超越少女は路を示すが旅をするのは俺達だ   作:小沼高希

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スリーウェイ・ハンドシェイク
スリーウェイ・ハンドシェイク 1


トイレの鏡で見る顔は、慣れた俺のものであってもうまく統合できない。パーツごとに観察することはできる。少し癖のあって右側で跳ねている黒い髪は少し広めの額の上を斜めに流れているが、どうしても野暮ったさと呼ばれるものは残っていそうだ。今日の目は充血しているわけではないが、あまり開いてくれない。ストレスか疲労か、と考えて純粋に慣れない場所での緊張の可能性に思い当たる。

 

一瞬だけ目の周りの筋肉に力を入れる。持ち上がった眉の上には小さな赤いできもの。これだけでは疑念になるから、顎を下げて少しだけ口を開いて驚きの表情に。歯は磨いているが最近歯医者には行っていなかったな。顎のところにできたシミは、消したほうがよかったのかもしれないがそんな暇はなかった。髭は来る前に剃ってきているから、触ってもまだ滑らかだ。

 

ベージュ色の長袖シャツは襟付きだから、最低限のマナーはなんとかなるだろう。スーツで来ても良かったのだが、堅苦しい雰囲気に反抗したくなったので仕方がない。その下の青灰色のシャツは、少しだけ汗で裏地が湿っている。

 

インフォーマントに対する第一印象は重要だ。同行者の振る舞いを考えると、自分が良い警官となるしかないだろう。深呼吸をして、肩の力を抜く。目と口元を横に引くようにするが、上まぶたの位置が難しい。性格の悪さが出てしまっている。表情を読むことは苦労しながらとはいえできても、表情を伝えることは得意ではないのだ。

 

同行者に聞きたいことは山ほどある。スーツと理髪店にどれだけ金をかけているかは興味深い。真面目だが悪いやつではない、という印象はあのように作るのかと納得できるほどだ。一方で感情的な議論よりはタフな交渉のほうが得意なのだろう。政府の関係者だと名乗っていたから、政治家のような一流の役者にして詐欺師とも渡り合う経験があったと考えるのが妥当だろうか。

 

相手が誰かは伝えられていないが、彼の口ぶりからすればそれなりに面倒な人物のようだ。本職の言語学者ではなく俺が選ばれたことに理由がどれだけあるかは知らないが、少なくとも彼は共通言語を持たない相手から情報を集めるのは苦手そうだ。

 

充電していたサングラスをケースから取り出してかける。右手の人差し指につけた指輪を撫でれば、眼の前にBIFRONSという文字とともに起動画面が淡く表示される。

 

「現状分析」

 

指輪を押しながら小さく言えば、読めるぎりぎりの速度で単語が素早く切り替わりながら表示される。現在地と移動経路をもとにしたOSINTからは頼りになりそうな情報は何ら見つからなかった。当然ながら入院者についての情報もオンラインにはない。そりゃそうだ。いくつか気になるニュース、例えば一昨日起きていた高エネルギー科学研究中心(センター)での爆発事故とかはあったが、これが関連しているかどうかはわからない。

 

いきなり三河工業大学から赤城大学附属病院に連れてこられたのだ。同乗の人物からはあまり詳しいことは伝えられていない。ただ単に、これから出会う相手の言葉を解析しろということだ。

 

それが現代社会においてあり得ない依頼であることはよくわかる。ただでさえ言語は絶滅しつつある。いくらナショナリズムが叫ばれる時代だろうがグローバル化が前提となってしまった世界を変えることは難しいし、インターネットの発展は世界各地で英語を事実上の公用語に変えてしまった。

 

深呼吸。トイレを出ると、神経質そうな男が俺のことを待っていた。初老というほどの皺はないが、その仕事に十分精通するほどの時間をかけている。彼はトイレが長引いた俺に苛つくこともなく、ただ所与の条件であるかのように扱っている。

 

古瀬(ふるせ)さん、準備はできたかね?」

 

「ええ」

 

俺は薄く幸福の表情を浮かべる。敵意はないことの合図。彼は今の表情に見合わず、皺からすればかなり社交的な顔をすることに慣れているようだ。

 

「……君にあまり詳しいことを話せないことを申し訳なく思うが」

 

「いいですよ、この手の話ができる専門家でわざわざ俺、というか宮部名誉教授を頼ったということは厄介な案件なのでしょう」

 

「彼から何か聞いているのか?」

 

「いいえ。先生は今まで政府から受けた仕事についての具体的な内容は語っていませんでした。しかし日本語以外をやっている言語学者で、国外の勢力の影響を考えなくていい人物は少ないわけでしょう?」

 

「……それ以上は私からは言えないな」

 

この人物の言葉と、安堵したような表情は俺の推測がそう外れていないことを示していた。彼は自分が何者かを話しておらず、ただ単に政府の人とだけ言っていた。宮部先生も俺に「信頼していい」とだけ言っていた。

 

「荷物は重くないかね?」

 

「オフラインで稼働するようなシステムを要求されましたからね。いくらここ十年で人工知能が賢くなったと言っても、限界があります。フィールドワーク用に買っておいて本当に良かったですよ」

 

重いリュックサックの中に入っているのは、専用に組み上げられた水冷ボックス付きのノートパソコンと補助バッテリーだ。2K解像度、60 fps程度であれば画像のリアルタイム生成も、博士論文クラスの文章を半日で作ることもできる。もちろんそれが人間中心の学会にどこまで受け入れられるかは別の話だが。

 

案内された病室は、静かな場所だった。入った時にちらりと見えた文言から推察するに、ここは精神病や面倒な感染症とか、あるいは外部の人間との接触を絶ちたいような患者が入る、そういう場所なのだろう。

 

足を止め、彼は病室の一つの扉の前に立った。カードキーをかざし、番号を打ち込むことで入ることができるようだ。厳重な念の入れようだ。しかしここまでの設備は普通の病院でもそうなのだろうか。

 

自動で開いた扉の向こうには、アクリル板で区切られた空間があった。こちら側にあるのは小さな机と椅子。ある種の尋問室を想像させるが、アクリル板の向こうには病室らしい光景があった。

 

奇妙そうな顔をして、ひっくり返した椅子を弄っている女性。いや、本当に女性と断言できるわけではないが、ゆったりとした入院着を纏っていても胸と腰には性徴が見られた。

 

俺がビデオカメラを取り出して準備をすると、彼女は椅子の観察をやめてこちらに注目をし始めた。短めの前髪から覗く何もかもを興味深く見ている彼女の目は、好奇心に満ちているように思えたがどこか自然で落ち着いた、そして冷たくもある奇妙な印象を俺に抱かせた。

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