超越少女は路を示すが旅をするのは俺達だ   作:小沼高希

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ブートストラップ・プロブレム 8

俺は今、四十二さんの言語を学んでいる。ほとんどサングラスの裏の原稿を読んでいるようなものだが、それでも最低限の意味は理解できる。物理学の難解な論文でも、音読はできるのと同じだ。

 

『つまりその過剰集中が広域連鎖して対応反応が形成されるのですか?』

 

『そう。だからあなたがたの粒子加速は原則として効率の低下を招いている』

 

言っていることは半分は意味不明だ。単語の羅列であり、つけられた解説も理解できる領域にはない。基本的な構文には、それらしい単語を入れても機能してしまうようなものだ。俺にとって自分が彼女の言語で話している内容は「色なき緑の思念が猛烈に眠る(Colorless green ideas sleep furiously)」と同じぐらいにナンセンスだ。

 

だが、それでもおぼろげながら彼女の言おうとしていることはおかしいことが理解できる。おかしいというか、常識を超えているというか。

 

『……で、やっと最後の結論なわけか』

 

『曲面構造に空孔を作る貫通手術をさせればいいことがこれで示される』

 

『そうすれば、対応の閉塞を維持して撞着結果を発生させられると?』

 

『そう。言葉の上での理解はそれで十分』

 

それを聞いて俺は頷き、一旦サングラスを外して目を揉む。俺は一体何を聞かされたんだ?

 

『健康状態が不安定ですか?』

 

「いや、ちょっと日本語で考え直す。……つまり俺は、タイムマシンの作り方を聞かされたのか?」

 

「……できれば熟語で話してほしい。カタカナ語の語彙は不足している」

 

「直訳なら時間機械。未来から過去に移動するための、仮想的な装置だ」

 

「移動と言うには不正確だけど、言いたいことはわかる。そしてそれがあなたがたの直感に反しているのも深く理解している」

 

「……生物は基本的に因果律に縛られた物理法則のもとで発展してきたからな」

 

一度起こったことは止められないが、同じようなことが繰り返し起こる可能性は高い。だから俺達は記憶を持つし、記憶は世界を圧縮するような形で保存される。だから、彼女の言おうとしていることを人間の脳がなかなか理解できないのは仕方のないことかもしれない。

 

「なあ、BIFRONS。これってどれぐらい、人類の持っている物理学と整合性があるんだ?」

 

── 表面上の矛盾はありませんが、定式化の欠如により実証も困難です。いくつかの前提条件は未だに確認されていない高エネルギー物理学分野の現象を含んでいます。

 

BIFRONSがすぐにそう答えてくれるということは、もっと詳しい解析がこの中で進んでいるのだろう。そして彼女は、タイムマシンが作れるという事実をさらりと伝えてきやがった。彼女の表情は「冷蔵庫にプリンを買ってきたよ」と言っているほうがまだ納得できるというものだ。

 

いや、確かにタイムマシンが物理学的に否定されているものではないという基礎知識ぐらいはある。その手の話は理科好きの高校生がインターネットのあまり信頼できない記事とかを読み耽る中で身につけるものだ。

 

「BIFRONS、彼女に今の物理学におけるええと……なんか閉じた時間ループみたいなやつの説明を示して」

 

そう言うと時間的閉曲線についての物理モデルが出てくる。俺は理解できないし、本当に正しいのかもわからないが、それでも記号自体は知っているものだ。積分と、分数と、平方根と、指数。

 

スライドが切り替わる。複数の記号の定義。その次はさっきの記号と太字と添字とが複雑に増えてきたもの。そして何枚か後には、どこか違和感のあるものに変わっていた。理論物理学の教科書とかにあるような、高校でやった数学ではない、また別のなにか。人工知能の基盤の情報理論でもこの種の表現のための記法は使われるが、それとはどこか違う気がするんだよな。そこまで物理学の方に詳しいわけではないから印象論だが。

 

「……理解には時間がかかる」

 

四十二さんは呟いた。だが、あらまし程度は理解しているのだろう。

 

「そっちだと表記がないんだったよな」

 

「紙の上で手を動かして計算することがないから、あくまで変数の操作として構造を捉えている」

 

「残念ながら人類の脳をその水準まで持っていくのは辛そうなんだよな……」

 

「構造体の思考様式は、目的の思考のために最適化されている。だから、人間向きではないのは仕方がない」

 

俺は頷く。バイナリファイルのようなものだろう。多くのデータを圧縮して高速で処理できるようにするなら、わざわざ人間が読めるような非効率的な形にするメリットは薄い。なら最初から処理しやすい0と1で表記してしまえばいいのだ。

 

俺が使っているノートパソコンの中でも似たような作業はされている。複数の処理モデルを脳の葉のように組み合わせて、それぞれの間をバイナリトークンで接続するのだ。後頭葉で視覚情報を処理し、側頭葉で記憶と照らし合わせ、前頭葉で判断するように、複数のシステムが連動してBIFRONSを一つの塊として動かしている。その間でやり取りされる情報は、事実上解読不能だ。

 

「……物理学の翻訳も、必要そうか」

 

「興味のある問題がある」

 

彼女が言う。珍しい。こういうところで意思表明をしてくるとは。

 

「どういう提案?」

 

「少しある分野を重点的に調べたい。期間は三日程度。分野は数学、物理学、材料工学、経済学を中心に」

 

「……まあ、須藤さんがとやかく言うことはないだろうがな。ただでさえあれを具体的に形にするっていうので辛いらしい」

 

少なくとも、四十二さんは自分の価値を示した。その報酬として病室から出るぐらいのことはできるだろう。もちろん彼女はそれを自ら望むことはないが、拒むこともないだろう。そのあたりの意思みたいなものは、対面して話しているとわかるが妙に希薄なのだ。

 

まだ俺と四十二さんの間にはそういった問題を詳しく話せるほどの関係が築けていない、というのはあくまで俺の感想だがそう大きく外れてはいないはずだ。問題は準備ができていないのは俺の方だってことだが。

 

「彼には苦労をかけることになるけれども、それが彼の仕事だし、私の存在と知識は彼の仕事の助けになっているよね?」

 

「その発言はかなり危ないな、警察が殺人犯に感謝すべきみたいな感じになるぞ」

 

そう言った俺の答えがわからなかったらしく、彼女はその後しばらくBIFRONSに単語の意味を色々と確認していた。

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