エクスカーションというものがある。ちょっと学会会場から遠出して近場のいろいろなものを見て回るというやつだ。学会が水曜日から金曜日までで、土日に関係機関のいろいろな場所を公開するというやつだ。
大学共同利用研究機構は日本中に設置されている、一つや二つの大学ではカバーできない案件を国家が支援するという枠の組織だ。これ自体が大学院大学を持っているという奇妙なことになっているし、その組織の中には資料館とか博物館とかあまり研究機関らしくないのもある。そういう事を言うとそっち系の人からいやそういう場所の研究機能はかなり重要なんだぞと言われそうだが、市民のほとんどはそこを観光スポットとして見ていることを忘れないでほしいな。
「……ここが日本最大の?」
「そう、世界でも指折りの」
俺は一応このあたりについての知識はそれなりにある。深堀りした場所については、広い知識を持つ四辻さんにも勝てることがあるのだ。
量子コンピューターのために必要な複数の量子デバイス、その製造工場。これができる工場はドイツ、台湾、アメリカ、そしてここ日本だけだ。中国が苦労して試作品ができたと公開してるが、その質であるとか大量生産ができるかどうかとかは疑問視されている。
今の情報時代において、量子コンピューターの存在はかなり重要だ。古いバージョンのRSA暗号が使われていたインターネットの記録があるなら、それを解読することで得られる情報は膨大にある。一方で今でも素因数分解をするためのショアのアルゴリズムをうまく回すのは完全にはうまく行かない。古典計算機とは桁違いの性能を出せるが、所詮はオーダー程度の話しかできないとも言う。
各国の諜報機関がこの種のデータをいつか量子コンピューターができる時のために丁寧に溜めていて、その解読結果を色々と使っているというのはまあ確実視されている。行き過ぎると陰謀論になるし、実際に国家が持っている量子計算資源の量がどれぐらいかは議論の余地があるが、それでも今のインターネットが量子耐性暗号が使われるような転換があったのは決して単なるバージョンアップではないのだ。
「あまり見せてもらえないね」
「まあ公開するわけにはいかないものも多いだろうからな」
前に六ケ所町で見た施設とはまた違う、クリーンルームの独特な光に照らされた様々な機械。大量生産とはいっても手作りの延長線みたいなところがあって、ラインというよりも工房という側面が強い。そして重要な設備はかなり奥の方に隠されているようだ。
「……あれはワイヤボンダ」
小声で四辻さんが言う。
「なにそれ」
「基盤と素子を配線するための自動装置」
「なるほど」
そんな会話を小さくしながら案内の人について行く。そして俺達が見たかった、今流行の技術を使った機材の展示場所までやってきた。
「ここでは量子ドットの品質確認を行っています、機材については実験をやっている方々だとわかるかもしれませんが」
そう言って説明してくれる人の言葉を聞きながらガラス越しに装置を見る。中央にあるのは真空装置で、各種のプローブやら電子銃らしいものが伸びている。なぜわかるかと言うと「警告: 电子束」と書かれた黄色に黒文字のステッカーが張ってあるからだ。
「凝縮現象はここで?」
誰かが案内の人に質問をしている。
「はい。あの現象を量子ドットとして使えないかどうか、この装置で検証しています」
言いたいことはわかる。あれは高エネルギーの状態を一つの場所にとじこめておく技術であるので、逆に言えばより小さなエネルギーであればもっと簡単に制御できるかもしれないのだ。ただあまり弱すぎると場所が特定できなくなる。
このあたりは不確定性原理の一種ではあるんだがあまり単純に位置と運動量とは言えないんだよな、ええとどういう理論だっけ。運動エネルギーが大きいとその分不確定性も大きくなるから、引き換えに場所の不確定性を下げることができるとかそういう感じ。やめておくか、適当な表面的な理論を複雑な現象に対して使うと大抵ろくなことにならないのだ。教科書に乗っているモデルとか近似とかはうまくいくことが知られているから掲載されているのであって、モデルとして失敗したものはなかったことにされるのだ。
「ここは試作品の作成が中心なんですか?」
「はい。ただ、例えば先工研に納入されている計算機の中心部分はここで作られたものです」
そんな話がわいわいとされている。一方四辻さんはガラスの向こうの様子をできるだけ覚えようとしている。後で機材のリストとかを作るんだろうな。
普通、こういう場所の機材リストというのはかなりの機密になっている。例えばどの会社から買っていて、どの会社から買っていないかという情報はノウハウの偏りとか製造条件とかのヒントになる。ただ、普通の人は見たものを全部覚えられないからカメラの持ち込みを規制すれば問題ない、とされている。実際俺達が持っている端末のカメラの部分にもシールが貼られている。無理にはがすと跡が残るようなやつだ。
「まだ見たいか?」
「見たい」
「わかった」
もちろん、人を入れている以上どこからか情報が流れることは想定しているだろう。必要なら須藤さんの力を使って書類の提出とか監査の方面でどうにかできる。ただ、それは同時に証拠が残りやすいのだ。
俺達が学会に出て、このエクスカーションに参加した記録は残る。発表で四辻さんが色々といい質問をしたのも覚えている人が出るだろう。ただ、そこから俺達を見つけるとなればそれはそれで何処かに痕跡が残るのだ。ということを須藤さんが言っていて、それに合わせてある程度俺達は動いている。
「どうですか、使えそうですか」
「ノーコメントです、まだわかっていないことも多いので」
質疑応答をする案内の人。そもそも知らないのか、あるいは知っていて言わないのか。事務の人とかだと中で色々やるわけではないだろうし、手元に持っているクリップボードからすると案内で何を言うかとかも詳しく決まっているのだろう。
「……最低限」
覚えた、とは言わない。さすがにここまで凝視されたら俺達が盗人だと気がつかれかねない。一応案内の人から俺に隠れて四辻さんが影になるような位置取りをしているが、それがどこまでカバーになるかは不明だ。
「移動が始まった、いくぞ」
「わかった」
俺の少しだけ左後ろから慣れ親しんだ歩幅の音がした。そういえば、俺は四辻さんの足音を聞き分けられるようになったんだな。