一般的に学術論文では既存の手法を踏襲することが新規手法を取るよりも求められる。なぜなら新しい手法というのは得てして裏付けが薄いからだ。
今回俺達、というか四辻さんがほとんど作ったような物と言っていい名無し凝縮のシミュレーションソフトウェアはまず俺達筆頭著者、峰丘さんがナンバースリーで
いやまああまりいいことではないと思いますよ、サラミ出版と呼ばれる論文数の水増しなんじゃないかと言われればそこまで強くは否定できない。ただ、理論っぽいところと実際の計算のテクニックとそれらを用いた実験値の説明ってのを切り分けるべきだというのもまた真実なわけで。
こうやってわざわざ作った手法が広く採用されるなんてことは、実は非常に少ない。以前に俺が作った物性計算モデルもそんなに引用してもらったわけじゃないしより包括的な上位互換がすぐに出回ったからな。確かにそれらのシステムの中のクレジットに俺の名前はあるが、論文内で手法として引用されるのはまとめたパッケージの作者である。
「……不満が残る」
四辻さんはどことなく苛ついている。ストレスの制御ができているとはいえ、常に一定の気分を出しているような状態ではなくなったことは隣から見てもわかる。メリハリをつけるようになったと言えばいいのだろうか。
「完璧な論文やらソフトウェアを作ろうとしたって無駄だってことは?」
「理解していることと、あるべきように振る舞えることとは別。物理法則と生理的現象を改変するためには、膨大な資源が必要となる」
「一般的にはそれ不可能って言っていいと思うんだけどな」
物理法則とは単なる網目によって生まれた模様みたいなもので、糸をほどいて編み直せばかなり自由度が高く宇宙を再構築できる、なんていうのは四辻さんの知識としては不可能ではないだろうとされていたが向こうでも実用化まではまだ遠かった。これは編み物という喩えがかなりしっくり来るような話だ。
結び目理論とかの親戚であるタングルとかブレイド群と呼ばれるものに近いのだが、高次元であることと独特の干渉をするので安易にそう言うのと同じモデルに落とし込めないとか色々あるのが宇宙の構造の一つである。それを群論の形で書き下ろすのは四辻さんのいた構造体の趣味であるが、別に他の離散的な構造でも示せるみたいな話はある。かなり複雑だしそもそも検証するのに必要なエネルギーのオーダーがかなり高いのであまり詳しいことは言えないのだが。
編み物のセーターを鋏を使わずに上手く糸の一本だけを引き出して、そこで追加の編み物をするようなものだ。局所的に構造を作ることはできるけれどもそれを全体に波及させる事はできないし、編み方のパターンが変わる境界線は汚くなる。その汚くなるところを重力特異点というもので潰してあげることで上手く対応させるらしい。リッチフローの手術と等価なんだとか。わからない単語が増えてきている。
それっぽいイメージで語ることができる範囲には限界がある。光を波のモデルと粒子のモデルで説明しようとすると限界があって、その両方を結果的に近似として持つ量子という非直感的だが数学的にはまあまあ閉じていてきれいなモデルを導入する、みたいなのは現代物理学の始まった頃からやっていたことだ。というか力とか加速度みたいな概念も別に直感的ではない気がする。
「私は求められる程度の努力はしたと思う。掛けた時間としても、人類に対する貢献としても」
「まあ、そういう形以外でもいくらでもシステムに対する貢献はできると思うし、時間単価で言えばあまりいい方ではないかもしれないとは思うが」
世界のためになりたいならアルバイトでもすればいい。お金がもらえるような仕事はたいてい世界から求められているものだ。少なくとも経済において通貨は自分の仕事が全体に与える意味とかいう面倒なことを考えて眠れなくならないために活用されているという側面がある。
研究者はまた違う。赤城先端学術都市が異常者の収容のための特別隔離都市であることは広く知られているが、いわゆる研究職や技術職の皆様のそこそこの給与のうちある程度はここに閉じ込めている人間がこの場所から出られた時に社会が被る被害を事前に抑えるためのものである。つまりお金上げるから大人しくしていてねというわけだ。
「……あまりそういうことを言うと、私は不満を感じる」
「どういった?」
「私がこの世界に与えたものの、適切な対価を私は受け取れていない」
「……払えるものかね」
彼女の知識をオークションで売ったらいくらになるか、みたいな方向で考えると数億ドルにはなると言っていいだろう。数百億ドルまで行くかもしれない。しかし一兆ドルには届かないだろう。
知識は知識だけでは意味がないし、形にするためには投資が必要なのだ。そして重力特異点だけで一兆ドルの投資が必要になるなら、他の分野も合わせれば世界経済の少なくない割合が彼女のために使われるだろう。しかしそれは市場を作るためのものであって、彼女の知識に対する対価とはまた違うのだ。
それはそれとして俺達は彼女に対して数億ドルぽっちの富も与えようとはしていない。むしろ隔離空間に閉じ込め、五百円のアイスクリームで機嫌を取ろうとしている。これでも高いやつを買っているんですよ。インフレのせいで普通のアイスが三百円とかするのだ。
「私は妥協を知っている。無茶を行うための対価も理解しているつもりでいる。それはそれとして不満を持つ」
「……待遇改善とかの希望は、あるか?」
「ない」
「……愚痴を聞くのは、俺の得意なことじゃないんだけれどもな」
傾聴のための技能というのは結構特殊なのだ。それ専用に調整した人工知能かカウンセラーにでも頼みなさいと言いたくなる。特に人工知能は適切にクローズドな環境を作れば守秘義務とかを考えなくてもいいのは助かる。人間は常に信頼できないものとして扱えというソフトウェア工学の基本原則が染み付いているので、専門家倫理なんてものに依存している業界を俺はそれなりに恐れているのだ。つまり人類社会を恐れている。