超越少女は路を示すが旅をするのは俺達だ   作:小沼高希

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アブノーマル・コンバスチョン 8

今日の待ち合わせ場所は運輸建設省地理調査院。日本国内の測量を統括する付属機関である。東京への一極集中を避けるためにいろいろな機関を赤城に移転しようという話になったときに飛ばされた可哀想な機関の一つである。

 

「想定以上だな」

 

壁一面に貼られた巨大で精密な日本地図を見ることのできるベンチに座りながら、須藤さんが呟く。

 

「想定以上です」

 

俺は彼の左隣から言う。四辻さんはここに来る途中で書店で買った行政系の雑誌を読んでいる。今月号の特集がちょっと気になっていたらしい。我が国が科学技術政策にかまけて足元を見ていないという批判的なトーンの見出しがちらりと見えた。

 

「私は物理学の専門家というわけではないが、理論物理学も実験物理学も最低限の知識はあるつもりだ」

 

「俺よりもきちんとした土台があるとは思います」

 

「そうか」

 

須藤さんはさらりと流す。俺からすればそれなりに悔しいことなんだがな。越えられないものがあること自体は別に慣れているとはいえ、彼は研究から遠のいて長い人だ。それでも少し話しただけで、彼が今でも学びを続けているというのはわかる。

 

「……有効理論を設計するというのは、物理学の研究の一つの手法です」

 

「宇宙を一つ作るようなもの、と言えばいいか?」

 

「ええ。計算機の上でも、グラフェンの上でも、ともかく独自の法則に従うものがあれば、それに対して有効理論を作ることができる」

 

音量子(フォノン)のあたりはわかりやすいだろうな」

 

「もともと材料工学を俺はやってますからね、馴染み深いものをありがとうございます」

 

結晶のような規則性を保つ構造で起こる振動は、その結晶を構成する粒子の振動が量子化されているために不連続になる。このミクロレベルで起こる飛び飛びの現象を、もう少し上のレベルでは粒の一つとして考えることが可能なのだ。

 

もしこれが非常に長い波長を持つなら、それは音になる。しかし短い波長であれば、その振る舞いはかなり奇妙になる。このときには音量子(フォノン)と呼ぶべきいろいろな性質が見られるし、量子力学の対象らしい波動のようにも粒子のようにも振る舞う特徴を持つ。

 

この音量子(フォノン)を考える時、結晶のようなものは物理法則に等しくなる。それは所与の前提であり、変えられないものだ。物理学者が物理法則に文句を言わないように、与えられた材料に対してそれを一旦は動かせないものと見る分野はある。それは楽でもあるからだが、対象を変えなくとも十分深いものを見ることができるからというほうが大きい。

 

「重力特異点を作るために、宇宙の法則を変える、という話があったはずだが」

 

「アセット42が示す理論も、そういうものです。強い重力下の高エネルギー粒子は、有効理論としての標準模型の前提を崩す。その前提を入れると、見かけ上複雑だった構造が整理されたものになります」

 

ポリリズムのようなものだ、と俺は勝手に考えている。七拍子と五拍子を組み合わせたものを聞く時、それは時折調子がずれて奇妙なものに聞こえる。けれども三十五拍子から見れば、どちらもある程度揃ったものになるだろう。

 

少し前に格闘した無限単純群は、その拡張された法則の基盤になる。その上に部分的に見える分離できそうなものが小さな視野だと奇妙に見えるだけで、落ち着いてしまえばその構造はわかりやすいのだ。わかりやすいと言ってもこれを高校生が理解できる教科書が出るまでにはあと三十年ぐらいかかるだろう。

 

「それで、その理論の上で特定条件下でエネルギーを圧縮できる条件が見つかった、と」

 

「ええ。もともと四辻さんがそう言っていたものですし、俺もかろうじて理論的には理解したところですが、一気にそれを定式化されました」

 

「向こうにも相応の人工知能があるのかね?」

 

「BIFRONS級でしょうね、それも物理学に特化しているやつ。月に千ドルぐらい使うことになるか、あるいは数万ドルの計算資源を有しているか」

 

「その人物を特定できるか?」

 

「無理でしょうね、そこまでやる人間があの匿名掲示板にいるなら本気で隠している可能性はそれなりにあるでしょうし、人工知能開発コミュニティの人だとしても候補が多すぎます」

 

一応BIFRONSの力を借りて調べられるところまで調べたのだが限界があった。そもそも毎回の投稿ごとに匿名化されるせいで、誰が誰だかよくわからないのだ。誰もがその場で一回だけ発言して終わりかのように振る舞うという文化があるスレッドだったのもあって、あまり詳しいことは言えない。

 

「……つまり、特異点の作り方はもう公開されている、というわけか」

 

「まだ物理学の解釈の一つでしょうけどね。それが任意子(エニオン)とか相量子(フェイゾン)とかみたいなちゃんと扱えるものだと言えれば、実験をしてみようというふうにはなるでしょう」

 

前世紀に発見された準結晶はしばらくあくまで理論的な面白さ以上のものを議論されていなかったが、その量子論的性質が真面目に研究できるだけの機材が揃うと強相関系の実験の一つとして結晶における音量子(フォノン)にも似た相量子(フェイゾン)をうまく扱おうみたいな研究がある。あまりうまく行っていると言う話は調べても出てこなかったし、そもそも俺がこの話を知ったのはBIFRONSがしてくれた講義の中でだったんですがね。

 

「必要な機材は?」

 

「理論実証だけであればそう難しいわけではありません。さすがにガレージでは無理でしょうし、俺のいた三河工業大学でそれができる研究室はないと思いますが、世界で両手で数えられるほどはそれができる組織はあるでしょう」

 

「……先工研では、可能だろうか?」

 

「わからないですけれども、NRIM(エヌリム)あたりのほうがいいじゃないですか?」

 

正式名称は材質技術研究所だが、National Research Institute for Materialsの略称のほうがよく知られている。赤城にある材料系の国立研究所で、先工研と微妙に被っている組織だ。

 

「……私は実用畑が中心で、NRIM(エヌリム)の方には繋がりが少ないんだ」

 

「ああ、冶金と材料に特化していて、基礎研究に軸足を置いていますものねあそこ」

 

「知り合いがいないわけではないが、影響は間接的なものになる。紹介をするべきか?」

 

「もう少し待ちましょう。アイデアが出てそれが検証できたら一番乗りの名誉を手に入れることができますが、後発性の優位ってものがあるでしょう」

 

「……我々全員が、後発者なのだがな」

 

「それも、そうですね」

 

俺はちらりと横を見た。彼女は雑誌をほぼ読み終わっていた。

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