ー景太の部屋ー
室内は異様なほどの熱気と奇妙な静寂、そして時折漏れ聞こえるラジオのノイズのような笑い声が充満していた。
部屋の主である景太は、自らの学習机に上半身を完全に投げ出し、両腕で頭を抱え込むようにして突っ伏していた。
その耳の裏から首筋にかけては、まるで沸騰したヤカンのように赤く染まり上がっており、頭頂部からは幻覚ではない本物の湯気が立ち昇っているようにすら見える。
無理もない。国民的アイドルグループ「ニャーKB」の不動のセンターであるふささとあろうことか唇と唇を重ね合わせてしまったのだ。
その直後、ふささの熱狂的ファンである赤い猫妖怪から怒りと嫉妬に塗れた無数の拳を叩き込まれ、文字通り夜空の星となって吹き飛ばされた彼は、どうにかこうにか自力でこの部屋まで帰還を果たしたものの、完全にキャパシティを超えた脳はショートを起こし、現実逃避のどん底に沈んでいた。
そんな景太の背後でより魔界へと赴き鍛錬を行って、先ほど帰還したばかりのアラスターが持ち歩いているマイクスタンド型の杖をクルクルと楽しげに回しながら、わざとらしいほどの大きなため息を吐いた。
アラ「いや〜この私としたことがそんな面白いものを見逃してしまうとは何と自分が情けない!」
そして、留守を任せていた妖精ピクシーから、そよ風ヒルズの野外ステージで起きた一連の騒動と、キュウビの完全敗北、そして何より景太の事故的なファーストキスの顛末を聞かされ、ひどく悔しがっていた。彼の顔には、後悔の言葉とは裏腹に、隠しきれない満面の笑みが張り付いている。
ベッドの縁に腰掛け、足をぶらぶらと揺らしていたピクシーは、そんなアラスターの芝居がかった態度に、心底呆れたようなジト目を向けた。
ピク「正直、アンタがいなくて本当に良かったわ……絶対アンタ抱腹絶倒するもん」
あの場にこの悪趣味な悪魔が居合わせていたらどうなっていたか。間違いなく、極度の緊張とプレッシャーから解放され涙を流すふささと、不測の事態に茹でダコ状態となってパニックを起こす景太の姿を指差し、腹を抱えて大爆笑していたに違いない。
ピクシーにはその光景が手に取るように鮮明に想像できた。景太の尊厳など、この悪魔のエンターテインメントの前では塵芥に等しいのだから。
景「う、うぅ……あぁぁぁ……」
机からくぐもった呻き声が漏れる。景太は未だに真っ赤な顔を上げることができない。唇に触れた柔らかい感触が脳内で何度もフラッシュバックしているのだろう。
そんな景太の惨状を気にする素振りすら見せず、アラスターはニヤリと口角をさらに吊り上げた。片眼鏡の奥の瞳が、悪戯を思いついた子供のように妖しく光る。
アラ「今度、ロボニャンさんに頼んでその時の場面を見せてもらいましょう」
悪びれもなく放たれたその提案に、ピクシーは羽を震わせて抗議の声を上げた。
ピク「アンタ。1930年代以降の技術が嫌いじゃなかった?ロボニャンって滅茶苦茶未来から来た妖怪でしょ?」
アラスターは生前からの強いこだわりとして、テレビやインターネットなどの比較的新しいテクノロジーを酷く嫌悪している。未来からやってきたという全身機械仕掛けのロボニャンなど、本来であればアラスターの美学に最も反する存在のはずである。
体内工場でチョコボーを生産し、目からビームを放つような未来のテクノロジーの結晶に、自ら頼み事をするなど言語道断ではないのか。
しかし、アラスターはピクシーの真っ当なツッコミに対し、ラジオのノイズ混じりの声で軽快に答えた。
アラ「はい。そうですよ。ですが今回はケータくんの経緯が優先です!きっと物凄く面白いんでしょうね!ニャハハハハ!!」
自らのポリシーや美学すらも、最上の娯楽の前ではあっさりと投げ捨てる。それがアラスターという悪魔の底知れなさであり、狂気でもあった。景太の慌てふためく決定的な瞬間を映像として記録し、あわよくば何度も再生して笑いの種にしようという腹積もりなのだ。
ピク「あっそ…もう好きにしたら」
ピクシーは深くため息を吐き、説得を諦めた。この悪魔が一度面白いと思ったことに執着し始めれば、誰が何を言っても無駄である。
部屋の中には、机に突っ伏して身悶えする景太の呻き声と、それを肴にして高笑いするアラスターのノイズ混じりの笑い声だけが響き渡る。ピクシーはふと窓の外へと視線を向けた。
まだまだこの騒動の余波は収まりそうにない。そう直感したピクシーは、やれやれと小さく肩をすくめたのだった。
ーーー
ー木霊家・文花の部屋ー
先ほどまで外でライブを観ていたはずのジバニャンが、家に戻ってくるなり凄まじい足音を立ててクローゼットの中へと飛び込んでいった。
その様子をポカンと眺めていたウィスパーは、宙に浮きながら首を傾げた。
ウィス「どうしたんでしょうジバニャン。帰った途端にヒキコウモリ達のいるクローゼットに入って行きましたが…」
文花の部屋にあるクローゼットには、本来の主であるヒキコウモリをはじめ、影に潜む忍び妖怪の影オロチ、そしてジバニャンが居候しており、今やシェアクローゼットと化していた。
静まり返ったドアを見つめていた文花だったが、持ち前の鋭い女の勘が働いたのか、ふと胸に手を当てて口を開いた。
文「ねぇ、ウィスパー…私、何か物凄く嫌な予感がしてるんだけど……沢山の女の子の気配と、そして、『やりやがった…あのアマァ…』って感情が…」
ウィス「いやいや、フミちゃん。いくらケータくんがアラスターに鍛えられたと言っても、教えてる相手はまだ小学五年。子供ディスよ。そんなラブコメ漫画みたいな事には絶対に…」
文花の胸騒ぎを、ウィスパーはまるで大げさな冗談でも聞いたかのように鼻で笑い、手をひらひらと振って否定した。
ウィス「ケータくんですよ? あの『普通』を絵に描いたようなケータくんがです! アラスターという悪魔の特訓を受けたからといって、一朝一夕で女の子を骨抜きにするような罪な男になれるわけがありませんでしょう!
きっとジバニャンが怒っているのも、大好きなチョコボーを落としたとか、そんなくだらない理由に決まっていますとも! ネットで話題のラブコメ主人公じゃあるまいし、アイドルや女の子たちに囲まれてハーレム状態なんて、天変地異が起きてもあり得ませんでうぃす!」
ウィスパーが高笑いを部屋中に響かせる一方で――。
そのすぐ足元にあるクローゼットの内部は、まさに阿鼻叫喚の地獄絵図と化していた。
外観からは想像もつかないが、このクローゼットの内部は、世界的大富豪にしてサイバー世界の覇者であるヒキコウモリによって改造し尽くされていた。壁一面には最新型の巨大モニターが何台も並び、冷暖房完備、最新鋭のサーバーユニットが重低音を響かせる、超ハイテクな密室空間である。
そのモニターに囲まれた部屋の中央で、ジバニャンは床に突っ伏し、爪が割れんばかりの力で高級絨毯をバリバリと掻きむしっていた。
その背後では、忍びの如く影に潜んでいた影オロチが腕を組み、静かに異変を察知して眼光を鋭くしている。そして、快適な電動ワークチェアに座っていたヒキコウモリは、風呂敷の羽を細かく震わせ、あまりの殺気に震え上がっていた。
ジバニ「許せないニャ……絶対に、絶対に許せないニャアアアア!!」
ヒキコ「ひ、ひぃっ!? ジ、ジバニャンさん……!? 一体どうされたのですか……? 怒りのあまり全身から毒気のようなオーラが出ていて、私の大切なサーバーが熱暴走しそうなのですが……!」
影オロ「……落ち着け、赤き猫よ。ただ事ではない殺気だが、何があったのだ。敵襲か?」
ジバニャンは真っ赤に血走った目をカッと見開き、大粒の涙と鼻水を撒き散らしながら、血を吐くような叫びを上げた。
ジバニ「ケータの奴が……! あのお人好しで地味で普通のケータの奴が……! オレっちの魂! オレっちの生きがい! ニャーKBのふささたんと……
唇と唇でファーストキスをしやがったニャアアアアア!!!」
ヒキコ「……はい? 今、何とおっしゃいました……?」
影オロ「……ぬ?」
あまりに唐突かつ規格外すぎる報告に、ヒキコウモリの思考は一時停止した。影オロチもまた、マフラーの蛇を強張らせ、影の中からわずかに目を見開いて固まっている。
ジバニ「事故だとか何だとか関係ないニャ! ふささたんの尊い唇が、あのケータの唇と重なったんだニャ! その後ケータの奴、茹でダコみたいになってパニック起こしてやがったから、ひゃくれつ肉球で夜空の星にしてやったけど……それでも腹の虫が収まらないニャアアア!!」
ヒキコ「ま、待ってください! 事実関係を確認します!」
危機感を察知したヒキコウモリは、礼儀正しい口調を保ちつつも、デスクの上の複数のキーボードを爆速で叩き始めた。デイトレーダーとして数々の企業を動かすその指捌きは、まさに圧巻の一言である。
彼女は即座に、妖魔界および人間界のリアルタイム検索エンジン、SNSトレンド、そして自ら買収した大手ネット通販サイト『妖ZON・HK』の裏情報ネットワークへとアクセスした。
すると、青白く光る巨大モニター群の上に、衝撃的なニュースと画像が次々と浮かび上がってきた。
【緊急速報】ニャーKBふささ、ファンサービス中に倒れるも謎の少年が奇跡の救出!?
【トレンド1位】#ふささちゃんの王子様 #謎のイケメン小学生
ヒキコ「た、大変です……! 人間界の裏掲示板やSNS、さらには妖魔界の芸能ニュースまでこの話題で持ち切りです! 画質は荒いですが、倒れたふさささんを自分の上着で優しく庇い、毅然とした態度でマスコミを追い払う少年の姿が拡散されています……! そして……この横顔、この服装……間違いなく天野景太さんです!!」
影オロ「……何だと。あの素朴な少年が、大勢の人間が見守る中でアイドルを守り抜いたというのか…、では、口づけを交わしたというのは……一体どのような忍びの術、あるいは人心惑わす怪異の類を使ったのだ……」
ジバニ「違うニャ! 悪魔の特訓を受けてから、ケータの奴、妙に観察眼が鋭くなって女子の心の隙間にスッと入るようなたらし込みテクを身につけやがったんだニャ! きっと、他の女の子たちもケータにメロメロにされてたニャ!!」
絶望と怒りに狂ったジバニャンが「許さないニャーー!」と再び絨毯をむしり取り、地鳴りのような咆哮を上げる。
クローゼットの中で巻き起こる悲鳴と怒号、そしてモニターの警告音が激しく響き渡った。
ヒキコ「防音にして良かったですね…」
何十億円も投じてクローゼットに施した防音壁の完璧な性能を実感しながら、ヒキコウモリがぽつりと呟く。
影オロ「…………」
その横で、影オロチは腕を組んだまま、静かに無言で深く頷くのだった。
ーーー
さくらニュータウンでも一等地に位置する高級住宅街、そよ風ヒルズ。
その中核にそびえ立つ高級マンション「そよ風ヒルズレジデンス」の一室には、所狭しとアニメのフィギュアやポスターが飾られた少し風変わりな部屋がある。
壁の一面には『宇宙美少女セラピアーズ』のポスターが貼られ、棚には未開封のコレクターズアイテムが整然と並ぶその部屋のベッドの上で、丸メガネに紫色のマッシュルームカットを揺らしながら、一人の少女がスマートフォンを耳に当てていた。
彼女の名は末空イナホ。さくら第一小学校の5年1組に在籍する、自称「全方位オタク」の小学生である。
イナ「へ〜…そんな事が」
スピーカーの向こうから聞こえてくる親友・石ノ森ユウカの弾んだ声に、イナホは苦笑いを浮かべながら相槌を打っていた。普段は物静かで清楚なユウカが、これほどまでに興奮した様子で特定の男子の話を捲し立てるのは珍しい。その話題の中心は、隣の2組にいる「天野景太」という男子についてだった。
ユウ『うん! それでね、ケータくんが……あっ、ごめんねイナホちゃん。私ばっかり喋っちゃって。それじゃあ、そろそろ切るね』
イナ「は〜い。また学校で」
通話が切れ、画面が真っ暗になったスマートフォンを放り投げると、イナホはそのままフカフカのベッドの上にバフッと倒れ込んだ。天井の照明を見上げながら、大きな丸メガネの奥の目を瞬かせる。
イナ「ユウカちゃん、ケータさんの話ばっかしてたな……これが巷で言う『恋は盲目』ってやつなのかね〜…」
大きくため息をつきながら、イナホは記憶を探る。
天野景太。最近、さくら第一小学校の女子たちの間で密かに、いや、かなりの熱量で噂になっている男子だ。少し前までは「普通」を絵に描いたような目立たない存在だったはずなのだが、ここ最近、まるで何かに憑かれたかのように『突然、紳士的になり、女子の心をピンポイントで撃ち抜く謎のテクニックを持った小学生』として囁かれている。
さらに、彼の名は学校内にとどまらず、ネットの海すらも騒がせていた。
イナ「ケータさんって、今リアルタイムで話題の人だよね…」
イナホは全方位オタクであると同時に、国民的アイドル「ニャーKB」の熱心なファンでもある。当然、そよ風ヒルズの野外ステージで行われたライブの後、センターである「ふささ」が過労で倒れたという大ニュースは知っていた。
そして、その現場で心無い野次馬のカメラから自身のルックスなどお構いなしに上着を被せてふささを守り抜き、毅然とした態度でマスコミを退けた『謎のイケメン小学生』。荒い画質の画像や動画がSNSで拡散されていたが、その服装と横顔は、まぎれもなく隣のクラスの天野景太だった。
イナ「ケータさんか……ちゃんと直接話したことはないけど、一体どんな人なんだろう?」
ニャーKBのトップアイドルを守り抜くほどの胆力と紳士っぷり。三次元のイケメンにはさほど興味のないイナホだが、オタクとしての探求心と好奇心はビンビンに刺激されていた。
その時である。イナホの脳内にある一つの強烈なデータがフラッシュバックした。
イナ「……ん? ちょっと待った。ケータさん……天野景太……話題……バズった……。ああっ!!」
ガバッとベッドから跳ね起きたイナホは、ポンッと手を打った。
イナ「そういえばケータさん、ちょっと前にトンデモない姿で全国ネットのニュースで顔面晒し上げられてた!」
イナホの脳裏に蘇ったのは、以前そよ風ヒルズで開催された謎の天才カリスマデザイナーのファッションショーでの出来事だ。
そのショーのトリを飾った、「究極の無色透明な素材」と絶賛された奇跡の美少女モデル。圧倒的なクオリティのゴスロリ衣装を見事に着こなし、絶望に染まったような涙目でステージを歩くその姿は、オタク界隈でも『謎の超絶美少女』として一瞬でバズり散らかした。
しかし、その美少女の正体こそが、女装させられた天野景太本人であった。
当時の完璧すぎるゴスロリファッションに身を包んだ景太の姿を思い出した途端、イナホの口角がニチャアと不気味に釣り上がった。
イナ「グフフ……フヒヒヒ。あの時の女装のクオリティは、控えめに言って神掛かってましたな……。素材の『普通さ』を逆手にとった見事なプロデュース……」
彼女の中で、景太に対する「アイドルを守った紳士的な男の子」という評価が、「見事な女装適性を持つ男の娘(予備軍)」という非常にニッチで歪んだ評価へと書き換えられていく。
イナ「何れはあの『普通』の顔立ちを活かして、王道のメイド服なんか着させて、男の娘としての限界突破した姿をみるのも乙かもしれませんな……グフフフ」
自分の妄想にすっかり満足したのか、イナホはベッドの上でゴロゴロと転がりながら、気味の悪い笑い声を漏らし続けた。
今はまだ、天野景太も、木霊文花も、そして末空イナホも、それぞれが全く別の日常を送っており、彼らの間に接点は存在しない。
オタク趣味を謳歌するイナホの隣に、目に見えない不思議な存在が寄り添うこともない。
しかし、運命の歯車は確実に回り始めている。
いずれ彼女も、宇宙からの来訪者を名乗るウサギ型の着ぐるみを着た妖怪と出会い、不思議な腕時計『妖怪ウォッチ』をその手にすることになるのだ。
そして、景太や文花と共に、人間界と妖魔界、さらには魔界をも巻き込んだ、てんやわんやの大騒動へと身を投じていく未来が待っている。
イナ「さてと、夜更かしのアニメに備えて、今のうちにちょっと寝ておきますかね……」
だが、それはまだまだ、ずっと先の話である。
きょうの悪魔大辞典
アラ「ケータくん。今日の悪魔は?」
景「『軍神ネコショウグン』」
景「正直、オリジナルの悪魔だと思ってたよ」
アラ「そう思いますよね。でも実際にいるんですよ」
アラ「ネコショウグンは予言能力に優れた道教の神
中国のベトナム国境付や台湾の伝承に登場し、もともとは「毛尚書」という人間の武将だったとされています。
でも、実際には存在しない人物で、「毛」と「猫」が同じ発音の「マオ」だったため、そこから「猫将軍」という別の神に生まれ変わったらしいですよ」
景「かわいい姿して凄いんだね……」
ネコシ「ふわぁ〜…鎧ダル…」ボリボリ…
ネコショウグンが、鎧を全部脱ぎ捨て、肘枕しながら漫画読んでた。更にはあくびをしながらケツを掻いてる。
しかし、景太達を見るやいなや、目にも止まらぬ速さで鎧を着、勇ましい格好をする。
ネコシ「私は戦神ネコショウ…」
景「そういう時ってあるよね…」