純潔の菩薩姫 作:まだ半妖の夜叉姫観れてないんだよね
私は最適な場所を、ここ何日も歩き詰めで探していた。
ひらけていて、人や動物がいなくて、死んだように静かな場所だ。
そんな都合のいい場所はないものかと、私はあてどなく歩きまわる。
調教の済んだ叢雲牙だが、私は根本的にこの刀のことを信用していない。
圧で駄目なら甘言で、あの手この手で私を惑わそうとしているだけに過ぎない。
私は森を抜け、ずっと歩き続ける。
父は冥道残月破という奥義を持っていた。
私は叢雲牙の性質上、それと似たようなことができるのではないか。そう踏んでいる。
父の振るう冥道残月破が正規の冥道ならば、私が開こうとしている冥界への道は、邪道だ。
つい最近、私は試しに叢雲牙を振るった。
鉄鶏を下したという噂を聞きつけた妖怪どもが、空を覆うほどに群れを成して私を探していたときだ。
私は妖力を抑えて暮らしているため、黙っていれば見つからなかった。
昔の私ならば、そうしていたはずだ。
瘴気を漂わせた大群は、いくつかの里を滅ぼしたかもしれない。そんなことを理由にしてわざわざ戦いの場に出ていった。
今思えば、自分の心のカケラがこの刀に絡め取られていたのだ。
結論、この刀は破壊に特化し過ぎている。
ひと薙ぎで視界に映る何もかもが暴力的に破壊されていった。
動植物も、自然も等しく。
これほどのものか、と内心唖然とした。
己の実力を錯覚させかねない危険な刀だ。
冥界への裂け目が現れ、現世を闊歩していた死者どもを呑み込むまで地獄は終わらなかった。
ゆえに、私は戦いにおいて叢雲牙を使うことを避けることを自分に誓った。
叢雲牙はあの世に属する地の刀だ。
冥界と呼び合い、破壊を媒介に無理やりに世界の裂け目を作る。
そうして作られた裂傷は、あの世とこの世の境界が正しく保たれない。
元より期待していないが、帰路は保証されない。
はなから行きと同じ道で帰ろうと思っていないのはこのためだ。
自らのテリトリーに入って力を増した叢雲牙は、再び私を喰らおうとするだろう。
それでも。
――あの刀は、支配されることを好む。
邪な者を等しく喰らう性質があるものの、使うものが必要なのは、物として生まれた不変の
私はただ冥道を開くための道具としてアレを使うだけだ。
私は周りの景色もほとんど見ずに、ただ歩き続ける。
生命は、強く月の満ち欠けと結びつくといわれている。
人間の身体の約六割は水分だと、前世で学んだ。
満月の夜、月の引力による潮の満ち引きが生物に影響を与えるという俗説も、あながち否定できない。
里で暮らしていたとき、妊婦が産気付き、産婆が忙しく働きまわるのは満月が多かった。
不思議なことに、眠るように亡くなる人が多い夜は新月だった。
私はぴたりと足を止めた。
風がない。
鳥の声も、虫の音もない。
踏みしめた土の感触だけが、やけに生々しく足裏に残る。
ここにしよう。
地平線まで枯れた大地が続き、真っ黒い空と混じり合う何もない土地。
満月だけが、ただここに在った。
私は叢雲牙の柄に手をかけた。
鞘引きの音は、思いのほか軽い。
金属がわずかに擦れる乾いた音が、静寂の中に響く。
刹那、空気が歪んだ。
――キィィィィ
耳ではなく、頭の奥を引っかくような音。
世界が軋み、在るべき姿を歪められて悲鳴を上げているようだった。
叢雲牙の刃が淡く黒光りした。
それは光というより、闇が凝縮した色だった。
濃厚な闇の輪郭は、暗闇のなかで燐光を放っているかのよう。
大きく振りかぶらない。
引き抜いた刀を、ただ横一線に、振りぬいていく。
空を斬ったはずの刃が、何かやわらかなものに触れた感触を返してきた。
――むにょり、と。
そのまま腕が真っ直ぐに伸びるまで振り抜いた。
その空間に、赤黒い亀裂が走った。
裂け目の向こうは、完全な闇だ。
嫌な闇だ。ずっと見ていると、歪み、引き延ばされ、脈打つように揺れている気がしてくる。
――これが冥道?
父が振るったそれとは、まるで違う。
整えられた門ではない。
ただ、繋がってしまった裂傷。
冷気が吹き出す。
足元に草があったならば、一斉に枯れ落ちたであろう。
土は灰色に変じて、生き物の気配が急速に遠のいた。
そのとき――。
――姫、こちらです
叢雲牙が囁いた。
頭に直接流れ込んでくる。
――この先に、更なる力があります
――大丈夫。姫なら、喰われはせぬゆえ……
私は視線を落とし、刃を見た。
「勘違いするな」
低く告げる。
「私は力を求めていない」
叢雲牙が、わずかに震えた。
――ならば、お前は何を求めるのだ
わずかに困惑したような声。
「何も。ただ、確かめに行くだけだ」
私は闇へ向けて一歩、踏み出した。
足裏の感覚が消える。
重力が、意味を失う。
身体が引き延ばされるような感覚とともに、
耳鳴りが遠のき、世界の色が反転した。
冷たい。
――――――明るい
ゴゥン、と世界が揺れた。
私は知らぬ間に、寝ていたらしかった。
うすら目蓋を開くと、均等な間隔でぶら下がる吊り革があった。
どうやら
ガタンゴトン――
揺れる電車に身を委ねつつ、私は窓の外を眺めた。
車内の明かりが眩しくて、外の世界が何も見えない。
映る人がどれも俯いていて、顔を上げているのは私だけだった。
しかし、私の顔が鮮明でない。まるで目が霞んでいるかのように顔だけが見えない。
――――左手を、ぎゅっと握られた。
――手?
左手が、誰かに掴まれている。
その瞬間思い出す。
誰かがまだ現世にある私の手を掴んでいる。
手の感触が私に鮮明な現実感を与える。
冥界には風も、ニオイも、何もない。
代わりに、濃密な闇だけが広がっていた。
泣き声も、叫びもない。
死だけが、濃い霧のように均等に積もっている。
――ああ、私は死にかけていたのか。
私は、傲慢にも冥道をただの道だとしか思っていなかった。
右手に下げた叢雲牙が恨めしげに、低く唸った。
自らのテリトリーに入り、刀は確かに力を増している。
だが、何も言わず、私の心の領域に踏み込んでこない。
――踏み込めないのだ。
現世にいたときと同じ、強い気持ちが戻ったから。
それに。
なにか、私の助けとなる強い力を感じる。
叢雲牙の力が弱まったのを感じた。
私は振り返り、裂け目から現れた人を見る。
左手を力強く掴むその手の主人は、私の記憶のなかよりも、ずっと成長した青年。
その腰には、見慣れぬ一本の刀。
私は、ふと父の姿を思い出した。
きっとあれが、父が弟たちに遺した刀なのだろう。
先ほどの満月みたいな瞳が私を瞬きもせず見つめている。
――ああ。守らねば。
私は掴まれた手にさらに力を込め、闇のなかを一歩ずつ踏みしめるように歩き始めた。