらも温かい目でこう告げていたのだ。
シル『失敗を恐れないでください』
あの優しくも力強い励ましの言葉。
アラスターの厳しい特訓を乗り越え、人の心に寄り添うことの大切さを学んできたじゃないか。
景太は、背中の痛みが熱い決意に変わっていくのを感じた。ギュッと両拳を握り締め、深く息を吸い込む。
景(……そうだ。失敗を恐れて立ち止まるのは、紳士じゃない!)
景太の迷いが、スッと晴れていく。
目の前で無理をして笑っている一人の女性を助けたい。子供だから、大人だからなんて関係ない。
景太は深く息を吸い込み、決意を固めた。
景(とはいえ……急に『ふさささんと2人きりにしてください』なんて言っても、メンバーやスタッフさんが聞くはずがない。不審がられて追い出されるのがオチだ)
ならば、方法は一つしかない。
この大勢の人間が見ている前で、一瞬の隙を突き、彼女の心の最も深い部分に直接言葉を投げかけるのだ。
景(チャンスは一度だけ。……やるしかない!)
景太は、心配そうにこちらを見つめているニャーKBのメンバーたちの間を真っ直ぐに通り抜け、ベッドに座るふささの目の前まで歩み寄った。
そして、大人たちの視線が集まる中、ゆっくりと口を開いた。
景「……彼女たちは、幸せですね」
ふさ「え……?」
ふささは目を丸くした。命の恩人とはいえ、目の前にいるのはまだほんの小学生の男の子だ。てっきりサインか握手でもねだられるのかと思っていた彼女にとって、景太の口から紡がれた言葉は、あまりにも予想外だった。
ふささはもちろん、周囲のメンバーたちも一瞬言葉を失い、ポカンと景太を見つめる。
だが、景太は逃げなかった。
その真っ直ぐで淀みのない瞳で、ふささの目をしっかりと見つめ返した。
景「だって……ふさささんのおかげで、みんなが進むべき目標が見えているんですから」
ふさ「……っ」
景「どこが前かも後ろかも分からない暗闇の中で、本当はすごく怖くて辛いはずなのに……ふさささんは、ずっと先頭を切って走り続けて、みんなのために道を作ってきたんですよね」
その言葉が響いた瞬間、ふささの頬からスーッと血の気が引いた。
顔に張り付いていた「アイドルの完璧な笑顔」が、微かに、しかし確実に揺らぎ始める。
景太には見えていた。その笑顔の奥底にある、押し潰されそうなほどの重圧と恐怖が。
国民的アイドルグループのセンターという、誰も経験したことのない異常な重責。批判の的になる恐怖。自分が立ち止まれば全てが終わってしまうのではないかという強迫観念。
景太の言葉は、彼女が必死に隠してきたその心の急所を、いとも容易く、そして優しく撫でたのだ。
景「速すぎて、みんなを置いていっちゃうかもしれない。遠回りになっちゃうかもしれない……それでもふさささんは、必死で足を動かしてきた。そしてメンバーのみんなは、どれだけ遠くなっても、ふさささんの走る背中が『前』なんだって信じてついてきてくれる。それって……普通は絶対にできないことですし、「道が見える」。彼女達にとってそれは幸せなんです」
ふさ「あ……」
ふささの唇が震えた。
景太の言葉を聞いてハッとしたように、ふーにゃんやれーにゃといった他のメンバーたちも、ふささの顔を見る。彼女たちはそこで初めて気づいたのだ。
いつも完璧で、いつも前を向いていた自分たちのセンターが、今にも泣き出しそうなほど限界を迎えていたということに。
景「でも……だからこそ、時にはその足を止めても、大丈夫だと思うんです」
景太の声はどこまでも優しく、暖かかった。それはアラスターのような計算されたものではなく、持ち前の優しさとシルキーから教わった「失敗を恐れない心」から出た、真実の響きだった。
景「道を作っていると言ったって、ふさささんだって一人の人間なんですから。立ち止まって、腰を下ろして休んだって、誰も文句なんて言いませんよ。
……周りのみんなの顔を見れば分かります。ふさささんは、こんなにも愛されてる。だから、立ち止まって自分たちを頼ってくれたことを、みんなきっと……喜んでくれるはずです」
部屋の中が、水を打ったように静まり返っていた。
誰一人として景太の言葉を遮る者はいない。アイドルの運営スタッフたちすらも、その小さな少年から発せられる圧倒的な説得力と優しさに当てられ、呆然と立ち尽くしていた。
張り詰めた空気の中、景太はそこでフッと眉を下げ、いつもの年相応の少年らしい、少しだけ気恥ずかしそうな苦笑いを浮かべた。
景「……なんて。年下の俺が生意気なこと言っちゃってごめんなさい。でも……本当はすごく無理をしてるんじゃないかって、そう見えたから……」
ポタッ……。
白いシーツの上に、小さな染みができた。
ふささの大きな瞳から、大粒の涙が溢れ落ちていた。
ふさ「……うっ……ひぐっ……」
一度堰を切った感情は、もう止めることができなかった。
常にファンを笑顔にするため、弱音を吐かず完璧に作り上げてきた「アイドル・ふささ」の仮面が完全に崩れ去り、そこにはただ一人、重圧に怯えていた等身大の少女の姿があった。
ふさ「ごめん、なさいっ……わたし、本当は……っ、すごく怖くて……! もし私が休んだら、みんなの足を引っ張っちゃうって……!」
両手で顔を覆い、子供のように声を上げて泣きじゃくるふささ。
その瞬間、ふーにゃんとれーにゃが弾かれたように飛び出し、ベッドの上のふささを両側から強く抱きしめた。
ふー「ふささのバカ……! なんで一人で抱え込むのよ!」
れー「そうだよ! 私たち、ふささの背中ばっかり見て甘えてた……! もっと私たちを頼ってよ、一緒に休んで、一緒に歩こうよ……っ!」
ゆっきーにゃも目を潤ませながら駆け寄り、メンバー全員が泣きながらふささを中心に小さな輪を作った。彼女たちはアイドルグループから、真の仲間へと変わった瞬間だった。
その美しい光景を少し離れた場所から見守っていたピクシーは、フフッと誇らしげな笑みを浮かべ、見えない手で景太の頭をポンポンと撫でた。
そして、涙と鼻水で顔をグチャグチャにしながら号泣している者がもう二名(匹)。
ジバニ「ふささたーーーん!! オレっちはいつまでも待ってるニャーーーーン!! 永遠に推すニャァァァ!!」
床を転げ回りながら滝のような涙を流すジバニャン。
そして……。
キュ「…………」
部屋の隅で、幻の薔薇の花びらを握りしめたまま、キュウビは完全に硬直していた。
彼の目に映っているのは、一切の魔法も、妖術も、見え透いた甘いセリフやキメ顔すらも使わず、ただ純粋な思いやりと「言葉の力」だけで、大人の女性たちの強張った心を完璧に解きほぐしてみせた、一人の少年の背中だった。
キュ(フッ……敵うはずがない。認めよう。僕の……完全敗北だ……)
酸いも甘いも噛み分けた大人の女性たち。彼女たちを魅了したのは、派手な演出や上辺だけの美貌ではなかった。
相手の本当の痛みに寄り添い、尊厳を守り、暗闇からすくい上げる「真の紳士」の魂。
キュウビはフ…と頬を上げた。
ーーー
しばらくして、落ち着きを取り戻したふささは、まだ少し赤い目をしながらも、今度は作り物ではない、心底からの柔らかな笑顔を景太に向けた。
ふさ「……ありがとう、景太くん。私、少しだけお休みをもらうことにしたわ」
ふー「今度は私たちがふささを引っ張る番だからね!」
ふさ「ふふっ、頼もしいわね。……でも、景太くんには負けちゃうかも。本当に、すっごく頼りがいがあって、素敵な『小さな紳士さん』なんだもの」
れー「ねー! クールでカッコよかったし、照れた顔はすっごく可愛いし♥ 私、景太くんがもう少し大人だったら、絶対惚れちゃってたなー!」
ふさ「あ、ずるい! 景太くんの恩人は私なんだからね!」
大人の女性たちから次々と向けられる、愛情とからかいの混じった黄色い声。
先ほどまでの堂々たる態度はどこへやら、景太は「えっと、あの……」と顔を真っ赤にしてタジタジになるしかなく、その初々しい姿がさらにアイドルたちの母性本能をくすぐり、控室にはようやく、心からの明るい笑い声が響き渡るのだった。
ーーー
アイドルたちからの温かい称賛とからかいの言葉を一身に浴び、すっかり顔を茹でダコのように赤くした景太は「そ、それじゃあ俺たちはこれで……!」と逃げるように控室のドアへと向かった。
その背中を追いかけながら、ピクシーは呆れたように宙を舞い、部屋の隅で燃え尽きていたキュウビの横にフワリと降り立った。
ピク「アンタ、行かなくてよかったの?」
先ほどまで、あんなにふささにアピールしようと躍起になっていたキュウビである。だが、彼は静かに首を振り、少しだけ自嘲気味な、しかし憑き物が落ちたようなスッキリとした笑みを浮かべた。
キュ「……そこまで僕は自己中じゃないよ」
真に彼女の心を救ったのは誰か。そして、今の彼女にとって誰の言葉が一番必要なのか。それを悟ったからこその、彼なりの美学であり、静かな引き際だった。
そんなやり取りを交わしつつ、景太たちが控室のドアノブに手をかけた、その時だった。
ふさ「待って」
背後から、透き通るようなふささの声が響いた。
景太が振り返ると、ベッドから立ち上がったふささが、まっすぐにこちらを見つめていた。しかし、彼女の視線は景太ではなく、景太の頭上の宙を舞う小さな妖精や、壁際に佇む豪奢な鬼女たちへと向けられていた。
ふさ「貴方達も、ありがとう」
ふささは、ピクシー、リャナンシー、そして部屋の外で護衛をしてくれていたであろう見えないエンジェルたち、さらには部屋の隅にいるキュウビとジバニャンに向かって、深く、心からの敬意を込めてお礼を言ったのだ。
景「えっ……!? もしかして、見えてるんですか!?」
景太は驚きのあまり声を裏返した。悪魔は、普通の人間の目には決して映らないはずである。
ふさ「ふふっ。私、昔から妖怪が見える家系なの」
ふささは悪戯っぽく微笑みながら、小首を傾げた。
ふさ「でも、妖怪じゃなくて……悪魔たちも見えるって気づいたのは、今日が初めてだけどね」
景太に付き従う見慣れぬ不思議な存在たち。彼らが自分のために力を尽くしてくれたことを、ふささはしっかりと認識していたのだ。
それを聞いたピクシーは、腕を組みながらやれやれといった様子でため息をついた。
ピク「ケータ、やっと気づいたのね。本当に鈍いんだから。
……まあいいわ。アンタも、これからは適度にサボりながら頑張んなさいよ」
ぶっきらぼうな口調の中にも、同性としての気遣いと優しさが込められたピクシーの言葉。その「サボりながら」という、アイドルらしからぬ、しかし今の彼女に一番必要なアドバイスに、ふささは心底嬉しそうに頷いた。
ふさ「うん。そうさせてもらうわ」
今度こそ本当にやるべきことは全て終わった。
景太は満足げに頷き、ドアノブを回して部屋を出ようとした。その瞬間だった。
ふさ「ケータくん」
景「?」
名前を呼ばれ、景太が再び振り返った――その刹那。
ふわりと、柑橘系と甘いフローラルが混ざったような、大人の女性の香りが鼻腔をくすぐった。
景太の視界が、信じられない光景で埋め尽くされる。
いつの間にか目の前まで歩み寄っていたふささが顔を近づけて……。
チュッ……。
ピク&キュ「「!!?」」
空中にいたピクシーは羽ばたくのを忘れて墜落しかけ、クールに決めていたはずのキュウビは目を限界まで見開いて完全にフリーズした。
ニャーKBメンバー「「キャーーーーッ!!♪」」
ふーにゃんやれーにゃたちから、アイドルの控室とは思えないほどの大音量で、女子高生のような黄色い悲鳴と歓声が爆発する。
リャナ「あらあら。青春ね〜♪」
状況を瞬時に理解したリャナンシーだけが、頬に手を当てて艶やかに微笑み、見守っている。
そして、この世の終わりを目撃してしまった者が一匹。
ジバニ「!!!???」
その決定的瞬間を最前列で目撃してしまったジバニャンの脳天に、目には見えない巨大な雷がビシャァァァァン!!と直撃した。彼は声にならない叫びを上げながら、白目を剥いてその場に力尽き、完全に魂が抜け出ていった。
一切の音を置き去りにしたような、柔らかな感触。
ふささのしっとりとした唇が、景太の唇に、寸分の狂いもなく重なっていた。
それは頬へのキスでも、おでこへのキスでもない。
唇と唇同士が触れ合う、紛れもない『ファーストキス』だった。
数秒の後、ふささがゆっくりと唇を離す。
景太は完全に呆然自失となり、腕をだらんと下げたまま、口をパクパクと金魚のように動かしていた。目の前の現実が、小学生の脳の処理能力を遥かに超えてしまったのだ。
やがて、数秒遅れて「自分が今、国民的トップアイドルの大人の女性と、唇にキスをした」という事実が脳内に到達した瞬間。
景「!?!?////」ボフッ!!
景太の頭頂部から、目に見えるほどの湯気が噴出した。
顔面どころか、耳の先から首筋に至るまでが瞬時に真っ赤に染まり、茹で上がったタコすらも凌駕するほどの真紅へと変貌する。手足はロボットのように硬直し、完全にキャパシティオーバーを起こしていた。
そんな、パニック状態に陥り純情を爆発させている景太の姿を至近距離で見つめながら。
ふささは、少しだけ恥ずかしそうに自分の頬をほんのりと薄紅に染め、目を細めた。
ふさ「本当に、有難う」
それは、ステージ上でファンに向けて作られる完璧なアイドルの笑顔でもなく、先ほどの無理をした笑顔でもない。
一人の少女として、自分を暗闇から救い出してくれた小さな紳士に向けた、今日一番、いや――彼女の人生で最も美しく、最も魅力的な、心からの笑顔だった。
ーーー
役目を終えたリャナンシーと、控室前で見張りをしていたエンジェル、そしてアークエンジェルは、景太からの労いの言葉と共に霊体を解かれ、魔界へと帰還していった。
景太たちが嵐のように去っていった後の特設テントのニャーKB専用の控室では先ほどまでの重苦しい空気は完全に吹き飛び、すっかり女子校の放課後のような賑やかで華やかな空気に包まれていた。
ふー「いやー、それにしてもさっきのケータくん、すっごく男前だったよねー!」
れー「ね! あんな小さいのに、私たち大人の前で堂々と言い切っちゃってさ。でも、キスの後は茹でダコみたいに真っ赤になって固まってたし、そのギャップがたまらなく可愛かったー!」
みけけ「わかるー! 私たちの胸からキュン玉出まくりだったもん!」
メンバーたちが頬を赤く染めながらワイワイと景太の話題で盛り上がる中。
部屋の中央にある簡易ベッドの上で、当の本人であり、キスの張本人であるふささは、両手で顔を覆い隠したまま微動だにしていなかった。
その耳から首筋にかけては、熟れたリンゴのように真っ赤に染まっており、指の隙間からは今にもシューシューと湯気が噴き出しそうである。
ふー「ん? どうしたのふささ? まだ具合悪いの?」
心配したふーにゃんが顔を覗き込むと、ふささは覆った両手の中でフルフルと勢いよく首を横に振った。
ふさ「……どうしよう……///」
ニャーKBメンバー「「「?」」」
両手の中から消え入りそうな声で呟かれた一言に、ワイワイ騒いでいたメンバーたちは一斉に首を傾げた。
ふさ「本当は……ホッペにするつもりだったのに、唇にキスしちゃったぁ……///」
その告白を聞いて、控室の空気が一瞬ピタリと止まった。
ふささの言う通り、本来彼女は景太の頬に軽く感謝のキスをするつもりだったのだ。しかし、立ち去ろうと振り返った景太の動きと、ふささのタイミングが完全にズレてしまい、あのような見事なリップ・トゥ・リップになってしまったのである。
言うなれば、あれは完全なる事故であった。
あの瞬間、ふささは内心で心臓が口から飛び出そうになるほどパニックに陥っていた。しかし、アイドルとしてのプライドと、年上の女性としての意地がとっさに働き、必死で大人の対応と魅力的な笑顔を作ってその場を乗り切ったのだ。
だが、景太たちが帰って緊張の糸が切れた今、予想外のファーストキス(しかも相手は小学生の男の子)をしてしまったという事実に、彼女の羞恥心は限界を突破していた。
ふー「あははっ! なんだ、ふささがあのケータくんよりパニックになってるじゃない!」
みけけ「でも、結果オーライで良かったじゃない。あの子、本当にカッコよかったし、私たちの恩人なんだから」
れー「うんうん! それにパニックになってるケータくん、すっごく可愛かったよね!」
他のニャーKBメンバーたちも口々にふささを慰めつつ、むしろ羨ましいとばかりにニコニコと笑っている。
誰一人として彼女の失敗を責める者はおらず、むしろあの小さな紳士になら心を奪われても仕方がないと、全員が同じ考えを抱いていた。
メンバーたちの温かい言葉に、ふささは少しだけ顔を覆っていた指の隙間を広げた。
そして、まだ熱を持った自分の唇にそっと指先を触れながら、先ほどの柔らかい感触を思い出すように、ぽつりと呟いた。
ふさ「……ケータくんの唇……柔らかくて、ほんのり甘かった……///」
それは、無意識にこぼれ落ちた、乙女の隠しきれない本音だった。
その瞬間、ふささを慰めていたメンバーたちの動きが完全に停止した。
そして次の瞬間、ふーにゃん、れーにゃ、みけけをはじめとするニャーKBの全メンバーが、目をギラギラと輝かせながら、ベッドの上のふささに向かって一歩、また一歩とにじり寄った。
ニャーKBメンバー「「……それ、詳しく聞かせて?」」
ふさ「えっ……? ひゃっ、ちょっとみんな、顔が近い、近いからぁっ!!///」
まるで極上のスイーツを見つけた肉食獣のような眼差しで詰め寄るメンバーたちに、ふささはたまらず悲鳴を上げる。
夜の控室には、小さな紳士の甘い余韻を巡る、トップアイドルたちの賑やかで楽しげな声がいつまでも響き渡っていた。
ーーー
すっぷりと日が落ちた夜のさくらニュータウンへの帰り道。
秋の始まりを感じさせる涼しい夜風が吹いているというのに、景太の顔は未だに茹でダコのように真っ赤に染まったままであった。
景太は無言で、少し焦点の合わない目を宙に彷徨わせながら、ロボットのようなカクカクとした足取りで歩いている。彼の脳内では、先ほどの控室での出来事――いや、最後の一瞬の光景が、超高画質の無限ループで再生され続けていた。
近づいてきた、柑橘系と甘いフローラルが混ざった大人の女性の香り。
そっと肩に添えられた手の感触。
そして……自分の唇に重なった、柔らかくて温かい、ふささの唇。
11歳の少年にとって、あまりにも刺激が強すぎる「初めての経験」だった。
ピク「ちょっとケータ、いつまで魂抜けた顔してんのよ」
空をフワフワと飛びながらついてきていたピクシーが、呆れたように景太の周りを一周した。
ピク「でも、良かったじゃない。アンタのファーストキスのお相手が、あの超有名アイドルなんだから。しかも、間近で見てもすっごい美人だったわよ? ……まあ、アンタがカッコいいこと言ったご褒美ってところね。フフッ」
お姉さんぶったピクシーのからかいの声も、今の景太の耳には全く届いていない。彼はただただ両手で自分の口元を覆い、自分の内なる宇宙と交信しているかのように無反応だった。
しかし、この状況を全く笑えない――いや、絶望のどん底に叩き落とされている者が、約一名(一匹)存在した。
ジバニャンである。
景太の足元をトボトボと歩く赤い猫妖怪の姿は、まるでこの世のすべての不幸を背負い込んだかのように哀愁が漂い、その毛並みは生気を失ってボロボロになっていた。
それもそのはずである。
あの控室で、ジバニャンはとんでもない光景を見せつけられたのだ。
キュウビは敗北続きて達観してたお陰で、まだ「辛うじて耐えている」と言えるかもしれない。自分のアプローチが失敗しただけなのだから。
だが、ジバニャンは違う。彼はニャーKBの「ガチ勢」であり、中でもふささは命よりも尊い推しである。
その最愛の推しが、あろうことかごく普通の小学生に自ら歩み寄り、魅惑的な笑顔で唇を重ねたのだ。
さらに、それを見た他のメンバーからは、「キャー!♪」「ケータくん可愛いー!♥」という黄色い歓声と共に、妖怪特有の好意の証である大量のピンク色の『キュン玉』が、ポンポンと景太に向けて飛び交っていた光景まで脳裏に焼き付いている。
推しのふささたんのファーストキス(少なくともジバニャンの目の前では)を奪われただけでなく、他のメンバーたちの心までをも根こそぎ奪っていった男。
ニャーKBに命を懸けるガチファンにとって、これほどの屈辱と絶望はない。ジバニャンの瞳からは、もはや光が失われていた。
沈黙に包まれた帰り道。
やがて、ずっと口元を両手で覆い、無言のままカクカクと歩いていた景太が、ようやくその口を開いた。
景「……た」
ジバニ「……?」
景「唇……柔らかかった……////」
夜の静寂の中に、心の奥底から絞り出すように漏れた、11歳の少年のあまりにも生々しく純情な感想。
その瞬間。
ブチッ……!!
ジバニャンの脳内で、決して切れてはいけない太い理性の線が、音を立ててちぎれ飛んだ。
限界まで張り詰めていたジバニャンの心の中に、絶望を超えたドス黒いマグマのような「嫉妬」と「怒り」が爆発したのだ。
ジバニ「この…………っ!! この、人類の敵がァァァァァァァァーーーーッ!!!」
夜の住宅街に、ジバニャンの血を吐くような絶叫がこだました。
先ほどまで生気を失っていたはずのジバニャンは、眼球にビッシリと血走った血管を浮かび上がらせ、両目から滝のような血涙を流しながら、景太に向かって猛烈な跳躍を見せた。
景「えっ!?」
我に返った景太が目を見開いた時には、すでに遅かった。
悪魔との特訓で鍛え上げられた景太の動体視力をもってしても回避不可能なほどの、愛と憎悪が入り混じった神速の連打が迫り来る。
ジバニ「ふささたんの唇を奪った罪は重いニャン!! 地獄へ落ちろォォォ!! 『ひゃくれつ肉球ゥゥゥゥゥッ』!!!」
バババババババババッ!!!
推しを奪われた悲しみ、キュン玉を独占された嫉妬、そして先ほどの生々しい感想への怒り。その全てを乗せた何百発もの肉球ストライクが、無防備な景太の全身(主に顔面と腹部)に容赦なく炸裂した。
景「あーーーーーーっ!!??」
悲鳴を上げる間もなく、景太の身体は信じられないほどの推進力を得て宙へと浮き上がり、そのまま夜空の彼方に向けてロケットのように一直線にカッ飛んでいった。
キラーン☆
やがて景太の姿は、暗い夜空の星々の中に紛れ、一筋の美しい輝きを放って見えなくなった。
その、見事すぎる放物線を描いて星となった景太の軌跡を宙に浮きながら眺めていたピクシーは、手を額にかざしてフッと息を吐くと、まるで打ち上げ花火でも見たかのような呑気な声でポツリと呟いた。
ピク「……た〜まや〜」
かくして、大人の階段を一段(飛び級で)上ってしまった小さな紳士の長く激動の一日は、秋の夜空に美しく散ることで幕を閉じたのであった。