俺達の職場を見たいと言ってきた水城さんであったが、例の地下室に行かせることはできないのでこちらから向かうことにした。五反田駅から徒歩十分、逓信試験所のあった土地にある国立情報通信総合研究所は電波とか放送とか情報とか通信とか、なんかそういうものをいっぱいやっている。
「というわけでこれをしっかりとつけておくように、あとカメラについてもシール貼っておいてね」
水城さんは色々なものを渡しながら言う。手慣れているな。こういう見学とかを積極的に担当していたりするんだろうか。
「……これにもつけておいたほうがいいか?」
そう言って俺は鞄から取り出したスマートグラスを見せる。
「うん、まあこんなものどこまで意味があるかわからないけどさ」
「意味はあると思う」
四辻さんが呟くように言う。
「どのあたりに?」
「警戒しているという姿勢の表明」
「……あー、私はかなり高度な敵を前提として想定したけれどもそうか、土台なしに上澄みだけやってくるということは少ないのか」
「セキュリティの基礎なんだが忘れがちになるんだよな、もちろん警戒しすぎることにも効果の逓減はあるが」
「君たちなら私の研究室に入る時にどうする?」
シールをちまちまとスマートフォンとかのカメラに貼っている俺達に水城さんが聞いてくる。この種のシールは剥がすと痕が残るようになっていたりするのだ。まあこのシール自体に番号がついているわけではないので同じシールを用意して途中で張り替えたりすればいいのだけれど。
「刃物」
「大切な人」
俺と四辻さんが言う。おい四辻さんのほうがまずくないか?あと刃物であれば今日も持ってきている。ペンケースの中のカッターナイフでも人を殺すことは多分できるのだ。
「そうだね。いい選択だと思う。……まあ、私があの人と自分のどっちを優先するかはその時になってみないとわからないけどな……でも一緒に生きるために世界を壊すのって憧れない?」
「わかる」
俺は言う。
「理解可能な範囲にあるが私はそのような行動を選びたくない」
四辻さんはこれをわかりたくないようだ。なんだよ浪漫だろ。俺は別にそういう人はいないけどさ。四辻さんと一緒に世界を壊して逃げるほど、俺は世界を嫌っちゃいないのだ。実質的に似たようなことしているだろと言われたら特に反論の余地はないが。
「まあいいか、ではひとまずご案内」
そう言って水城さんはどこかから「案内」と書かれた腕章とロゴマークのついた旗を持ち出していた。なんだよその準備の良さは。
「えーこちらが現在の太陽活動情報。太陽活動はやや活発、地磁気活動は静穏。本日はデリンジャー現象は見られず、短波伝播は概して静穏でしょう」
よく通る声で歩きながら彼女は言う。カフェテリア併設の吹き抜けにある大画面には複数のスペクトルで観測された太陽。
「質問です水城さん」
「なんでしょうか四辻さん」
「私たちは見学ツアーに来たのでしょうか?」
「共同研究を行う相手の背景を知っておくのは重要だと思うよ、次は通信技術史コーナーに参ります」
というわけで俺達は普通に楽しく見学である。これいいのだろうか、一応仕事扱いで給料も交通費もでているはずなのだが。
「そうか量子通信は歴史なのか……」
俺は光ファイバーを見ながら言う。この中に光子を走らせてそれで鍵を交換し、その鍵を使ってその後の通信を行うというシステムだ。全部の通信を量子通信でやれば理論上は解読不能になるのかもしれないが、コストが掛かりすぎる。
「実用化されてからもう長いからね、量子中継もそれなりに動かせるから量子通信でインターネット自体はできているわけだし」
水城さんの説明はわかりやすい。もちろん俺達がある程度の知識を持っていて聞く姿勢があるからというのもあるだろう。普通の見学者はハミルトニアンをさらっと会話の中で出されても理解できないとは思う。
「……ま、うちも国立機関とはいえ追加で金をもぎ取れるならそれに越したことはないというわけよ」
そう言いながら水城さんはポスターの下の方にある科研金の番号に指を当てる。
「だから
「君はかなりそこの中心の立場にいるらしいと読んで賭けた。まあ失敗しても普通に面白い研究ができるからね」
「一目で業界の様子を見切って手を打ってくるようなやつはそうそう失敗しないんだよな」
俺は息を吐く。俺を直接的に知っていて、最近投稿したオープンソースの色々なシステムとかを見ていれば、こっち方面に興味があることはわかるはずだ。とはいえ俺自身の自力というわけではない。BIFRONSなしには俺は博士号も怪しいし、そもそも今の立場は四辻さんに強く依存しているものだ。
「……私は、君と同じようなものだよ」
「人工知能にはどれぐらい頼っている?」
「まだそこが埋めていない隙間をかろうじて逃げているだけだよ、あと十年もすれば追いつかれるから手段を変えないといけない」
「……なら、俺とは違うだろ」
俺は逃げなかった。逃げるだけの力がなかった。あるいは最初から逃げようと思っていなかった。過去の意思は結果の前では言い訳に過ぎない。結局俺がやったのは巨人たちの屍を食い散らかして生まれた怪物の操り人形だ。肩の上で立つような敬意を払ってはいない。BIFRONSが学習のために使ったデータを作った人々に、相応の対価が払われたとは言わないだろう。
歴史的に見れば労働の正当な報酬がもらえないなんてことは当然の話だ。俺は社会主義と共産主義の違いすらわかっていない。確か社会主義が現実にあった悲劇で、共産主義は地平線の先にあるディストピアだよな。
俺はたぶん資本主義というかなり酷い方の社会システムに頼り切って生きている。それを否定する訳では無いが、胸を張れるとは言い難い。
「いいや、四辻さんに比べれば私も君と同じ凡人だよ」
「……そんな四辻さんってすごいか?」
「おそらくは。まあ実際に測定したわけじゃないから勘に過ぎないけどね」
俺と水城さんが話をしている裏で四辻さんは壁一面の年表を歩くぐらいの速さで読んでいた。ちゃんと処理しきれているか気になる速度だが、別に必ずしも覚えておく必要があるわけではないしキーワードの雰囲気だけ把握しておけばいいんだろうな。古典的な検索拡張生成と同じノリだ。