純潔の菩薩姫 作:まだ半妖の夜叉姫観れてないんだよね
姉からの手紙を入手した殺生丸は、すぐに捜索にかかった。
次の満月まで残された日数は十五。
くたびれた邪見がひぃひぃ文句を垂らすのも構わずに探し歩いた。
ある時は飛んで、ある時は歩いて、またある時は高台で姉のニオイを追った。
初日に邪見がぷんぷんと姉の匂いを漂わせて戻ってきたので、鮮明にその香りを覚えている。
探してこいと命じた家来が自分だけほくほく顔で帰ってきたときは、あまりの無能っぷりに苛立ちを覚えた。
三発、拳骨を落とす。
それで済ませた。
――殺せばいい。
それを思いとどまらせるのはいつだって、記憶に焼きついた姉の困ったような顔だ。
探してもいないのに、赤い衣を着た
別に興味などない。
ゆえにすぐに立ち去る。
姉の気配は薄いのに、あの半妖の気配はしつこく殺生丸の感知に引っかかる。
……煩わしい。
「姫様、どちらへ行かれたのでしょう……犬夜叉と一緒に行動しているわけではなさそうですし」
半妖を張っていれば姉が見つかるやも。
そう踏んだ邪見は、何日も物陰から犬夜叉を監視していたが、とうとう十五日が経っても現れなかったと怯えながら報告してきた。
月夜
待つ
ただそれだけしか読めぬ紙。
闇雲に歩き回っても見つからなかった。
損なわれた文字に意味があった可能性に縋るしかない。
「……退治屋」
「はい?」
手紙を持っていたあの退治屋の人間ならば、損なわれた内容を知っているかもしれない。
苛立ちのままに殺さなくて正解だった、と過去の判断を評価しつつ、人間に頼らねばならない状況にもどかしさを覚える。
飛んだ殺生丸に慌てて邪見が引っ付いてくる。
殺生丸が手紙をぶんどった人間は、出会った場所で捜索したらすぐに見つかった。
男は、退治屋を辞めて漁師をしていた。
「ひ、ひええぇぇぇぇぇぇぇ、い、今更なんだってんだ?!
ああああああああ、やめろ、やめろ。オレは戦う気なんてねえ!
この通り、オレぁもう退治屋からは足を洗ったんだ!」
染みついた魚のにおいからして、その発言に嘘はない。
「煩い。
お前。手紙の正確な内容を覚えておらぬか」
「て、手紙ぃ? ああ、あれな。……字なんて読めねえから……」
無駄足を踏まされた。
その現実を突きつけられた殺生丸は咄嗟に思った。
――殺そうか。
元は妖怪退治を生業にしていたこともあり、殺生丸がそう考えたのを機敏に悟った人間が慌てて言う。
「待て待て! ちょ、ちょっと待て。思いとどまれ。
早まるんじゃねえ。
もしかしたら
人間如きがこの殺生丸の力になることなど、出来ぬ。
そう思いながら、戯れに殺生丸は尋ねた。
「満月の美しい
そんな場所を知らぬか?」
「ああ! そ、それなら月島だ!」
不思議なことに、これだ、と殺生丸は直感した。
聞く態勢に入った殺生丸に、男はふと一息ついて話し始める。
「潮の満ち引きの関係で、満月の夜だけ陸続きになる島でな。
生き物も何もいねえ。
愛でるのは満月くらいってなもんで、漁師や海女くらいしかその存在を知らない島なんだって」
男はちらりと殺生丸へ視線をやり、続ける。
「なにせ、朝になれば孤島になっちまう。
オレも舟でその島を見たときにそう教わっただけで道つづきとなったところは見たことがないけど……満月で特別ってんなら、きっとそうだ」
「その島はどこにある」
「こっから南東の港近くに、三里は続く荒削りの崖があって。
そりゃあ圧倒される断崖絶壁なんだ。
そこを崖沿いにしばらく歩いていったら、海の真ん中にぽつねんと存在する崖のようなもんが見える。それが月島だ。
――ちょうど今から出たら、良い具合に道が出来始めるんじゃねえかな」
殺生丸は空を見上げた。
赤と青が織りなす黄昏時の空は、異界の入口のような不気味さを漂わせていた。
雲ひとつない。
きっと美しい月夜となることだろう。
「行くぞ、邪見」
「はい!
――おい、人間!
殺生丸様のお役に立てたことを光栄に思え!」
「ちっこいの。
道の近くには流れのはやい潮があるんで、間違っても泳ぐんじゃないぞ」
「わしを
邪見と賑やかにやり取りする人間は、殺生丸が視線を外すと、ほぉ、と安堵の息を吐いた。
殺生丸は、はやる心のままに歩き出した。
退治屋の男が言った通り、海に砂の道が現れていた。
「暗くて先は見えませぬが……おそらくこの道の先に姫様がいらっしゃるのでしょうね」
地平線近くにある月が随分とまんまるく、大きく見える。
凪いだ海が左右に広がっている。
真っ黒い海の表面が揺れているのを、邪見がほぉと感嘆のため息を吐く。
「海を歩いているみたいですな、殺生丸様!」
はしゃぐ邪見と正反対に、殺生丸は淡々と一本道を歩き進める。
――銀色の髪が靡く。
その後ろ姿を見つけたとき、殺生丸の心の臓は跳ねた。
白い袖が舞う。一直線に刀を薙いだ。
すると、赤黒い亀裂が空間に現れた。
異様な冷気が溢れてくる。
なんだ、あれは。
この世のものとはとても思えない。
邪悪な気配を放つ妖刀を携えて、姉はその亀裂のなかへ消えていく。
「ひぇっ……!」
目を背けたくなるほどの悍ましさ。
本能が警鐘を鳴らす。
――決して近づくな、と。
背後を歩く邪見が情けない声をあげる。
殺生丸は飛んだ。
風が耳元を吹き抜けて、髪を真横に靡かせる。
姉の姿がどんどんと亀裂に吸い込まれていく。
ふ、と。
姉の姿が消えかけた。
亀裂に吸い込まれて消えたのではない。
突然、存在がなくなるかのように、霞がかって消えかけたのだ。
咄嗟に殺生丸は、薄くなった姉の左手を迷わず握った。
――間に合った。
姉の手を掴んだ殺生丸もまた、飛んできた勢いのまま亀裂のなかへと突っ込んだ。
――闇。
そこは、上下左右もわからなくなるほどの濃密な闇だった。
姉の姿だけが、自分の存在を証明してくれる。
姉が歩くと、その下に白い道が出来た。
飛んでいるのか歩いているのかさえ定らぬ不安定な場所で、殺生丸は姉の軌跡を歩んだ。
ぎゅっと強く手が握られる。
不思議なことに、ここでは考えごとがまとまらない。
永遠のような、一瞬のような。
正反対の時間感覚を覚えながら歩き続けると、闇を抜けた。
――父の亡き骸がある。
地面があり、空気があり、自分という存在が
肺を満たす空気がひんやりと静かなものへと変じた。
現世のそれとは、どこか違う。
しんと静まり返った異界。
おそらくここが、妖怪の墓場なのだろう。
左手の力が抜けて、いまだに手が繋がれたままだったことに気づく。殺生丸は気恥ずかしさから、咄嗟に手を引き抜いた。
姉は空間の裂け目から覗く闇と、歩んできた白い軌跡を見つめている。
あの道は元来存在しなかった。
姉が歩いて道が出来たのだ。
亀裂は、空気に溶け入るように消えていった。
先ほどまでの闇が嘘だったように。
「どういう意味だ」
姉が問う。
自分に向けての言葉ではないことはすぐに分かった。
久しぶりに聞く姉の声は、記憶のなかのままだった。
落ち着いた、低く穏やかに響く声。
子守唄のように優しい響きの音。
姉は腰に下げた刀に視線を落としている。
姉もまた、父から刀を賜ったのだろう。
無表情のままではあるが、その瞳は鋭くどこまでも冷たい。
「姉上」
殺生丸は声をかけた。
姉の視線が殺生丸を捉える。
金色に蜜がとろりと溶けるような、甘い眼差し。
先ほどまでの冷たさが嘘のようだ。
美しい金色を真っ直ぐに向けられて、殺生丸は懐かしさに胸が震える。夢見るように、頭のなかで纏まりきらぬまま話し始めた。
「満月の、干潮時にのみ陸続きとなる孤島」
「……」
「妖怪達はその存在を知らなかった」
姉はしっかりと頷いた。
――やはり姉は己を試していたのだ。
確信した。
数少ない手掛かりだけを残し、人間しか知らぬ島に、自分がたどり着けるかどうか。
そも、
冥界を通り抜け、辿り着いたここは、妖怪の墓場だ。
「港町の人間しか知らぬ、幻のような島――月島。
もしもこの殺生丸が間に合わねば、独りで逝く気だったのか」
姉ほどの大妖怪でも、現世に嫌気が差したのか。
殺生丸は先ほどまでの闇を思い出した。
あれは、濃厚な死だ。
自分の存在を危うくする、死者の場所。
あんなところを
ほとんど自殺行為だ。
もしや間に合わねば、死ぬつもりだったのか。
それとも。
――必ずや、この殺生丸が来ると信じていたのか。
「あの手紙を持っていたのが人間だったから、もしやと思ったのだ」
そう言うと、姉は満足そうに言った。
「――さすがは殺生丸、私の誇りの弟」
金色の瞳を真っ直ぐに殺生丸へ向けて、そう言った。
なんの衒いもなく言われた。
どこまでも真っ直ぐに信じ抜かれていて、殺生丸は思わず視線を逸らした。
胸の奥底がほんのり温かい。
なんの根拠もなく全てが上手くいくような。
途轍もない多幸感に殺生丸はふん、と鼻を鳴らした。
こんな感情、まやかしだ。
如実に生と死を意識しすぎておかしくなっているに違いない。
「ところで、その刀。
とても良い刀だな」
姉がそう言い、殺生丸は反射的に眉を顰めた。
「その刀が、叢雲牙――こいつの暴走を抑えてくれた」
言いつつ、ぺしりと腰に帯びた叢雲牙を叩く。
「……このような刀など」
この刀は斬れぬ。
何を思って父はこんな鈍を殺生丸に寄越したのか。
お前もまたこの斬れぬ刀みたいなものだと言いたかったか。
初めて使ったとき、斬れぬことに自分も、敵も驚いた。
自身の爪で事なきを得たが、背中にヒヤリとしたものが走ったことを覚えている。
それから適当な植物、人間、妖怪に対して刀を振るったが、天生牙は一度としてそれらを傷つけたことはない。
――綺麗なだけのお飾り刀。
憎々しいことに、殺生丸は他の妖怪からそのような評価を受けたことがある。
綺麗で立派なだけのお飾り妖怪だと。
父ほどの偉大さを持ち合わせず、名声もなく、強さも底が知れる。
その当時は姉の名は今ほど売れていなかったから、一緒に姉も貶された。
自らの矜持を懸けて怒りのままに戦ったが、惜しくも敗走することとなった。
殺生丸はなお一層力を求めると同時に、この刀への嫌悪を強くした。
力があれば、馬鹿にされぬ。
力があれば、姉と引き裂かれることもなかった。
力があれば、無様にも姉に庇われることもなかった。
他者を圧倒する力が欲しい。
「この殺生丸が望むのは、力だ。
なのに――。
父上は半妖のできそこないに、一振りで百の妖怪を蹴散らす鉄砕牙を与えられた」
偉大な父の跡を継ぐのは、お前ではない。
そう、言い遺されたようで。
「殺生丸。それはお前の強さを父が認めていた証拠に他ならないよ」
姉が下手な慰めを言っているとは思わない。
彼女は心からそう思っていると、そう当たり前のように感じられる。
「……しかし、この刀は
何を思って父はこの刀を遺されたのか」
お前はお飾りだと、偉大な父にもそう言われている錯覚を覚えるのだ。
「刀は斬るためのものだ。何も斬れぬ刀など存在せぬ。
その刀が斬るべきものを斬るのだ」
なにを斬れるのかもわからぬ刀に、何の価値がある。
この刀がどれほど鈍で、どれほど己の矜持を傷つける存在か、姉にはわからぬか。
されども捨てる決意が出来ぬ。
それが一番忌々しい。
「いまは分からぬが、その刀しか斬れぬものがあるのだ。
そうだ。つい最近私のもとを訪れた鬼の妖怪は、髪の収集癖があってな。
髪を斬らずに肉と骨を断つ妖刀を持っていた」
能天気にもそう言う姉に、殺生丸はわかって欲しかった。
天生牙に視線を落とす。
「――お前は何も分かっておらぬ」
そう低く言い、殺生丸は刀を抜いた。
その切先を姉に向ける。
言ってもわからぬなら、見ればよい。
――どくん
握った天生牙が拍動した。
斬れる。
本能で思った。
だが同時に斬れるはずがないと、記憶と理性が言う。
迷いを振り切るように姉の肩口へ刀を一閃。
ぼとり、
と、その刀の軌道のままに、切り離され、右腕が地面に落ちた。
空気でも斬ったかのように重さがない。
――それなのに姉の腕は落ちている。
姉はまるで抵抗しなかった。
困惑した様子でこちらを伺うその表情に、殺生丸を詰るものはひとつもない。
――何故。
何故、斬れた。
何故、憤らぬ。
疑問で頭のなかが真っ白になる。
「……斬れぬと嘆くほどのものでもないと思うが」
「――あ、姉上……」
困惑が極まると、言葉が出てこなくなるものらしい。
言い訳もできず、理由もわからず、こんなつもりではなかったのだともどかしさで苦しくなる。
姉は残った左手で、愛おしそうに自分を撫でた。
昔の感覚がぶわりと蘇る。
――何故。
自分を撫でるその優しい手が、とても、懐かしい。
胸が押しつぶされそうなほどの悲しみと後悔で叫びたくなった。
斬れると思ったのは、間違いではなかった。
判断を誤った自らへの怒り、途轍もない後悔とやるせなさで吐き気がする。
何を言えばいいのかわからなかった。
姉への弁解の言葉は存在しない。
いっそ、怒ってくれたらいいのに。
殺生丸は、何も言えずにじっと姉を見つめた。
姉は、宝物でも見るような優しい眼差しで笑った。
滅多に見ぬ、姉の笑みだった。
「愛しい弟に腕の一本や二本落とされたくらいで怒るほど、狭量じゃないつもりだよ」
落ちた腕にはまるで気にした様子を見せず、もともと腕などなかったかのように振る舞う姉は言った。
「よし、じゃあ見に行ってみるか。
お前が欲しがっている鉄砕牙を」
姉は、軽い足取りで殺生丸の半歩前を歩き出した。
殺生丸は振り返った。
落ちた姉の腕が、現れた赤黒い亀裂の中へと引き込まれ、消えていく。
――とくん
と再び天生牙が脈打つ。
殺生丸は嫌な予感がした。
本能が真実の一端に触れた。
この刀が斬れるもの、それが何なのか――
これ以上理解することを、理性が拒絶した。
――理解してしまえば、もう戻れなくなるから。
殺生丸は何も考えぬように努め、