『この水準の知識を身につけるために、一般的には二年間の努力が必要です』
一通りのコースを終えた俺にBIFRONSの声が言う。
「教科書それなりに目を通しただけだが」
『一般的には、それは努力といいます』
「そんなものかね」
俺は呟いて背筋を伸ばす。ここ一ヶ月ぐらい片っ端から知識を突っ込んでいたのでやってきたことを整理していたのだが、それを踏まえるとその分野の院試ぐらいなら突破できそうなほどになった。つまり最先端の研究者には到底届かないレベルである。
しかし、同じような分野の研究者の中で俺ほどに人工知能に詳しい人はいないと言っていいと思う。それもかなり狭い、脳神経反応をうまい具合に符号化してその検知とともにパターンの発生を抑止するように動かすみたいなものとなればなおさらだ。
そしてようやく、やりたいことまでの道筋が見えた。まあ大半は四辻さんが丁寧に作ってくれたロードマップのおかげだが。圧縮された情報を丁寧に少しずつ解凍していって、断片的でありながら書き起こしてくれた内容は俺が、あるいは今の人間の大半の表現に合わせるなら俺によって制御されたBIFRONSであれば認識して、操れる範囲にある。
とはいえ必要なものは多い。もし埋め込むところから始めるとすれば集積密度が桁外れな端子を持つデバイスを用意しなければならないところだった。しかし四辻さんの首の後ろについているブレイン・マシン・インターフェイスは俺がやりたいことのために十分なスペックをすでに持っている。
やろうとしていることは歯車式計算機しかない時代に多層パーセプトロンの理論を作っているようなものだ。それがいくら正しかろうが本当ならそれを物理的に実装できる方法がない。そのあたりは四辻さんという既に運用が成功している例があるのでどうにかなる。
「入力が仕様みたいに決まっているわけではないんだな……」
四辻さんの内容を確認するに、ブレイン・マシン・インターフェイスの入力は無線で行うがその後処理にはエニオン系を組み合わせていて、その複合前の入力信号は事前に作られるそうだ。末端側での計算資源を節約するために頑張ってくれるなかなか丁寧なシステムである。あるいは大きく知性が違うなら向こうに合わせておいたほうがいいんじゃないかみたいなことだろう。
波長帯と受信システム自体は比較的俺達も知っているものだった。というか電波通信をするとなるとあまり波長を短くできないというのもある。人間という明確な障害物と、それが存在する環境を前提としなければならない以上あまり短くしすぎると回折が起こらなくなって電波が届かない範囲が増える。いくら自動的にその手の装置を作れるとしても、数を抑えられるならそれに越したことはないわけだ。
一方で波長を長くしすぎると今度は受信側の設備をそれに合わせてスケールアップする必要が出てくる。もちろんいろいろな工夫をすればアンテナサイズを抑えることができるのだが、その分の犠牲は通信速度とかの方に出てくる。まあ運用上は複数の波長を用いて長距離用と中・短距離用にして、幅広い波長を吸収できるようにフラクタル構造をしたアンテナを持っているのだが。
とはいえこれについて人類が知らない知識はほとんどと言っていいほどなかった。四辻さんの理論を解読するのはBIFRONSにとってはもはや簡単なことだったし、俺が理解する必要があったのも無線通信技術の基礎レベルだった。チュー・ハリントン限界の導出をちゃんと手を動かしてやるのは大変であったが、そのおかげで電磁場における波をアンテナが捉えるイメージを掴むことができた。これって役に立つのかね。
プロトコルのなさというのは、言うなれば音のようなものだ。音というのは別に特定の方法で送らないといけないものではないし、それを聞き取ることは多くの人にできる。それでも可聴域は個人差もあるし生物によって違いがある。でも結構汎用性が高いし、それは警戒から情報伝達まで伝えるのだ。
問題は四辻さんがいた構造体における電磁波は人類が音を使っているのと同じぐらい電磁波を気軽に使っているのでかなりよくわからない運用になっているというものだ。通信において何が重要で何がそうではないかみたいなものがわかりにくい。それでも、ある程度のものはわかってきた。
たぶん専用の回路があって、それが特定のタイミングの勘定に相当するものを制御している。ただそれがどこにあるかと言うのは難しい。ブレイン・マシン・インターフェイス内部の基板でもあるし、脳内の配線でもあるし、ニューロンとの接続の重みとか、なにかそういう人類でも正直わかってないというか実際に触っていかないとわかってこないだろう部分が多すぎる。
四辻さんがこの種の議論を基本的に材料だけに限った理由がわかった。そうとしか伝えられないのだ。脳には簡単に操れる重みなんてものはなくて、試行錯誤をしないと理解できないものがある。伝えられる内容が少なすぎるのだ。まあだからこそ再実装困難だろうから知識のところに取り出しやすい形に入れなくてもいいやとなったのだろう。
ブレイン・マシン・インターフェイスに保存されていて、四辻さんの脳経由で取り出せる情報は手で修理できる分野の知識に特化している。おかげでその内容の大半は正直言って使い物にならない。ほぼ無重力の状態で汎用プラズマトーチを使って足場の断裂を補修する方法が人類の役に立つのはどう早くても十年後以降だろう。まだ知性は宇宙に飛び出さなくちゃいけないほど切羽詰まっているわけでもないのだ。
とはいえそれを理解できるまでに俺でも結構な時間がかかった。言われれば一瞬だったのかもしれないが。となるとまあ、秘密を色々と明かしたときに四辻さんの価値は低いのにそれを勘違いしてきた人に対してどう説明するかが問題になってくる。ならずっと黙っているのが一番だろうな、という結論が動かないのがどうにも面倒だ。
秘密を抱えたまま生きるのは難しい。死んでしまえば口はないし、今のところ崩壊した脳から情報を取り出すことはできない。たとえ冷凍で脳の配線が保存されたとしても、その直前までにあった動的な情報はきちんと失われているのだ。あと半世紀か一世紀かわからないがそれまで待てば、世界から守るべき秘密はなくなると思う。四辻さんがどれぐらい生きるのかにもよるのだろうけど。