超越少女は路を示すが旅をするのは俺達だ   作:小沼高希

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ブートストラップ・プロブレム 3

「これに署名をして貰う必要がある」

 

そう言って、俺は紙を見せる。同じものがアクリル板越しの彼女にも渡されている。

 

「……読み方は『ちりょうどういしょ』で良い?」

 

「良い」

 

「……これに何の意味が?」

 

「いや、俺達は一応このあたりの倫理に縛られてて、この種の許可がない状態で治療をすると緊急避難でもない限りは色々と……」

 

「そうではなくて。もちろん私がこの問題について知ることは私にとって有意義だし、利益の相互提供は信頼の構築と、それを壊した時の対価を大きくする効果があって、合理的なのは理解できる」

 

「そうだね」

 

インフォームド・コンセントの話なのだが、どうやら彼女は微妙に俺達の一般常識とことなる理解をしている。彼女にとって信頼というのは繰り返し囚人のジレンマゲームにおけるしっぺ返し戦略なのだろう。

 

自分は裏切りませんよ、と主張し続けること。それは偽善なのかもしれないが、結果として協調が生まれるならそれは彼女にとって妥当なのだろう。しかし彼女が所属していた共同体においてそういった認識が生まれるものなのだろうか。ああいう場所だと個人と集団の利益がよくわかんなくなるんじゃないだろうか。そもそも彼女がその種の利益を俺達と同じように認識しているのかは不明だが。

 

「ところで、署名は名前を書くこと?」

 

「はい」

 

「どう書けばいい?」

 

「……あー、どうするのがいいかな?」

 

俺が指輪を触りながら言うと、画面に偽名の候補がいくつか出てきた。Quarante Deux(キャラント・ドゥ)は綴を調整すれば普通に格好いいな。

 

「普通に数字で署名をするのは一般的ではない?」

 

「その個人が同意したって証明が欲しいわけだから」

 

「……合意を重視するのは、なぜ?」

 

「俺達は自分で自分の行動を支配できると考えるほど傲慢だから」

 

彼女にとっては、おそらくこう答えるのが正解なのだろう。彼女にとって、協調と裏切りは同じように選択肢に過ぎない。顔を知っている相手であれば長期的なゲームをすることになるから協調を選ぼう、というのが基本的な判断になるかもしれない。

 

だが、俺達はそうはできなかった。都市と軍隊のためには、多くの人口が必要とされる。そうなれば知らない人同士が問題を起こし、それを更に第三者が解決しなければならないという状況がやってくる。

 

そのために、法ができた。罰のために刑法が、取引のために民法が。そして法に影響力を保たせるために訴訟法が、法の暴走を止めるために憲法がある。もちろんこれらは邦や地域によってあり方はどうしても変わってくるのだが。

 

「……方向性は理解した、と思う。まだあなたたちの単語の理解が不十分だから、こちらでは言語化できないけれど」

 

そう言って、彼女はしばらく彼女の言葉で話す。わからない単語が三分の一ぐらい。

 

BIFRONSはそこから推測を重ねていく。もちろん、そこに入る可能性のある単語は無数にある。けれども、同じ単語が二回出てきた時、そこに共通して当てはまるだろうものは少ない。数独みたいなやつと言えばいいだろうか。普通の人間がやるとなると一度に処理できる情報量の制約があるが、スケールが効く人工知能はこのあたりが強い。

 

「それで、これに署名をしてもらうと我々はあなたに感染症の予防措置ができる」

 

感染症については既に説明済みだ。彼女は微生物について知っていたし、場合によってはそれが起こす影響を理解していた。さらに、感染症の理論についても理解していた。免疫反応もそうだ。

 

だが、彼女がいた場所ではそういった問題はほとんどなかったらしい。閉じて整備された環境だったからそもそも病原体の発生源となるのがヒトだけだ、というのもあるのだろう。それに集団が小さければキャリアがまた感染を拡大させることもできないだろうから、感染症が新しく生まれることも少ないのだろう。

 

「……こういう時に、私はそれを許可する、と言えばいいの?」

 

「受諾、かな。確かに許可ではあるんだけれど、受け入れられることを前提にしているところがあって」

 

「……大規模集団によって生まれる文化的慣習、と切り分けるには複雑そう」

 

彼女の言葉に俺は頷いた。もちろん多くの人がこういったことを詳しく考えず、なんとなくで生きている。それは社会がうまく作られている証だ。全てを気にして生きていくには人生は短すぎるし、人間は愚か過ぎる。

 

「互いに自分の世界のことを語るのに便利なのは自分の言葉だし、そこで翻訳を挟むとどうしても消えるものがあるんだよな」

 

「互いの前提としている慣習、とか?」

 

「そうそう。たぶんあなたは大勢の人が一つの場所に集まっているのを見たことが少ないだろうし、俺は百人ぐらいの集団で生活しているっていうのが想像できないんだよ」

 

確かに普段生きている中で、一日に会う人はそこまで多くはない。けれども例えばコンビニで何かを食べる時、そこには巨大なサプライチェーンが存在していて、巨大な資本と産業が二百円のおにぎりを支えてくれている。

 

「想像には限度がある。あらゆる可能性を考慮することは不可能」

 

「組合せ爆発が起こるからな」

 

俺の説明に四十二さんは頷く。例えばコインを投げることを考えればいい。百回コインを投げた結果を全て想像するためにはどのぐらいになるんだろうな。

 

「二の百乗個のシナプスってどのぐらいの体積になる?」

 

指輪に触れて言うと、一辺がキロメートルオーダーの立体であることが瞬時に計算される。こんな無駄なもののために世界のエネルギーが消費されていると思うと嫌なものだ。

 

「シナプスって何?」

 

「ええと、脳神経の接合部。このあたりはあまり詳しい用語まではやっていなかったんだよな」

 

「カタカナの意味をつかみにくいから、得られる知識と時間の効率が良くないと判断した」

 

「俺はもう数日前のことなんて忘れかけているよ」

 

こういった会話をして、そろそろ一週間が経過しようとしている。別に今期は履修している授業があるわけでもなし、俺を送り出した宮部先生も言語学者だからフィールドワークが長引くことは考えているだろう。ただ、今後こういった話し合いを続けるとなるともっとちゃんとした環境を整備したくはある。

 

まずはこのアクリル板を外したいな。これがあるせいで二人が同じように覗き込む事ができるディスプレイを置けないのだ。

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