好きなだけ寝て、起きた時に昼前だと気分がいい。昨日はかなり頭を使って、その後に運動までしたわけだからな。くたくたになったあとの一日というのはいいものだ。
体を伸ばす。マンションの一室はあまりものがない。基本的に本は全部電子書籍だし、ここで食事をすることもあまりない。四辻さんはそれなりに自炊をするようで、たまに面倒だから四人前ほど作って俺にメッセージを送ってくる。そうするとありがたく俺は食べるわけだ。これでいいのかね。
自分の肉体があるというのは、たぶんまだ人工知能がうまく再現できない感情だと思う。今までに何度もベンチマークとして試してみたが、どうしても複雑な身体構造の操作となると実際の肉体モデルを裏で回しているBIFRONSでさえミスをするのだ。
人間の骨と関節と筋肉は数百個。それらを組み合わせた自由度は膨大になるかと思いきや、案外部分ごとに考えればそこまでにはならない。とはいえ自律システムであるとか複雑なフィードバック機構とかセンサーとかを入れると一気にモデル化が難しくなるのだが。
もちろん、特定の目的だけに割り切ればかなり良いモデル化はある。自動車実験で使うダミーにしろ、VRで使うアバターにしろ、人間の筋繊維の一本一本を追跡しているわけではない。
『四辻さんから通知です』
「なんだろ」
BIFRONSの声。オンライン版で独立ということになっているが、先工研のBIFRONSといくつかのネットワーク越しに繋がっているのでそれなりに同期されていそうだ。そのあたりについて、俺はもう関知する気になれない。
通知音だけでもいいのだが、それだと俺が見ようとしなくて、だからわざわざ声をかけたのだろう。俺のよくないところをよくわかっていらっしゃる。なので普通に出勤が必要なタイミングでは二度寝を許さない目覚ましがうるさいのだ。いや別にフレックスタイム制として働いてもいいのだし、今の業務でこれをやれと割り振られていることは先工研内部で働く職員としての役割分担がメインなのでそんなに頑張る必要もないのだが。
スマートフォンには「飯行こう」とのこと。タイミング的には俺の起床した時か。まあどうやって知ったかは理解できているのでいいし、俺も必要であれば四辻さんの生活関連の細かい情報を得ることができるので今更なのだが。いやまあ一応四辻さんの監視役やっているわけなのでバイタルと位置ぐらいは知らないとまずいし、それならこちらの情報も提供されるべきだとなるのは当然ではないでしょうか?
そんな事を考えて玄関を出るとタイミングよく四辻さんがいる。
「そば屋さん」
「ちょっと歩くなぁ」
そんな会話のための会話をしながら俺達は階段を降りる。休日の運動も兼ねた移動なのでエレベーターを使わないというわけだ。
ここ数年で世界が一気に変わったという人もいる。そうではないという人もいる。通貨の動きが変わって銀行の融資のあれこれが変わったから地元産業も案外困っているのではないかと思ったがそういうところにも案外地元銀行が色々持っている情報を活用してとか大手のところの支店が動いてとかそういうことになっている。
「ここの喫茶店、行ったことなかったね」
「そもそも喫茶店に行くのか?」
「私は行く」
「良い趣味だ」
俺は正直言ってそういう物に興味がない。というか四辻さんもそういう方だと思っていたのになんか普通に人間らしくなっていて、普通のお姉さんみたいになっていてちょっと悲しくなっている。まあ俺達は世間から見ればかなり異常な方だろうが。
ちなみにこの街では俺達はそこまで変な人ではない。ありがたいことにここは赤城、隔離された先端学術都市であり、ここに派遣されるような人は人生をなにかに捧げている人が珍しくない。子供であってもなんか変な方向に好奇心を伸ばしていることは珍しくないのだ。背伸びをするガキというのはなかなか可愛くていいものだ。その後に現実とぶつかるのとかを想像するとあまり良くない笑みが湧いてくる。
「やってます?」
俺は暖簾に頭をこすらせながら、少し開いたドアを挟んで店の中に声をかけた。
「いいですよ」
声がしたので昼の営業時間のはじめのお客さんとして入る。ここには月に一回か二回ぐらい来ているので常連さんと言ってもいいだろう。ここの天ぷらはおいしいのだ。
というわけでいつもの、と言えば注文が通るのだ。少なくとも俺はまだ食事を楽しめている。それを単なる栄養摂取以上のものだと思えているなら、俺はまだちゃんと人間らしく機能しているのだろう。
「……何を見ているんだ?」
「思考をある程度読めないかなと」
「難しいだろ、情報論的に」
「人間の感情はたかだか数十通り、あとは周囲の情報といくつかのフィードバックを合わせればいい」
「なるほどね」
「……具体的な文献を今ここで行ったところで、古瀬さんは確認できないでしょう?」
「スマートフォンを使ってもいいなら可能だが、読んだところでちゃんと理解できるかどうかは怪しいな」
俺の脳はBIFRONSというか専用の前処理をした状態の情報をうまく取り込むように最適化されているというか慣らされている。もちろんそれは普通に高い処理能力を前提としているので論文ぐらいは普通に読めるのだけど、それはそれとして再構成する時の方向性に一拍の遅れが入って、面倒になってしまうところはある。
手書きの原稿を読みたくないとか、そういうものに近いのだろう。俺はただのそのままの文章を情報処理に手間を掛けていないものだとみなすようになってしまっているし、俺の趣味でどう改善するかみたいなものを考えてしまう癖が有る。
だから例えば今から原稿を書くことになったら、それなりものはできるだろう。単に作業として、思考を言語化するようにして、それを書き出すだけ。普段は日本語とイメージを上手く組み合わせて対応しているが、必要であれば言葉を中心に処理するように切り替えることは難しくない。
四辻さんが俺の思考が一旦途切れたタイミングで机を軽く叩いて俺の意識を引き戻した。わざとではないと思いたい。さすがにそこまで俺の表情から情報を得ることはできないはず。表情だけではないかもしれないが。せめてブレイン・マシン・インターフェイスでそういう専用の回路を組んだからとか、そういう陳腐なオチであって欲しい。
「伸びるよ」
「わかってるって」
俺は割り箸を噛んで引っ張って割って、わさびを少し乗せたそばを思いっきりすすった。痛みと辛さというのは、物理的肉体あっての趣味だと思う。