ブラインド・デコンボリューション 1
「白髪、だな」
たまたま鏡を見た時に、黒い髪に交じる白い線。このままいくと四十になる前にいい感じの灰色のになるのではないか。それはそれで悪くないな。
身だしなみの整理が多少上手になった、というのは成長と言っていいだろう。人間の顔を人間としてみなせないのは相変わらずであるが、それでもBIFRONSの訓練のおかげでかなり特徴点を覚えられるようになってきた。対人関係を考えると、人間がどこを認識するかをピンポイントで狙えるのは悪くない。
今日は帰ってきた水城さんの歓迎会である。短期と言いながら延長に延長を繰り返され、色々と酷い目にあったらしい。
マンションの部屋を出て、廊下を進み、隣の部屋の扉を叩く。
「あと三十七秒余裕があった」
出てきた四辻さんがつま先で床を叩いて靴を履きながら言う。
「あくまでリマインダーだ」
俺は返す。
「そう」
四辻さんはそれだけ言ってエレベーターの方に歩いていった。
このマンションは警備とかがかなりしっかりしている方だ。要人が住んでいるというか、赤城に来ることになった要人が住んでもいいように設計されていると言うか。
俺達が一昨年に引き払ったC4棟の地下は、今でもセーフハウスとして管理されているし、先工研関連の仕事をするときにはあの部屋を使っている。ただセキュリティについては普段は少し緩めてある。一見するとただの研究室になるような偽装もちゃんとしてある。普通の研究室にシャワーと仮眠室と給湯室がついていることは決して珍しくはないです。
そういうわけで俺達が向かったのは東京近くの個室居酒屋。比較的話をしてもいい場所とされているのがありがたい。ちなみに選んだのは水城さんの方です。
高級、というものなのだろう。普段俺達が食事をしている場所に比べれば一桁値段が上になる。少し前に強めのインフレがあって物価系の問題が色々と言われたが、それもしばらくすれば落ち着いた。
「すまないな、待たせて」
俺は先に個室で待っていた水城さんに言う。
「いいのいいの。本っ当に対面では久しぶり。オンラインでは結構話してたけど現実はいいね」
そう言って水城さんは両手を広げて、一拍遅れて俺を不思議そうな目で見て、それから腕を下ろした。
「……ここは日本です」
四辻さんが言う。ああ、なるほど向こうの文化前提だったか。さっぱり意味がわからなかった。
「あー、忘れて?」
「何をですか?」
四辻さんは素の声色で言う。そういえばここ最近ブレイン・マシン・インターフェイスの医療レベルでの実用研究が進んでいるが、記憶を消すのはかなり難しいし実験もできないとされている。でも四辻さんのブレイン・マシン・インターフェイスはそれができるらしいんだよな。
脳の可塑性維持を考えるとあまり変なパターンに慣れすぎるのもよくないらしい。だからそれを消すような、あるいは学習を無力化するような概念を流して慣れを消す。似たようなことは俺も人間性を捨てる時にやった。色々な感覚とか人間なら持っているだろうものを一旦切り離して、それを再構築するのだ。
「なんでもないよ」
水城さんはそう言って、タッチパネルの端末を操作して注文をしていた。俺達も頼んでいく。まあ今回は俺達の奢りになるのだが、ここでケチケチするような給料をもらっているわけではない。
「日本での職は、大丈夫なのですか?」
四辻さんがビールを飲んで言う。そういえば四辻さんはお酒を嗜むようになったのだよな。アラサーと言っていい年齢のお姉さんなのでそうか。別に今どきお酒を飲める飲めないがなにかに影響することはあまりないが、それでもまずは生という伝統文化は存在する。
「逓信試験所のほうが私を送り出しているっていう実績でそれなりに色々やったらしいからね、そのあたりは問題なくて戻ったら出世だよ、職位上がって給料も良くなるし各種決済もしやすくなる、それに部下なしだ」
「そいつはいい、水城さんの下についた人間は苦労することになる」
「言われたよ、マネジメント研修を向こうで受けたけれども人工知能と人間を同じように扱うなと言われた」
「人間には優しくしてくださいね」
四辻さんの言葉を聞くと不思議な気分になる。別に俺や四辻さんが人間じゃないと言いたいわけではないのだが、ここしばらくの流行的にそのあたりがかなり不思議になってきたので色々と思うところはある。
「……ちょっと最近というか昔の話題でもしようか、技術的特異点の話を昔したのを、覚えているか?」
「タルト・フランペは美味しかったです」
ああ、あのちょっとサワークリームの風味が強かった。そういうことしか覚えていないので関連情報を頭の中から引き出すためには少し時間がかかった。
「あれが初対面か、ええと……十年近く前?」
「たぶん計算が間違っているな、そんな経っているわけないだろ」
「そうだよなもしそうなら私も四十手前になっているはずだ」
そう言って二人で笑って、ため息を吐く。四辻さんはいいよなまだ若いから、と思ったが彼女もなんていうか、いい歳なのではある。ライフプランの流行の変化とか考えれば年齢がどうとか言うのはあまりよろしいものではないが。
「……シンギュラリティは、技術的特異点は、来たと思うか?」
「以前はもう来ている、というのが水城さんの意見だったな」
俺は言う。水城さんが頷く。
「今の私は、それは今起こっていることだと思います」
「俺も同感だ、あれ以前に比べれば、人類はまだ特異点に達していなかった」
「完全に同意するわけではないし、微妙な切り分けもあるだろうが、私もそう思うよ」
水城さんが言った。まあ、このあたりの前提は全員が共有しているだろう。もちろん多くの人は、今までのように生きている。仕事だったら上司に言われた仕事をやるし、パソコンの前で色々なツールを使ったり、あるいは工具を持って作業をしたり。製造業系とかは特に、そこまで効率が急激に上昇したわけじゃない。人工知能がコンサルティングをやったとしても、質量保存の法則を打ち破ることはできないのだ。
ただ、そうではない頭脳労働はかなり変化した。流動性が高い業界ではいわゆるホワイトカラーがかなり死んでいる。タイピストが業界から消えるまでに二十年かかったが、それに匹敵するものが二年で起きた。もちろん今なおFAXを使っている仕事もあるけどね。
このあたりは俺の中でモデルがそれなりにあるが、他人とはあまり共有していない。そのあたりをアルコールの力を借りてすり合わせていく、というのが今回の飲み会の目標の一つではある。