ルイさんが日本から消えて、それはそれとして世界各地を飛び回っているらしい。須藤さんとはまた別のネットワークがどうやらあるようで、そのあたりの繋がりが調査に手を貸しているようだ。
当然ながら、超大国であるアメリカ合衆国は敵が多い。我が国でさえ防衛分野の方針は日米協調だと言っているが、経済とかの分野では普通に対立しているし、二十一世紀に入ってから外交的に険悪な関係になったことも一度や二度ではない。とはいえ市民というのは結構簡単にその場の雰囲気というものを忘れてしまうのだ。
台湾海峡危機が勃発すれば日台韓の友好が唱えられ、中国の体制が変わればアメリカよりもこっちについたほうがやっぱりいいんじゃないかとなり、果てには東アジア一帯を一つの文化・経済圏として扱ってしまおうぜみたいな話まである。残念ながらそれは第二次世界大戦の時にプロパガンダとして唱えられたはいいものの実現しなかったやつなんですよ。
「とはいえ俺達のやっていることはその裏の裏の調整だからなぁ」
俺はバグ報告のリストを読みながら言う。自動化エージェントが動きやすいように色々と整備しておいたのでこうやってやってくるものは人工知能にとってかなり読みやすい形になっているのだ。今の普通のエージェントでも適切に設計すれば人間よりかなり賢く振る舞いますからね。
「こういうところに人間が介在しなくていいようになりたいね」
四辻さんが言う。彼女は社会方面に興味を持ったようで、今はフリーランスの監査人みたいなことを趣味でやっている。趣味で各種の財政とか会計の指標を分析して公開情報ベースに問題を突き止めるなよ。彼女にとってはこの種の社会のバグ取りは気持ちがいいらしい。もちろんこの種の感情が暴走するのは時間の問題なので、やりすぎないようにはBIFRONSに言ってある。どこまでうまくいくかはわからない。
「まだどうしても壁があるんだよ。責任とか人間社会との交流とかではなく、純粋に原理的な場所で」
人工知能は人間の知性を完全に代替するわけではない。例えば計算機は人間より早く各種の演算ができるが、別の指標で測った場合には知性があるとは言えないだろう。もちろん現代の人工知能がやっていることは結局足し算と掛け算に帰着させることができるのだが、それは別に実装の問題であって本質ではないとかいう議論があったな。
「私がいたところでは物理的なものしか問題になっていなかった」
「計算資源で殴ってたんだろ、俺達はデータセンター一つ作るのに四苦八苦だ」
電力と冷却を考えると、データセンターというのは結構環境に影響を与えてしまう。原子力発電所と繋いで海の熱で冷ますみたいな研究も進んでいるが、実は海というのは非常に腐食性の高い液体で満たされているのだ。このあたりのゲームバランスの調整はうまくできているのか無駄に手間を増やしているのかはわからない。
「……私ができる一番の貢献をしなくていいというのは、不思議な気分」
「それをやらないことに対して引け目みたいなのはないのか?」
「むしろ爽快感がある」
「おお、悪の道に突き進んでいらっしゃる」
何らかの義務感を感じるものをしない、というのはなかなか悪くないものだ。明日試験なのに徹夜してやるプログラミングとか、平日が休みになった時に落ち着いて行う二度寝とか。もちろん義務感に縛られすぎることも珍しくはないが。
「ただ、明確かつ直接的に他者に危害を与えるつもりにはならない。おそらく不確実性に対する報酬系が働いているんだと思う」
「ギャンブル狂いか……」
最適解を選べば終わるゲームで、最適解を選ばないこと。将棋とかチェスの早指しにも似たものだろう。四辻さんはそこで後悔をしないことを選べるから、得られるものを最大限感じられるとかがあるのかもしれない。
羨ましい。非常に羨ましい。料理で丁寧に下ごしらえをして臭みのない素材を使うようなことを、四辻さんはやっている。俺がやるなら前日にしっかり運動して汗を流してしっかり寝て、そして翌日に余計なことを考えずにやらないと得られないような心理的状況を、彼女は深呼吸一つで手に入れられる。
ただ、四辻さんがやっていることは別に悪くはない。最適解を選べば彼女は世界に貢献できるが、正直言って彼女にそこまでする義理はないのだ。このあたりで能力と義務についての話をすると非常に面倒くさくなるのでやめましょう。嫌でしょ
俺はこのあたりで哲学をもとに行動するべきじゃない、とかなり強く思っている。それは思想であり、社会規範を提示する試みにすぎず、絶対の真実ではない。お気に入りの哲学概念があればそれに従えばいいと思うが、そうでないなら何も考えないのが楽だ。
「間接的には、私は他者に危害が及ぶかなり高い可能性を個人的な娯楽として受け取っている」
「俺だって手持ちの金を自炊に回してどこかに寄付すれば誰かの幸福とか安全になるけど、そこまでする義理はないと思っている」
「どこに線を引くか、の問題?」
「あるいは自分が楽しんでいることを認めてきちんと楽しまないのはその資源を使えたら救えたかもしれない人にとって不誠実、みたいなものかもな」
俺がなにかしなければ救えない人なんてもともと危ない場所にいるのだし、俺がなにかしたら救える程度の人は他の人でも救えるだろう。そりゃ四辻さんぐらいの案件の場合には俺に匹敵する事ができる人はそうそういないと思うが、それでも例えば水城さんとかならなんだかんだ俺以上にうまく行った可能性はある。
そこまで考えてちょっと嫌な気分になった。俺がここまで結構苦労して築いてきた四辻さんへの理解とか関係とかをもっと短時間でこなしてしまうだろう人を考えるのは面倒な気分になる。俺の一生はそれなりに短くて、四辻さんに払った投資は無視できないものだ。もっと効率の良いやり方があったんだと言われたら文句も返したくなる。
「ま、考えても無駄だ!仕事に集中するのがいいね」
そう言って俺はキーボードを叩きディスプレイを睨む。そのぐらい自分で実装しろよと言いたくなった案件についてちゃんとアルゴリズムの提案と実装例がついてきてくれたのでやはり人工知能というのは素晴らしい、と笑顔になった。