超越少女は路を示すが旅をするのは俺達だ   作:小沼高希

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ブートストラップ・プロブレム 5

少し顔が赤くなっている彼女が、腕に点滴の管をつけたまま俺の向かいに座る。

 

「対話に支障が出る発熱であれば、休んだほうがいいのでは?」

 

「身体を動かなければ大きな問題はない。それに、これは正常な免疫反応」

 

「そっちの医学にあまり感染症とか炎症の話はないので、こっちの内容を信じてくれてもいいのですがね」

 

「脳内の免疫に対しての知識がないあなたがたを信用するのは困難」

 

「そう言われればそのとおりとしか言いようがない」

 

俺は息を吐く。ひとまず、彼女の頭の中に埋め込まれているものについての調査がゆっくりではあるが進みつつある。そしてわかってきたことは、それが相当複雑そうだということだ。

 

まず一つ、彼女はそれを作成する専門家ではない。そして彼女の本業は、ブレイン・マシン・インターフェースの製造ではなかった。「構造体」の低位レイヤーとでも呼ぶべきものがそれを担当していたらしい。どうやら指示あるいは意思決定が階層構造になっていて、彼女を含む人間たちはその一番下だったようだ。ディストピアか何かかと思っているが、まだ詳しいことはわかっていない。そもそも社会や人間に対する価値観自体が大きく違っているのだ。結論を急ぐ必要もないだろう。

 

「そもそもそちら側で分子設計が下手なのが悪い」

 

「合成と研究の自動化とか、第一原理計算とかあるらしいけど、それでも下手という水準?」

 

「無駄が多い。……これは批判でなく、意見、でいい?」

 

「そのあたりをどうやって伝えるべきかは人によって変わるから、適切な仲介者を挟んだほうがいいと思う。俺でも悪くないが……前に後ろにいた人がそのあたり得意そうだから任せよう」

 

「分担?」

 

「そういうこと。そっちではあまりしないんだったか」

 

「分担が効率的なのは理解されているけれども、効率を求めるなら私たちは不要だから」

 

こういうことを彼女は平然と言ってくるのである。嫌な感じがし始めているし、その旨を須藤さんには伝えているが特に反応はない。

 

「緊急時のシステムを単純に効率で評価するのは無駄が多いからな。経済では保険と言うシステムで、期待値的には損でも低確率で起こる大規模な問題に対応するための方法がある」

 

本当はこの手の知識もある程度体系化して伝えたいのだが、そもそもそれが難しいという問題もある。例えば経済学の入門教科書を手に取ったとき、経済学とはなにかの定義から始まることは間違いない。そこでは一般的に経済と呼ばれているものの例示であったり、人類がいかにして経済を発展させていったかということが語られる。

 

では、それを今まで経済というものを見たことがない人が読んだらどうなるだろうか?あらゆる単語がわけがわからないだろう。食べ物を買う時に行くという店の概念がわからないかもしれない。そもそも買うという考え方が不明かもしれない。たとえ食べ物を知っていたとしても、それを自分たち以外が作るような分業制度があって、その流通の途中に入る販売者という概念があって、それを支える通貨を支払えば欲しいものが手に入るという信頼の蓄積がないなら、店というのは配給所のことかと考えるかもしれない。

 

そのような雑な理解から入ってしまえば、相互の知的体系の理解は困難だ。もちろん、そうではない分野もある。数学などは幸いにも相互に理解できる概念が多かった。ただ、それらはあくまで土台の部分である。

 

今のところ解読が止まっているのは彼女が提示してきた数学基盤だ。ある種の微分方程式を群論的に取り扱うというものらしい。彼女がこれが土台になると考えているということは、おそらく化学にとっての周期表であったり、あるいは物理学のニュートン力学の方程式とかと同じ水準の基礎的な話なのだろう。

 

そして不幸にも、人類はまだそのあたりをうまく体系化できていない。ラングランズ予想を別の形で解釈したものではないかとBIFRONSは言っているが、こいつは専門外の情報については時折変なことを言うのであまり信頼してはいけない。物理学者が人工知能について話したり、脳科学者が言語について話したりするとき、基本的な原理はわかっているし最新の論文も文字の上では読んでいるのかもしれないが俺でもわかるような誤解をしているのを見ると、このあたりの信頼はなくなっていく。

 

「……あなたたちに色々なものが不足している、と言うべき?」

 

「そうだな。こちらが知っていて、あなたが知らないものがある。おそらくその逆も。正確にその量を計測するとなると定義が面倒になるが、おそらくそちらが知っていることのほうが多いだろう」

 

俺がそう言うと、彼女は首を振った。

 

「違う。私は知ってはいない。……そちら側の用語選択に齟齬があると問題なので、私の言葉で言わせてもらうけれど」

 

そう言って彼女は彼女の言葉で話す。言語学をやっている人間としては、こういう翻訳を本当なら人間の頭でやるべきなのだという意見には強く同意する。

 

サピア=ウォーフ理論はある意味では実証されている。人工知能の学習の過程で使う言語によって、その学習データに無いはずのある種の民族的偏りに相当するものが生まれているというのはある程度知られた話だ。もちろん特定の言語では特定の分野の語彙が少ない分詳しい説明が必要になって、そういう部分を学習した結果起きている問題だという意見もあるが、それこそがサピア=ウォーフ理論で実証したい理論なのであまり反論になっていない。

 

そうでなくとも、ネイティヴのように考えるためにはある程度のコロケーション、言葉がすぐに出てくるような繋がりが必要になってくるのだ。だから相手の言葉を学ぶべき、というのはわかる。

 

だが、今の状態でそれをやるとボトルネックになるのが間違いなく俺だ。別に俺は言語を覚えるのが得意というわけでもないし、BIFRONSや協力的なインフォーマントがあっても流暢といえる水準に達するまでの時間はかなりかかるはずだ。それで理解できるものは大きいだろうが、その時間で得られたはずのものに比べれば果たしていかほどだろうか、ということは考えてしまう。

 

ひとまず翻訳として解説付きで出てきた文を見ると、彼女は評価が価値判断に繋がる可能性について考えているようだ。確かにちらりと話した気がするが、そういうところに気を使わない人間をそれなりに見ているので眼の前の存在がある意味で怖くなってきてしまっていた。

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