接続した国際学会のセッションがまもなく始まる。タイトルは標準模型の無限単純群表現について。俺達のやった数学モデルはアノニムス表現という名前で公開されることになる。発表者はアブストラクトでこの発表に関連する中核的発想の名誉は匿名の参加者に帰するものであると書いてあるように、この発見は匿名の人々の集合的な労働の結果ということになるのだろう。
「録画は?」
四辻さんが聞いてくる。
「できている」
一応そういうのやめてくれと学会側からは言われているのだが、まあ俺達がやっている無法にちょっとぐらい何かを足したっていいだろうという立場を取る。
「本当は現地に行きたかったりした?」
「いや、面倒だし俺は英語話せないからな」
「私は話せる」
「どのレベルでなんだ?」
「日常会話はできない」
「俺もできない、日本語でさえ」
「非定型な言語的意思疎通は非常に困難」
「わかるぞ」
そんな話をしていると白髪の男性が舞台に出てきた。皺から見える若さからすると脱色しているのかな。調べた範囲ではアメリカの大学教授というところまでしかわからなかった。あまりオンラインで動いている感じではないらしい。
そういう人物が匿名掲示板に参加するのかよとも思ったが、もしかするとインターネット上であえて自分の情報を流さないような高度な戦略的情報活動を行っている人かもしれない。もし相手がその水準であれば、かなり警戒するべきだろう。何に警戒すればいいのかはよくわからないが。
『Thanks to the organizers for the invitation, and to the previous speaker for setting the stage...』
俺は聞こえるものと見えるものに集中する。あとでBIFRONSが完全な日本語訳とかの記録をまとめてはくれるだろうが、それを流し読みしないためにはリアルタイムできちんと何を言っているのか聞いて悩んだほうがいいという判断だ。
低めの声で淡々とスライドがめくられていく。群論についてはかなり初手からしっかりとした数式モデルで説明しているな。というかここの理論物理学の話を聞いているみなさんにとってはこれぐらいは常識なのか。
具体的な本題に入る前に、スライドが切り替わる。
『えー、まず最初に、明確にしておくべきことがあります』
少しだけ慣れてきた俺の耳に、英語の文章が響く。
『この構成自体は、オンラインコミュニティで構築されたものです。その中核となった議論には私は関与していませんでした。そのため、無限単純群をこのように組み込むという発想自体は、私に帰せられるべきではありません』
慎重なのか、あるいは倫理的な問題を回避しようとしているのか。どちらでもいい。事実、俺達ではない誰かがその貢献のかなりをしたんだからな。誰かに成果を押し付けようとしたら誰かわからない人が取っていくなんてことがあるんですね。
人間はあまり名誉とかを気にしない。いや、確かに手に入るなら手に入れたいが、自分のものではない名誉を受け取らないという名誉こそを望むとかのほうかもしれない。こういう価値観は本当に難しいからな。追い込まれている時に取った倫理的に微妙な選択にずっと苛まれるような人がいることを考えると、安易な誘惑に飲まれないほうがいいのかもしれない。
そんな余計なことを考えていると話が進んでしまう。俺はマルチタスクができなくて、原語解読の方に集中すれば内容がわからなくなるし、内容を理解しようとすると耳に入ってくる音が原語とは認識できなくなる。
『私が行ったことは、表記を統一し、定式化を多少ではありますが確固たるものにすること、そして具体的に標準模型にこのモデルを適用した際に発生する際に起こる非自明な技術的問題のいくつかを解決したものです』
全うな発言。というよりこのあたりは無限を扱う群論に慣れているなら簡単なんだが正直言ってこの辺は物理系でやっている人が少ないからな。スレッドを見た限り結構数学系の人もいた気がするし。
というわけで説明が進んでいく。全体の時間が三十分で質疑応答を入れるともう後半戦だ。数式については詳しくはプレプリントサーバーの
ここに同時接続しているのは数百人。そしてその多くがこの分野に興味を持っている人だろう。そうでなければ他のところに接続しているだろうし、同時間帯には正直もっと面白そうな話がある。
説明されている内容は、俺がかろうじて理解できるものだ。きっと俺よりもこの発表者のほうが深く理解しているだろうし、応用もできるだろう。
『……すなわち、ある種の結晶系上で発生する準粒子が示す振る舞いを観測することで、このモデルをより正確に確かめることができます』
「おお、やっと表に出た」
俺は呟く。この準粒子はエネルギー密度を高めることができる。具体的に言うと周期系の面積に依存して溜められるエネルギーが変わるのだ。このような研究は
ただ、これはあくまで理論的な話だ。具体的な相互作用パラメータは第一原理計算では追いつかないような面倒な計算を必要とするし、これは内挿できないから効率的に学習して予測なんてこともできない。実験的にやるしかないのだ。
「この再現はどのぐらいでできると思う?」
「須藤さんが動けば数ヶ月とかかね、そういうつながりがあるかは知らんが」
俺は適当に言う。四辻さんだって俺が答えを持っているとは思っていないだろう。普通の雑談だ。
質疑応答ではかなり難しいものが飛んできている。原理上それが標準模型と同じならなんで特別な準粒子が現れるのかという問題では、群構造の観点から言えるみたいな歯切れの悪い説明だった。これについては理論説明や解釈の時にこういう準粒子ができる可能性をほのめかすようなルートに誘導した人がいますからね。俺達のせいである。
拍手の中で、その発表は終わった。次の講演者を司会者が紹介していく。
「続き、見る?」
四辻さんが聞いてくる。
「一応見ておくか」
俺は肩から集中を抜いて、少し落ち着いて配信の画面を見た。