ブートストラップ・プロブレム 1
「問題は感情と社会科学なんだよな……」
そう言いながら、俺は大きな画面を見る。彼女の部屋の方には消毒されたキーボードとマウス、そして追加のディスプレイがある。無線通信で繋いだり、キーボードとマウスを俺の側とは独立して動かすという面倒な作業はだいたいBIFRONSがやってくれた。ありがとう。
「私もこのあたりをきちんと自分の言葉では話せない」
数日の対話の結果、アクセントは普通の日本語話者と同等のレベルになった。そんな簡単にこの領域に到達できて溜まるかよ、という言語学習者だった過去の自分の恨み言は一旦置いておこう。
「語彙がないのか?」
「そうではない。いくつか説明はできる」
そう言って、彼女は未知の語彙で話す。これについても定期的にBIFRONSが解読しているのだが、最低限の翻訳がやっとできるようになってきた。彼女の発音が綺麗で、音素が弁別しやすく、音節もそう長いものではないとかいうのもあるのだろう。
一応、手元の画面には詳しい報告書がある。音節構造はCVもしくはCVCが基本で、特にCVC型は自立語であるとか、構文的には右分岐が支配的であり、構文ツリーは単純な関係節埋め込みのような二段階程度の浅い再帰と限定的な修飾に留まっているとか。言語学をやった人でないとわかりにくいような書き方だ。
そして俺達の問題はそこにある。例えば「愛」という単語をどう伝えればいいだろうか。例えば辞書に乗っているような定義を伝えたとする。その中には「家族」とか「恋人」とか「慈しみ」とかいう単語があるだろう。
では、それをどう説明する?基本単位である
「なあBIFRONS、ブレイン・マシン・インターフェースを作るにはどれぐらいの人口規模が必要なんだ?」
そう雑に言うと、計算を始めてくれる。もちろんこんなのは思考実験に過ぎない。もしきちんと知識を持った存在であれば、人類が1800年頃まで安定した電力源を生み出せなかったことを訝しむだろう。
そうして弾き出されたのは一億人。おもったより少なくても行けるんだな。ただしその前提として自動化農業が成立していない、あるいは成立して間もないという条件がある。マルサスの法則ってやつだな。人口というのは一瞬で増えるのである。そして人類史の規模で見れば、一瞬で減少していくのだろう。
そんな馬鹿な会話を互いにしながら、情報を集めていく。ひとまず共有できるところはしておこう、というのが現状の判断だ。
「█████████████████████████████████████████」
四十二さんが俺のわからない言葉を話している時、やはり疎外されているような気分になる。BIFRONSはこれを理解できているのだが、その日本語訳がきちんと正しいという保証はどこにもない。人間だって誤訳や誤解をするし、微妙なニュアンスを翻訳することは困難だ。
とはいえ、一応逐語訳のようなものは出てくる。おそらく大家族、あるいは小集団と呼ばれるものがあって、その人口がおよそ百人。それがいくつかあったらしい。何にあったのかはわからない。BIFRONSは一応「構造」という訳をつけている。
「そういえばダンバー数ってどれだけ信頼できないんだったかな」
呟くと自動的に論文が出てくる。でもダウンロードしてあるのはオンラインで公開されているやつが中心なんですよね。ただデータベースの中にちょっと不確かな方法で手に入れられたものがある可能性が存在していることを否定するものではない。このあたりの権利問題は首を突っ込むと厄介すぎるので黙っておこう。
それはそうと、大きく外れてはいないが定義が多様だしそもそも文化と人によって違うそうだ。たしかに俺も誰が誰だか良く覚えていないもんな。スーツを着ていない須藤さんと町中ですれ違った時に見分けられる自信はない。眉の形と表情の癖と皺の場所は覚えたが、それを眼の前の知っているかどうかわからない相手と毎回照らし合わせることができるほど俺の脳は賢くない。
「人間が多いと、当然人間関係が複雑になる」
四十二さんが俺の方を見て言う。
「そうだな」
「だから、ここ、あなたの方では私たちのところとは違う法則がある」
「人間は不確定要素が多くて、法則を作るのは難しいのでは?」
言語学にはいくつかの法則があるが、大抵は例外がついている。それに法則と呼ばれるものも、特定の言語が別の特定の言語に変化した時に特定の音がまた別の特定の音に変わる、といったあまり一般化しにくいような個別事例が多い。
「人間の法則は従うものでは?」
「あー、法律と法則か。法律は人間が定めるもので、法則は……人間じゃなくて物理がそのようにある、でいいのか?」
「定義が厳密にやると破綻する。私の知る法律は人間が定めるものではないし、法則は人間が定めることが理論上はできる」
「科学哲学とかろくにやってきてないからこのあたりは怖いな……」
単語一つとっても、様々な意味を持ちうる。その理由の一つは人間の脳の限界のせいだ。全く違う概念を扱うためのフレームワークを無から構築するのは脳に負担が大きい。だからその場にあるものをブリコラージュと言い張って独自の意味を追加して余計なことをするのだ。他分野を扱うタイプの人工知能だときちんと文脈を踏まえさせないとこの種の問題が酷いことになるというのはそれなりに昔から知られていることである。
「単語に厳密な意味はないのは、定義していないから?」
「その側面はあるだろうな。俺達はまず言葉を自然に使っていて、そこから発展させる形で論理を組み立てる。専用の数式とかは思考を操作する道具だが、正直言って言語は世界を切り取って精密に、厳密に分析するのには向いていない」
四十二さん側の端末に俺が適当に話した内容の中で共有されていない単語の説明が表示されている。ちらりと彼女はそれを見て頷く。かなりの語彙は共有され始めてきたが、それは辞書の語釈がない、単語だけのリストだ。それらがどう繋がっているかについての大まかな説明はあるが、それが世界とどう重なるかを決めるのはこれからだ。
数学、物理学、化学、そして医学は共通の理解の基盤があるだろう。俺達は直立二足歩行で、たぶん十二対の脳神経を持っていて、それらの機能は俺達が知るものと同じだ。だから、土台は共通のはずだ。
問題はその上に何を作ってきたのかが大きく違うということだ。それはきっと、手探りで摩天楼の構造を探るような試みになるだろう。