ノイラーツ・シップ 1
須藤さんは俺が作った書類に目を通して、天井を仰いだ。
「……想像を超えている」
「お疲れ様です」
俺は自販機で買っていた缶コーヒーを飲みながら言う。須藤さんの分も買ってあるが、彼は手を付けていない。
ちょっとした作戦会議に何回か使われている先端工業科技研究所の本部第一棟事務室は、色々と準備が進められているようだった。まだ画面にフィルムが貼られたディスプレイが何台かあるところを見るに、ここを一種の拠点とする予定なのはわかる。ただ、まだ雑に持ち運ばれた机を挟んで安めの事務椅子に座って俺達は会話をしていた。
「既にブレイン・マシン・インターフェース関連の準備で動いている。これ以上追加で明確に動けばわかりやすすぎる」
「日本政府が気が狂って一発逆転を狙ってやばい科学に手を出すとかいうカバーストーリーでも用意しますか?」
「……案外悪くはないんだが、それをやったほうが問題が多そうだな」
「問題が多いのは今更ですが」
俺が広げて見せる紙に印刷されているのは、四十二さんから聞き取った向こう側の技術のうち、比較的達成できる範囲にあるものだ。つまり、一兆ドルで重力特異点を制御するためのロードマップである。
「……この途中だけで、世界を何回か変えるぐらいのものが含まれているよな」
「我々が作り方すら想像できなかった超伝導体とかありますからね、トップジャーナルの表紙を一年間ずっと独占したり、ノーベル賞を史上初の三つ獲得するぐらいならなんとかなると思いますよ」
「……ノーベル賞はな、取られると迷惑なんだよ」
「基礎研究に投資しろって言われるからですか?」
俺が尋ねると、須藤さんは小さく苦しそうな笑い声とともに頷いた。やっぱりあれは効いているんだな。ポジショントークとして今後も継続していこう。
「……さて、考慮すべき敵が増えた」
「そういうものですか?アインシュタインは別に特別警護部隊を持っていませんでしたし、暗殺未遂があったという話を聞きませんが」
俺は四十二さんについて考えながら言う。確かに彼女が殺されれば、人類にとって大きな損失だろう。ただそれはイレギュラーなもので、彼女の死を嘆くのは落ちていた一億円を拾ったがそれをなくしてしまったことを嘆くような、なんかしっくりこない事に思える。そもそも殺すだけのメリットがどこまであるかもわからないし。
「実弾が飛ぶ可能性は実際にある。私の先達にも、倒れた人がいた」
須藤さんはさらりと、しかし決して軽くない口調で言う。
「……軽率なことを言って、申し訳ありません」
「いや、いい。君が知らないということは、私たちの仕事がうまく行っている証拠だ」
そう言って須藤さんは机の上に書類を広げた。
「さて、古瀬さん。これに必要なものは何だと思うかね?」
「まず必須のものから考えますか」
そう言っておれは結晶構造の図に指を伸ばす。
「こいつを作るためにはいまから二段階ぐらい上の、金属水素を作れるような高圧物理学が必要になる。彼女の知識はまあまあ役に立つだろうけれど、実際に組み立てて実験をする必要がある。あるいはこっちのトポロジカル絶縁体は理論が足りていないから、そのあたりを詰める必要がある」
「個別の要素がかなり多いからな、目標を用意しなければ散らばってしまうだろう」
「ああそうか、全部を裏で動かすのは無理か」
俺が言うと須藤さんが頷く。確かに国とか大学の研究機関とかは上の方から振られたテーマを研究させるぐらいの強制力はある。俺だって修士に入った時は宮部先生のところで言語学やるなんて思っていなかった。
とはいえ、完全にそれらを計画するわけには行かない。大まかな方向性を誘導することはできるだろうが、それではこのわかっている構造にピンポイントでたどり着かせることはできない。
「一つは理論を最初に公開することだな」
そう言って須藤さんが指差すのは数式の並んだ紙。俺も完全に理解しているわけではないが、ブラックホールまわりの時空間をうまく扱うための数学的トリックらしい。
「BIFRONSが理解できるようなものなら、
Rχivは世界最大級のプレプリントサーバーだ。出版社に高い金を出して論文を投稿するのもまだ一般的な手段であるが、特に人工知能とかの分野はこちらのほうが用いられることが多い。というか一般の論文誌は投稿時にどの程度人工知能を使ったかの詳しい説明とか情報処理のトレーサビリティとかが厳しいのだ。
実験グラフを生成されて問題になったことが何回もあれば保守的になるのも仕方がないが、プレプリントサーバーへの投稿者がやっている検証用パッケージの添付とかの方を見習うべきじゃないですかね。でもこれは情報系だけの話かもしれない。生物とかでマウスをオンラインで添付することはできませんからね。
「そのあたりはこっそりとそれを理解できそうな人の耳元で囁けばいいだろう。あるいはそういう人々は自動検索とかをかけないのかね?」
「うーん、新着論文をまとめるやつはありますけど俺は使っていませんね、その分野でずっと生きていくなんてことは今どきは難しいですし」
「ああ、専門を変えることが前提であれば今いる場所を深く突き詰めるよりも、多少浅くとも広い知見を持つべきということか」
「ええ。須藤さんみたいな人からすればあまり褒められたものではないのかもしれませんが」
俺の言葉に須藤さんは首を横に振る。
「いいや。それは正しい。もしそれが間違っていると私が言うのなら、それは私が今までやってきたことが間違っていたということだ」
「そんなに須藤さんって教育とか研究の行政にいましたっけ」
文部省傘下の組織にいたのは見たが、基本的には科技省を中心としているはずだ。実際にはもう少し上というか幅広いところの紐付きなのかもしれないが、公的な書類に書いていないことの先を推測するのは良くない。ただでさえ俺もBIFRONSも行政はおろかその上の方の政治には疎いのだ。
「知り合いがいる」
「うーん良くない縁故主義だ」
俺は少し呆れて言う。ただ、それが必要なのもわかっている。ない方がいいものは世界にいっぱいあるが、かと言ってなくなったら困るものもそれなりにあるのだ。