トランスファー・オービット 1
「どうぞよろしく!」
明るい男性が俺の手を持って握り、振ってくる。すっと手を出した四辻さんのも握る。距離感がおかしいのか、あるいは意図的に詰めているのかはわからない。
彼は峰丘さん。先工研でレーザー物理学をやっているというか、もともと光学系の企業で研究員をしていた後に先工研にやってきた人だ。企業時代に二本ほど論文を書いているが、細胞内部を見るための光学的な方法を精度良くしているみたいな話だった。完全に理解しているわけではないが。
「青原さん経由で色々と伺ってはいますが、改めて確認してもいいですか?」
四辻さんが落ち着いて言う。今日のお話は四辻さんがメインで俺は裏方という流れになっている。なぜかというと俺は理論物理学も実験物理学もわからないからである。なんで四辻さんは両方できるんだろうな、恐ろしいぞ。
「そうだよね、今日は顔合わせのつもりだったけど準備はしてあるからもし具体的な話が良ければするけど」
「あとから聞き直すこともあるかもしれませんが、概要を聞かせてもらえればと」
「うん!」
元気な人だ。なお彼の上長に当たる人がこの前先工研の計算資源を使う時に共同研究というか手を貸してもらった人だ。とはいえ名義貸しみたいな感じだし青原さんの後押しもあったからな、その本人とはそこまで話せていない。
基盤概念部門は基本的に理論系の人が多いが、それでも実験設備を持っている人はいる。峰丘さんは光計算機とかの方向を博士課程でやっていたので、そちらの方面で無理やり総合先端情報領域扱いされているらしい。とはいえ今どき情報系のことをやっていない研究者はいないのでかなり自由に人を呼べるんだよな。
というわけで話を聞く。うん、普通に例の名無し凝縮案件ですね。匿名掲示板由来で発見された理論に基づいているので
あとインターネットの科学系の記事にそういう物が出てきた。かなり端折られていはいたが概ねそれらしいことが書かれているので許容範囲としよう。四辻さんは不満そうだった。彼女にとっては大体数の人が物理学に不正確な関心を持つことで物理学分野全体への予算配分を増やすことに繋がるというのがそこまでいいことだとは思えないらしい。俺もそうだ。ただまあ、仕方のないものだと俺は自分に言い聞かせている。
「……たしかにこれは相互作用が複雑そうですね」
「そうなんだよ、実験でも理論に近いようなピークが見えているんだがその帰属が厄介でね、シミュレーションとかができれば嬉しいだが」
「このあたりの近似モデルはいくつかありますし、本格的にやってみます」
「いいのかい?」
彼が素直に心配しているのだろうな、というのは表情に無駄な癖みたいなものがないところから来る印象。もしかしたら日頃からこういう笑顔をしているのかもしれないが、それだったらちゃんと面倒な感情を置くにしまい込むことができているというわけでこれはこれで問題なし。
「はい。私たちもいくつかやってみたいことがありますし、もしかするとこういう実験をしたらいいんじゃないのかというお話になるかもしれませんが」
「それは大歓迎だよ、だってまだこの研究は始まったばかりでわかっていないことも多いから、一人でも話し相手がいると助かるんだ。チャットボットに聞いても限界があるし、なによりこの分野の情報がまだ入っていないようだからね……」
「先工研の内部のものであれば多少は反映していると思いますよ?」
「そうなのかい?」
驚いた顔をする峰丘さん。ああそうか、普通はああいうところで外部サービス使うのも珍しくないんだよな。今では人間が触れる範囲だと金をかけたローカルシステムとサブスクリプションのクラウドシステムで大差はないが、どうせ検索結果とかの亜種だし、機密情報を流さないなら相談や壁打ちに外のシステムを使うことは珍しくない。論文を検索サイトで探すのと同じだ。そこを制限しては仕事にならない、という考え方。
それがどこまで問題になるか、というのもまた難しい話だ。俺は四辻さん案件についてはできるだけ切り離しているしオンラインで回しているBIFRONSも勝手にそちらの方向に進まないようにして通信も暗号化しているが、それでももし当局が本気を出せば破られる可能性がある範囲だ。
普通の研究はそこまでのものじゃない。例えば俺が峰丘さんの研究に興味を持っていて情報が欲しいとなったらまずは講演会の依頼とか出して地方に連れて行ってどこかに閉じ込めて尋問すればいい。大抵の問題はそれで解決するし、俺だって四辻さん案件でそれをやられたら知っていることは大体吐いてしまうだろう。向こう側にとっての問題は俺が馬鹿なせいで理解できていることが少ないってことだ。
ともかく、実務上はほぼ問題ないと言っていいだろう。そこで悩むぐらい暇があるなら、もっと研究をしておけということになる。それに使っているサービス側で情報流出があったら全部が大混乱になるのでどうしようもないというのもあるが。
「はい。私たちが青原さんの下で開発している研究補佐システムは、言語を用いたやり取りにも対応しています。なのでもしあなたが許可をすれば、かなりのところまで進捗を理解して研究アイデアのすり合わせなどもできますよ」
「そこまでここは進んでいるのかい?いや、君たちに頼んで正解だったよ」
うん、先工研が進んでいるというか先工研の担当者が進んでいるシステムを開発している人を採用してくれたというべきか。もちろん人工知能を開発している企業ではこのレベルのことは普通に行われているだろうし、個人でそれなりの投資をして似た環境を作っているところもあるだろう。でも大学とか研究機関でこのレベルのチューニングをしたモデルを活用できているところはないはずだ、たぶん。
BIFRONSは俺の判断と組み合わせた自己学習と、根底レベルで埋め込まれた動機づけが特徴である。だからこそ責任のある仕事をさせるのは難しいし、高リスクなので常に人間を一枚挟んだ隔離環境で運用されるべきものだ。けれども、それをするだけの価値があると青原さんが判断してくれたのなら、それにはきちんと応えるのが仕事ってものだろう。