"この家でぽっくりと……自然死が良い。だから、救急車は呼ばないで"
癌を患った貴女は、我が家で死ぬ事を選んだ。その望みを、確かに私は受け取った。
在宅療養。
療養とは名ばかりの、家で死を迎えるという決断。
しばらく薬で元気にいられたけれど、今では動けなくなっていた。
十二畳の畳の上。白い布団に仰向けに横たわる貴女に、四本の管が伸び、少しの日差しが差し込んでいる。響き渡る蝉の鳴き声。陽炎が、アスファルト上を舞う昼下がり。疎らに聞こえる、外を走る車の音。庭の草木は強い陽光に当てられ、色がくっきりと分かる。身体にぼんやりと纏わる熱気が、外を支配していた。
しかし。
部屋と庭との境界の、ガラス障子が開かれて、その先にある縁側の、上に掛けられた風鈴が、そよ風に揺られて凛と鳴る。
か細く、囁くような凛。
和室には少し不釣り合いな白いエアコンは、絶えず心地良い冷たい風を吹き続けていて、外とは隔絶した快適な室温を生み出していた。
畳と木の独特の香りと、外に広がる夏の香。そして薬品の匂いが混ざり合った不思議な空間。
一定間隔で木目が走る天井に付けられた近代的な照明は、節電のために付けていない。
床の間に仏壇を置き、その横には青磁の花瓶が置いている。仏壇には一人の写真が立てかけられている。
いつもなら花瓶には季節にあった花を挿されていたはずだった。
けれど貴女は、花の死を嘆いた。"死にゆく自分の為に飾られ、散っていく様を見ることは、忍びない"と。
結果、前の花が枯れて以来、花瓶だけをあそこに置くことになった。花瓶だけでも彩りになるのだ。
……まあ本当は、花の散る様から、自分の死を思ってしまうことが辛かったのだろう。貴女は私に弱い所は見せようとしないから。
この部屋は貴女の療養の為に整えた部屋。動けなくなっても、快適な環境で、外の景色を楽しんで欲しいと。そう願った部屋はいつもと変わらぬ光景だった。
「っ…ぁ……ぁぁえ?」
貴女の呼吸が止まっていたこと以外は。
いつもの様に部屋の空調をみるために、部屋に入った。けれど貴女の様子が違った。布団が上下していない。襖を閉めるのを忘れて駆けた。両手の平と右膝がじんじんと痛い。畳の上で靴下は滑る。
貴女の鼻に耳を近づけても、吹きかけられるはずの息は無かった。
何度見ても貴女は呼吸を止めている。
じんじんと痛む両手と右膝と、一気に身体全体が青ざめるようなゾッとする感覚が、鮮明に渦巻き、それは思考が停止して感覚だけを鋭敏に感じているということだった。
貴女の骨ばった手首に、なんだか感覚が麻痺しかけている人差し指と中指を当て、脈を測った。
無い。
冷たい。ああ、これは死んでいる。
なんだか一周回って冷静になった。
自分の行動を常に頭の中で客観視している程には冷静に。
救急車を呼ぼう。119番。数字は間違えていない。確かに119番だ。立ち上がって、スタスタと畳の上を歩く。滑らないように確実に、出来る限り早足で。開いた襖を出て、廊下にある電話機を取った。
ピッピッ
同じ電子音が二度響いて。
"救急車は呼ばないで"
私は確かに受け取った。
"救急車は呼ばないで"
私は確かに受け取った。
"救急車は呼ばないで"
私は確かに受け取った。
リフレイン。フラッシュバック。貴女の言葉と、その時の私の思考が何度も頭の中で繰り返されている。
「」
……もう一つの電子音は鳴らなかった。
かつてない程に速まり、激しく胸を叩いていると感じられる鼓動。
手足の指先の感覚は冷めきってしまっていて、身体の中の感覚がゾッと冷えている。
今ならまだ、私が救急車を呼べば、貴女は助かるかもしれない。息を吹き返すかもしれない。呼ばないならば死は確実。
私は今、選択を迫られていた。
どうしよう。どうするのが正解なのだろうか。
冷房の効かない廊下は、夏の温度をかなり反映している。肌に纏わりつくぼやっとした熱い空気は確かに感じるのに、煩いくらいの蝉の声も、車の音もちゃんと聞こえるのに、やっぱり身体が青ざめていて、外気と身体の寒暖差を鮮明に感じ続けていた。
。
。
。
一体、どれ程の間立ち尽くしていたのだろう。
何を言うでもなく、わたしは無言であなたの元に歩んだ。
部屋に入った瞬間、廊下の熱気と部屋の冷えた空調の差で一層涼しい感覚があるはずだった。しかし、やはり身体の芯が寒い。鼓動が胸を叩く。
あなたの傍に立って、フッと力が抜けて崩れ落ちた。何をどうしたらいいのか分からない。
その死に顔を眺めた。目を瞑っている。眠っているように。これを安らかな顔と言うのか分からない。無表情だ。皺に塗れ、シミが多く、褐色の肌の顔。日焼けではなく、身体の肌細胞が生きることを諦めたような褐色。薄くなり、頭皮が所々見える白髪。なんだか赤い瞼。コケた頬。無機質な透明な管を、鼻に入れられている。
電話機を置いた。長く握っていたので、握っていた部分が人肌の温もりを帯びた電話を。
思わずそんな顔に手の甲をそっと当てた。ひんやりと、固く冷たい感触が触れる。
骨と皮膚だ。殆ど、骨と皮膚だ。
大口を開けて豪快に笑って、その時に顎が二重になって揺れるふくよかな顔だった。怒った時に眉間にシワが寄り、怖い顔だった。滅多に泣き顔を見せないけれど、一人でポツリと泣いていた。とても不細工な顔で、顔が崩れているような。
そんな顔は今、見る影もなく無表情で、無機質な管を通されていた。
喉にツンとした痛みが走り、キリキリとした不思議な感覚を感じ、目頭が熱くなる。
思わず、手を取った。左手を。軽い筈なのに少し取りにくい気がした。
あなたの手は、ひんやりと冷たいのだろうか。わたしの手の平は、温度を感じられなくなっている。さっきからずっと冷めきっているので、感じられないのだ。
手に当たる感触だけは分かって、それは肉が殆どなくなって、皮膚を通して硬い骨の感触が感じられる。
保育園に行くのが嫌だったわたしを、無理やりに引っ張った力強い腕。あの時の、抵抗して脇が引っ張られた時のじんじんとした痛みは今でも忘れられない。
お風呂で、わたしの頭を心地よく洗ってくれた器用な手。あなたのシャンプーはマッサージみたいで好きだった。時折爪が当たって痛かったけれど。
友達がわたしのありもしない悪評を流していて、傷ついて、思わず泣いてしまった事がある。裏切られた。怒りと不快感。悲しみ。もう何だかよく分からなくて、涙が溢れた。
そんな涙を拭ってくれた、あなたのふくよかな指。指の付け根の出っ張った関節の周りが、えくぼみたいになっていた。柔らかくて、優しかったね。
料理を、作ってくれていた。冬でも、寒い中、毎日洗い物をしてひび割れていた。
わたしを育ててくれた手。温もりの手。今ではすっかり硬く冷たい。いや、温度を感じられない。
思わず両手であなたの左手を握り込んだ。掌に爪が食い込んで痛むことはもうない。
あなたがこうなって以来、私が爪を切ってあげていたから。
あなたは爪切りが下手だった。
あなたの頭を、今度はわたしが洗うようになった。あなたは、自分が死ぬって毎晩涙を流してた。平気なふりをしてたけど、それを拭うのはわたしだった。療養。とっても大変だったけれど。わたしはあなたに返せたのかな。
手を握りしめて、涙を滲ませた。
鼻がツンとする。
煩いくらい、蝉の声が聞こえる。まばらに車の走る音が聞こえ、風鈴の囁くような音が鳴る。
わたしの手は握り返されない。冷え切った二人の手があるだけ。しかし、両手であなたの手を握り込むうちに、あなたの手は、
「おかあさん」
やっぱり、おかあさんの手は、暖かかった。