「……これ、俺が見ていいものなんですか?」
先工研のステッカーと美的感覚のない文字ラベルの貼られたノートパソコンを俺は青原さんに見せる。表示されるのは総合先端情報領域の多くの部門で行われている作業についての生データに近いもの。
「セキュリティ上、入力内容は開発者が閲覧可能だということは伝えてある。それに、君にはここで働いた時に署名した機密保持誓約書があると思っているのだが、まさか」
「いやそこじゃないです、そこについては安心してください。そして意思の問題としては、俺はこれを悪用するつもりはありません」
「ふうむ、リスクについて理解の相違があるようだな」
「おそらくは」
今の四辻さんは少し後ろで見学だ。たとえ彼女のほうが俺より交渉がうまいとしても、この会話は責任問題のために行っているのだ。給料俺のほうが多くもらってるんだからそれなりの仕事はするべきだろ。
「私としては、総合先端情報領域で行われている内容を内部で共有することについては理解を得ているつもりだし、君がこの種の情報を取り扱う能力があるとも考えている」
「俺の善性だけを信じるのはいくつかの問題があります。例えば後ろの四辻さんは俺の後ろから画面を覗き込める立場の人です」
「なるほど、君がこのノートパソコンを例えば食堂に持ち出した時、それだけで領域内の全研究が覗き見られる可能性があるというのは警戒するべきだな」
「もちろん持ち出しませんけれどもね。これは会議とか用ですし、C4棟から出て電波が切れれば使えなくなります」
この種の設定は先工研の事務側の業務なわけだが、俺達はその事務担当者で、特にアセット42については全面的な仕事の許可が降りている。このあたりがかなり文書化されていたので仕事が楽だったが、普通の組織は新卒にいきなりこの種の仕事を研究もOJTもなしで投げることはないと思うぞ。赤城に普通の組織があると考えていた俺が甘いのかもしれないが。
「ほう、そういう接続方式は面白いな」
「適切にリレーをかければかなり離れても使えるので確実なものではありませんがね」
「そこだ。もし君が悪意を持つなら、大抵の対策が無駄になる。一方で君がそれを守るつもりであれば、取れる具体的対策は多くはない」
「あー、誤謬というほどではありませんし、ある程度の合理性もある意見だとは思いますが、偶発的かつ想定外のリスクを軽視しているのと、問題が起きた時にある程度対策していた方がリスクを抑えつつ時間を稼げるというのもあります」
「予算と時間には限界があるとしても、かね?」
「はい」
「なるほど、専門家がそう言うのであればそちらできちんとセキュリティを管理してくれ。暗号鍵を私が持っていればいいのかね?」
「普通の秘密文書と同じ形で保存できるようにした上で、一定以上の情報は閲覧のために青原さんの承認が必要となるようにします。学習についてはその過程でしばしば不可逆な圧縮が起こることを考えるとそこまで警戒するべきではないでしょうが、アクセスログについては青原さんに管理権を渡しておきます」
「……なるほど、君が権限上アクセスできず、私は意思と技術の観点からアクセスできないなら、二人が手を組まなければならないというわけか」
「そういうことです」
話がすぐに通るのはありがたいんだがなんか奇妙な感じがするんだよな。人間としての擬態が弱いというのが近いのだろうか。四辻さんと過ごしている時間が長すぎて人間模倣の基準を四辻さんに合わせてしまっているという問題があるかもしれない。
「よろしい。上長としてその指示を出そう。これでいいかね?」
「ありがとうございます」
基本的に俺は何かを指示されて動く側だ。人工知能エージェントに使ったり使われたりするような関係ではあるがアセット42担当者の取りまとめであることを考えれば、あの地下室で起こることの責任は原則として俺にある。
「そうだ。人事評価の面接でも今ここでしてしまうか?」
「といっても目標書類については出しましたよね」
「受け取っている。ほぼ白紙だったがな」
「機密なので」
俺たちがやっている研究は特定有害活動の防止に関する分野として内閣情報局から指定された特殊なものということになっていて、直接の上長である青原さんには「機密のため非開示」の一言で終わらせられる書類が回されて、本物は内閣情報局へと回っていることになっている。この本物すらでっち上げられているのですけれどもね。
それでも、青原さんはアセット42というものと、それが区分されている機密領域について知っている。つまりはなにかすごい人工知能を俺達が管理していることはわかっているのだ。それはそれとして俺達は先工研の事務職員であり、契約時に研究とか調査とかも仕事上の義務に入っているので上長からなにか作ってとお願いされたら断ることができないのだ。少なくとも、文書をそのまま読む限りでは。
「四辻さんはどうかね、働いて辛いこととかは」
「いいえ、特にありません。もしありましたら古瀬さんを飛ばして直接お話をさせていただくことがあるかもしれませんが」
「妥当だな」
「妥当ですね」
青原さんと俺が言う。同僚ということになっていて組織図上は横並びに近いが一応俺が代表者だというのと年齢差と学歴とか諸々を考えれば何かあった時に青原さんと直接話せる状況を維持しておくのは不可欠だ。
「これは古瀬さんを疑っているというわけではないのだが……なるほど、これもまたセキュリティの問題か」
「ハラスメントとかの時の理論が情報セキュリティになると緩む事があるのは奇妙ですね」
「一種のバイアスだろう。良い悪いではなく、ある程度存在を前提に動くべきだろうな」
「免責にはならないので善悪と切り離すのも難しいところですが」
「ふむ……」
青原さんは少し考えるように指をつまむようにして目を動かしていた。カメレオンみたいだな。このあたりの価値観は身につけるために練習が必要だというのは知識としてはわかっているとはいえ、情報系のことをやっていてそれである程度の専門性と地位を持っている人が疎いというのはちょっと驚きだ。
ただ、それは勝手な思い込みで勝手に変な気分になっているだけだと俺は頭を切り替える。他人を見てマネジメントするということと、生物情報学において数学の奥深くまで足を突っ込んだ統計の詳しい知識があることと、悪意と愚かさを前提とした情報の取り扱いについて経験が薄いというのは、普通に同時に成り立ちうるのだ。