超越少女は路を示すが旅をするのは俺達だ   作:小沼高希

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ガーデッド・サスペンション 7

俺が博士号を取ってからもう一年が過ぎて二度目の春が来てしまった。世界はわずか一年で色々と変わってしまったように見える。もちろん、それは俺達が見ている世界がかなり狭くて尖っているからだ。

 

物理学では色々と評価が動きつつある。ちゃんとした論文として数学モデルを弄くるものもでてきたし、群論の方面では腕に覚えのある人たちがどういう数学的構造が存在しうるかを詰め始めた。あいつらは物理法則をゲームかなんかだと思っていて、面白い仕様なのかバグなのかわからない現象を見つけようとしている。

 

日本理論物理学会春季大会も久しぶりである。今回の会場は九州。ホテル代は経費ではなくポケットマネーである。こういうところぐらいしか金の使い道がないので、ふかふかのベッドとおいしい料理が出るところにした。とはいえ流石に二部屋だときついので一部屋だ。もちろん何度もダブルではなくツインであると確認しました。

 

「注目されているのはいいけれども、回りきれるか怪しい」

 

四辻さんはそう言いながらホテルのベッドに座り、手に持った大きなタブレット端末を操作する。こういうガジェットは経費です。商社さんを噛ませているので色々と手数料がかかっているが、面倒な調達とかアカウント調整とかをやってくれるのならそのぐらいの対価は払うべきだろう。そうでなければ俺達の一日か二日分の人件費が上乗せされて利益分が消えてしまう。

 

「諦めたほうがいいだろうな、ひとまず招待講演聞きたいやつ聞くの優先しないか?」

 

「あくまでそれらは分野の全体像の説明であって、最先端の話ではない」

 

「まあ、本当の最先端をやろうとすると発表としてはしょぼいものになるのには同意するけどさ」

 

例えば学会の発表者が少ないからお前の研究室から一人どうにか出してくれないかと言われて教授が浮世の義理で頷いて慌てた院生がポスドクの持っていたネタを譲ってもらってアブストラクトをでっちあげて学会に送ってから急いで実験をしてスライドを作る、みたいなところに俺達の知りたいような一番先端の情報は出てくる。実際にはあまり良くない話ではあるがね。

 

そういうものは、分厚い冊子として印刷して持ってきた発表要旨からはわからないのだ。四辻さんはタブレットで十分らしいが、俺は物理的実体がそれなりに好きでね。

 

「古瀬さんは異論が?」

 

「まあ意見を聞いたら異論をまず考えるようなひねくれた性格だからな」

 

大抵の二者択一は前提条件を弄くればどっちによるかを変えられる。ディベートとかの大会だとお題を向こうが出してきてもそれをどういう方向で解釈するかは最初に意見を述べる側のチームとかあったよな。でもたぶんルールがいっぱいあってどれに従うかとかになるんだろう。専門外の話はやめておくか。

 

「おおかた、まだ体系ができていないところに既存の理論の延長線上として構築された構造が破綻しつつあるなかでどうやって新しいものを作っているのかが興味深いとか言うんでしょう?」

 

「そこまで言語化できてはいなかった、それとたぶんそう。やっぱり科学っていうのは研究とか実験以上に体系だからな」

 

一つ一つの研究は、その総和よりも無価値だ。独立し、孤立し、引用されない論文は、世界に与える影響は正直言って少ない。もちろんそういう論文を出すなと外野が言うのはあまり良くないが、かといって言わないのもそれはそれで健全ではない。面倒で難しい問題だ。

 

「物理現象の解釈自体が変わるというのは、どのようなものなのかは観察したい」

 

「経験したことは……ないか」

 

「ない。こちらの物理学の中で私の知っているものと食い違っていたり、局所的に良い説明を与えるものはあったけれども、それは私の中の物理学に対する直感的な思考や意識を変えるほどのものではなかった」

 

「俺も古代の哲学者みたいな考えは物心ついた頃には持っていなかったからな……」

 

物を落とせば下に落ちる時、俺達はそれが自然な状態だとは考えない。そこには重力という力があって、それは地球と物体との万有引力によって成り立っていて、何かを投げた時にかかるのが重力だけでも慣性によって力とは別方向の速度を持つことができる。

 

学部一年生、一般教養も混ざったような物理の授業の最初の最初でそういう話をされたのを思い出す。もし俺が小学校の時にそれが正しいと教えられていたら、放物線を描く物体には空気抵抗とかいう面倒で無視されるものを除けば重力しかかかっていないというのは非直感的だっただろう。

 

光が波というのもそうだ。それが何かを探り、実際に目で見えるものとのアナロジーからその物理的特性を分析しようとしていた時代とは違って、俺達は波を作る模型とか実験を見せられた後に光は波だと覚えさせられる。一応今の俺は光子みたいな概念も飲み込めているが、これは二重思考な気もしてきたな。本質的な量子の二重性を理解しているのではないのかもしれない。

 

俺は教科書から踏み出せていない、というのは思うところだ。人工知能の分野ではすぐ先頭に行けてしまって教科書なんてものはなかったし、自分の試行錯誤を支えてくれたのは人間の書いた教科書というより、それらをまとめた膨大な人間のテキストによって学習された知性だった。

 

「パラダイム・シフト、と言っていいの?」

 

「そういう分野はよく知らないから用語が正しいかはBIFRONSに聞いてほしいが、まあそういうやつなんじゃないか?」

 

それまでの常識が通用しなくなる、というよりそれまで積み上げてきたモデルが使えなくなったり、有効理論に過ぎなくなったりするタイミング。それは今なら、一年もかからず起こってしまいかねない。

 

パンデミックが社会のあり方を変え、人工知能が働き方を変えた。両方とも俺が世界を今みたいに捻くれて見るようになった前の話だから俺はその変化を意識的に経験してはいない。

 

「……後で確認する」

 

「それと、ちゃんと変化したんだと分かるぐらいには今の知識体系を知っておかないとな」

 

そう言って俺は持ってきた物理学の教科書を鞄から取り出して、少しだけ格好をつけて読み始める。数ページめくっただけでよくわからない式変形が出てきて、ちゃんと理解するためには紙とペンが必要になりそうだと思った俺は、部屋の隅にあるデスクにノートを開いて座ることにした。

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