超越少女は路を示すが旅をするのは俺達だ   作:小沼高希

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アブノーマル・コンバスチョン 7

「やーばいやばいやばい」

 

自分が落ち着いていないことを自覚したので、パソコンの電源を切ってひとまず身体を動かすことにする。

 

しゃがんで、手を地面につけて、脚を後ろに伸ばし、腕立て伏せをして、脚を戻し、立ち上がる。これを繰り返す。バーピーという有酸素トレーニングで、正直言ってかなり辛い。四辻さんはこれを軽々とやってのけるが、俺には十回やると辛くなってくるし、十五回もすれば思考や感情に割くためのリソースを奪われていく。それでも昔は五回で辛かったので多少はマシになっているのだと思う。

 

「……アイスクリーム、食べる?」

 

「あとで」

 

いきなり運動をしだした俺に対して四辻さんは特に驚くこともなく言う。たしかにそろそろおやつの時間である。楽しみだな。というか今日はもう早退でいいかな。帰るまでの時間は適当にソファーで寝て過ごしてもいいかもしれない。

 

『あと十回です。休憩時間は三十秒』

 

上から監視しているBIFRONSもタイミングを教えてくれる。俺の疲れ具合を完全に把握しているので、できるぎりぎりまで追い詰めてくれるのだ。それについて怒りとかなんかわからない感情があるが、それがなにかを考えるよりもあと二十秒になった休み時間の間に呼吸を整えて血液の中に酸素を溶かし込み二酸化炭素を吐き出し切ることを優先する。

 

そしてそれが終わって這いずるようにソファーに座ると、四辻さんはアイスを二つ出していた。ちゃんと自分の分もある。

 

「説明できるなら、して」

 

「ログ読めばいいだろ」

 

「これはあなたのため」

 

「はいはい……いや、はい」

 

俺はそう言い直してソファーの上で姿勢を調整する。四辻さん個人にとっては、これは非効率的な時間のはずだ。それでも俺のために手間をかけてくれる理由は二つ。俺という人員が適切な状態にないとチームとしての仕事ができないからというものと、同業者への心理的共感の醸成。ああもう面倒くさい言葉使うなよ、同僚への親切でいいだろ。

 

俺もできるだけ四辻さんには親切にしたいのだが、何をすれば親切になるのかはわからない。少なくとも散歩がわりにアイスを近場のスーパーマーケットに買いに行くのは親切だと勝手に思っている。押し付けになっていないかどうかはわからないし、知りようがない。

 

「何が起こった?」

 

「……一足飛びに、理論が進んでいる」

 

研究の最前線を、俺は正直舐めていた。人工知能分野は基本的にある程度の計算資源が必要になるし、それをクラウドで使うにしろ個人で持つにせよかなりのコストがかかる。それでも、特殊なアーキテクチャを使うためには環境が必要だ。

 

だから、そういう技術を交換する掲示板に集まる人はある程度限られる。俺はかなり異端側で、普通はそれなりに大きな企業の情報部門が会社の許可を得てエンジニアとして動いているとかだった。会社としては優秀な人材を持っていることをアピールできるし、社員としては自分のやりたいことに会社が資金と資源を投じてくれる。普通の家庭に一億円する機材が存在することはまずないが、一億円する機材がある企業は別に珍しいものではないのだ。

 

設備投資の勘定科目で動く金は俺の日常的理解から離れているので、それが適正なものかはわからない。ただ、その値段で売る人とその値段で買う人がいるなら少なくとも悪くはないのだろうと思う。それに高すぎる値段で売っていたとしてもその利益が企業とかその企業が発注している他のところに回るのであれば世界は多分うまくいく。経済をそこまで知らないのでこれはブルジョワ階級の欺瞞的経済学に騙されているだけかもしれない。

 

だが、物理学の世界が要求してくる計算資源はもっと少ない。重要なのはどういうモデルを立て、どう式変形をするかだ。俺がBIFRONSの能力のかなりの割合を使って再構築した数学特化のアーキテクチャだって、本職に比べればかなり穴が多いだろう。

 

もちろん、人間にも得意不得意はある。例えば可能性を列挙して分類したり、あるいは先行研究を全部漁って似たパターンを見つけ出すとかであればおそらくは人工知能のほうが上だ。人間だってかなりのトークンをうまく圧縮できるが読み込みにかなり時間がかかるし、それに全文検索ができない。

 

なので一番いいのはローカルに保存したうえで人間がこういうの確かあったよなと検索して人工知能が片っ端からそれらしい用語を使って探していくとかなのだが、こういうシステム自体はそれなりに公開されているし導入している人も多い。

 

色々述べてきたが、ともかく物理系は環境構築が楽なのだ。それに人工知能の発展が参入障壁を下げたというか、求められる能力を絞った。だから、一定以上の鍛錬を終えればかなりの戦力になるのだ。俺でさえかなり難しい論文を理解できていることからも明らかである。おかげで世界の見方がよくわからなくなった。俺の手の中にあるアイスは本当に存在しているのだろうか。

 

「……ねえ、聞いている?」

 

四辻さんが何かを言っていたらしいが、俺の記憶には残っていない。やっぱり人間の脳の記憶って微妙に信頼性が低いよな。

 

「聞いていなかった」

 

「……ひとまず蓋を開ける。少し柔らかくなったところが好きだとしても、溶け切ったらアイスクリームの意味がない」

 

「……そうだな」

 

世話になってばっかだ。そう言いながらスプーンをバニラアイスの白い面に突き刺す。ここにあるのは現実の物体ではないという解釈だって合理的にできるなら、俺は何をしているんだろうな。

 

「どの程度の緊急事態?須藤さんに連絡は必要?」

 

「いや、そこまでじゃないな。俺と、せいぜい四辻さんに相談できればいい問題だ」

 

「具体的に口頭で話せる?」

 

「……いや、ここで理解できているわけじゃない」

 

そう言って俺は自分の頭を指でつつく。電卓を使って計算ができるように、辞書を使って言葉の意味を探せるように、俺は思考をBIFRONSに委ねている。そうしていると、そこから切り離された時に自分の実力が嫌になるのだ。

 

自転車を押しながら坂道を登るような、本来手に入る爽快感と世界が見えるという感覚の喪失。それを乗り越えられる人が少ないから、あるいはそれに溺れる人が多いから、人工知能を扱うのは楽じゃないのだ。

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