超越少女は路を示すが旅をするのは俺達だ   作:小沼高希

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スリーウェイ・ハンドシェイク 10

「ここに到着した原因はわかりますか?」

 

俺は尋ねつつ、手元の書類を見る。

 

「説明のための語彙が大幅に不足しています」

 

「そうだよな……」

 

彼女の治療と血液検査の記録。遺伝子分析もついてきている。これらについてはもともとこの赤木大学附属病院でされていたものだが、そこで異常値が出て別の場所で再検査されたらしい。

 

一つ。彼女は明らかに遺伝子改造を受けている。彼女の「基本」遺伝子パターンはホモ・サピエンスのものだし、彼女が持つ多くの遺伝子多型は今まで行われたヒトのパンゲノム蓄積の中にあるものだ。そして、それらの遺伝子の少なくないものは統計的に、あるいはたんぱく質構造予測から推察される「良い」形質と結びついている。

 

インスリン感受性。肺のバリア免疫。結合組織の回復性。錐体細胞の構造。もし「遺伝子をいじくって最強の人類を作ろうぜ」という学界放逐間違いなしの狂人がいたらできるような代物である。本職の遺伝学者かこの分野の情報を詰め込んだ専門家システムに見せてみたいが、無理だろうな。

 

BIFRONSにもこれを読ませたが、そこまで詳しくわかるわけではないらしい。仕方のないことだ。俺はこれを言語解読を中心にチューニングした。それにいきなり遺伝学をやらせるというのは無茶な話だ。

 

確かに、今の人工知能は人間の専門家を多くの面で上回る。ただ、それは完全に代替できるというものではない。例えばある言語について三十年間学んだ人は、人工知能が見落とすような微妙な言葉の使いまわしや相手の振る舞いの特徴に気がつくことがある。逆に言えば博士課程レベルのインタビュアーであれば人工知能で代替できそうな時代になってしまったというのが悲しいところであるが。

 

「私がそれと直接対話できるのであれば、あと三日間程度で必要な語彙を獲得できます」

 

そう言って彼女はBIFRONSの入った俺のノートパソコンを指差す。俺は後ろの須藤さんを見たが、小さく首を横に振られた。いいのかなそういうジェスチャーを見せて。表情と合わせて彼女がまた色々なことを学んでしまうぞ。

 

ポール・エクマンという心理学者がいた。彼は幅広い文化で同じような表情のパターンが見られ、そのような表情はいくつかの基本的な表情を特定した。もちろん彼の理論は多くの批判がされ、その上で色々なものが築かれたが、俺が他人の感情を見て、自分の表情を作っている時に使う理論はそれだ。

 

人間の脳はある程度事前にプログラミングされている。子供が親から引き継ぐことのできる遺伝子は、単純計算なら1ギガバイトにも満たない。そしてある種の自己組織化によって脳は世界を学び、分析するには複雑なパターンを持つことができるが、それでもなおある種の構造と癖を持つようになる。その表出の一つが表情だ。

 

筋肉の緊張と緩和は、自律神経と対応する。何かを睨むための、あるいは何かを観察するための目の動きは、それと対応する感情と強く結びつき、一定の感情と表情のパターンを形成する。これらはまだきちんと受け入れられている学説というわけではないが、俺はかなり良くできた理論だと思っている。

 

「……古瀬さん」

 

「ああ、なんですか四十二さん」

 

「私はあなたたちに伝えたいことが多くある。それは双方にとって利益を生み出しうるが、同時に問題を多く起こす」

 

「でしょうね」

 

俺は資料をめくって言う。彼女の少し茶色みがかった、肩まで伸びる黒髪の裏には、彼女がなぜここまで賢いのかの理由があった。

 

精密CTスキャンの画像。彼女のうなじについている手のひらぐらいの大きさのなにかから、細い線が脳全体に伸びている。ブレイン・マシン・インターフェース。まだ人類が中途半端にしか実現できていないテクノロジーだ。

 

撮影のためにそれなりにX線を当てたような気もするが、問題なく動いているならそれでいいとしよう。人間だってシナプスにX線を当てられてもちょっとぐらいなら大丈夫だしな。

 

「……それは、あなたがたの中央の意思によって決定されるべきこと?それとも、より個別の分散された意思同士の調整による?」

 

「うーん言いたいことはわかるが社会科学の共通基盤がたぶん欠けているな」

 

そう言うとBIFRONSも同じように考えたのだろう。日本の政治システムについての簡単な説明を出してくれた。

 

「……人間の数は?」

 

「一億と一千万とあとうにゃうにゃ……あれ、このぐらいの数字ってやったっけ」

 

画面に指数表記が出てくる。ありがとうございます。そして四十二さんの顔を見ると、珍しいものを見ることができた。

 

持ち上がった上瞼と、緩んだ下瞼。少しだけ開いた口。驚きだ。こういう顔は初めてだよな、とサングラスの裏側に映し出される特徴点を見ながら考える。

 

何に驚いているかは、明白だった。彼女は一億という人口を、理解できていないのだ。

 

「……それは、ここだけで?」

 

その問いかけの答えが、俺の網膜に読むべき文字として入ってくる。

 

「……いいえ。世界人口はおよそ九十億人です」

 

「……巨大、だね」

 

巨大という言葉は余り人口に使うものではないぞというコロケーションをBIFRONSが提供してくれているが、これは果たして正しいのだろうか。とはいえ人間らしさが見えたと考えるのも問題だろう。そもそも彼女は最初から人間だ。

 

「はい。巨大な構造であり、我々はそれの維持のために特殊な技術を持っています」

 

表示されるのは学問分野のリスト。単語の半分がまだ伝えられていないものだが、それでも知っている単語から彼女はそれが何なのかをおよそ理解できるだろう。

 

「……私は、これを知らない」

 

俺は机の下で小さく拳を握る。こちらとあちらの知的基盤がはっきりとわかった。重要なのはどちらが上ということではない。どう違うかということだ。

 

俺は正直言って、相手に敬意を払うのが苦手だ。相手から敬意を向けられるのも苦手だ。対等な、互いに知っているものと知らないものがある関係が一番楽だ。それが一番自分の無知と、相手の知識を実感できる。

 

「我々はそれを教えます。かわりに、あなたが知っていることを教えてほしい」

 

「わかりました」

 

彼女は躊躇なく答えた。サングラスの裏ではBIFRONSが握手の方法を今伝えるべきかと聞いてきていたが、無視してやった。

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