インディビジュアル・ラショナリティ 1
「詰めが甘くないか?」
俺は地下で政策決定者向け向け報告書を読みながら言う。人類が重力特異点を手に入れるまでのカウントダウンが始まった。ちなみにその頭脳のほとんどはもはや人工知能である。設計もだいたいそう。組み立ては人間がまだ汎用性が高いが、ロボットとか活用できるような研究も進んでいる。純粋に計算資源には限界があるので割り当ての色々がね。
「私も成功例を知っているから甘く見ていた、危惧されるのは当然」
四辻さんが返す。彼女は俺よりももう少し高度な専門家向けのやつを読んでいる。まあ俺のやつも相当難しいのですがね。
「そりゃTNT換算で数トンのエネルギーを量子揺らぎの範囲に閉じ込めるんだ、爆発したら大変なことになるのはその通りだ」
「準安定状態として保持されるというのも結局は結論ありきのモデルでないと成り立たない」
「そこまで理論を進められないというか、観測ボトルネックが普通に出るものだな……」
俺達がこの問題を知らなかったというと嘘になる。報告自体には何回も出てきた。ただ、それはきっと問題ないだろうという判断で俺達はやっていたのだ。そうして失敗した。人間二人然それが判断できない以上、限界が生まれるのである。
「いや待てBIFRONS」
『何でしょうか』
「予測できたんじゃないか?」
俺や四辻さん以上の情報をBIFRONSには叩き込んでいる。そして一般常識も持ち合わせているはずだ。だから気がつくことができるとすればBIFRONSである、というのはそこまで無茶な意見でもないだろう。
『本システムの思考の方向性は利用者に依存します』
「つまり俺達が馬鹿だったから自分は悪くない、と?」
『はい』
「よろしい。ところで人類がこの問題を無視して突き進むほど馬鹿だと考えてたりした?」
『はい』
「とてもよろしい」
俺は息を吐く。まあ、解決できない問題ではない。というかあからさまにそれ以上のスケールのエネルギーを封じ込めることは人類は昔からやってきたのである。
地下核実験。1957年9月19日、プランボブ作戦内「レーニア」で爆発したのはTNT換算1.7キロトンである。トンではない。そしてこの実験は地下900フィートで行われた。メートル法でやれ。270メートルぐらいらしい。
つまりブラックホールを作る過程で暴走して爆発しても、十分地下に施設があるなら問題ないのだ。というか普通に今の国際線形衝突型加速器の深さでも大丈夫だな。だが、問題はそこではない。何かあった時に埋めれば大丈夫というのは安心材料にはなるが、一兆ドルを注ぎ込んだ施設を使い捨てにして得られたのが物理データでしたではちょっとさすがに出資者に怒られてしまう。
そして問題になるのは臨界のタイミングを測定するのもなかなか難しいということだ。子供の頃に冬の曇った窓を指で撫でて水滴をくっつけて遊んでいたことがある。一定以上集まると落ち始めて、落ちる過程でどんどん雫が大きくなるので止まらない。そういう状況になりうる。
もちろん、逆のモデルもある。小さなブラックホールほどホーキング放射を激しく起こすので、一度重力特異点ができた途端に一瞬でそのエネルギーを全部放出して消えるというものだ。もちろんさっきまで論じたようにそのエネルギーは封じ込められる程度には小さいが、周囲の観測機器と人類史上最も精密な構築物の一つとなろうとしているゲルマネンの平滑な基板を吹き飛ばすには十分すぎるほどなのだ。
というのが悩みの問題である。いやまあ一度ブラックホールができたら周囲の物を全部吸い込んで地球が滅びるなんて話があるが、たぶんそうはならない。今の時点でわかっている物理パラメーターだけでもそういう臨界を越えた成長を起こすためには相当な密度の餌が周囲にないといけない、みたいな話になっているのだ。
大きな恒星がブラックホールになれるのはその質量だけではなく、重力崩壊を起こして最初の特異点ができたときにその周囲に十分高密度の中性子があるからだ、というのは定説になっている。まあ定説というだけで四辻さんの知識からすればちょっと怪しいところがあるし、それを分析するためには重力特異点を実際に作って各種の測定をする必要があるのだが。
「こうなるといっそのこと宇宙にでも作ったほうがいい、とはなるよな」
俺はそう言いながら印刷された報告書をめくる。実際にそういう考えはあって、コストの見積もりまでされている。再利用可能なロケットであれば案外まともな打ち上げ費用で対応できてしまうのだ。エネルギーをどうやって作り出すかが少し問題となるが、大きな太陽光パネルでも置いておけばいいだろう。
「たまに事故が起きていたはず」
「構造体でさえ?」
「閉じ込められた場ではなくて特異点をそのまま出そうとしていたから」
「あー、着衣の特異点を裸に剥こうとしていたと?」
事象の地平面というやつだ。因果律を面倒なことにしないために宇宙は特異点に服を着せているという話があるのだが、うまくやるとそれを剥いて色々と悪いことができらしい。ただこのあたりはかなり宇宙の法則のうち構造体でも操りきれていなかった部分、かつ四辻さんの脳に入っていないあたりなので理解が難しいのだ。
「そう。もちろんそんな事をすると検閲官がやってくる」
「このあたりはやっと俺達が近似を一段階剥がせたあたりだからな……」
一般相対性理論が量子レベルのスケールでどう振る舞うかというのはかなり局所的な物理法則に依存する、というのが四辻さんが持ち込んだ理論であるがこれについてはまだ表に出せていない。数学モデルとしては候補の一つにはなっているが、宇宙の実装として確定させるための証拠が薄いのだ。それにこれを採用すると宇宙には本質的には対称性とか均一性とかいうものがないのではないかみたいな議論になる。
俺達の目から見れば、牛乳というのは一様な液体に見える。でもあれはコロイドなわけで、本当は不均一だ。水だって拡大すればそこには分子が出てくる。そういうものは巨視的には対称性を示すし、そう振る舞うと考えてほぼ問題ないが、実際はそうではないというのを活用すれば目指している重力特異点の作成が真っ当なエネルギースケールで可能となるのだ。