「うん、快適だよ」
俺達のあいだにあったアクリル板がなくなったC4棟地下の部屋は、一人暮らしの部屋というよりも独房に近いように思われた。公的にはシャワー室と仮眠室となっている地下二階に、彼女の住処はある。
「……楽しそうですね」
「表情の練習をしている。古瀬さんと須藤さんから差し入れてもらった本は色々と参考になるよ」
俺が愛知の方に戻って彼女からインタビューをしていない間、彼女にはベストセラー小説、国語辞典、各分野の入門書、そして女性向けのファッション雑誌が与えられていた。段ボール箱いっぱいの、持ち運ぶ時にちょっと声を出さなくちゃいけないぐらいの量があったはずのそれを、彼女はほぼ読み切っていた。
「地下二階は丸ごと、あなたのために用意されます。特に外に出せないような直接的な研究とかは、基本的にここで初期段階の精査が行われると考えてください」
「厳重だね」
「BIFRONSの搬入は来週になります。須藤さんから音声とキーボード入力によるのやり取りが許可されたので、好きに扱えますよ」
「インターネットへの接続は?」
「ありません」
「そっか」
彼女は生き生きしている感じではないんだよな。小説の朗読のような、落ち着いた声色。このあたりはBIFRONSに感情的な声の出し方の指導をさせたり、あるいは同年代の女性と交流させるとかのほうがいいかもしれない。
「……あれ、そういえば何歳だっけ」
「地球の公転の年で計れば、十八歳」
「……若いな?」
俺は正直年齢を他人から読むのが難しいが、落ち着いた雰囲気から同年代か、少しだけ若いぐらいかと思っていた。まさか十歳近く年下だとは。少女と言っていいだろこれは。
「そもそも成長や発達に違いがある個体同士を誕生からの時間で比較することはあまり適切ではないのでは?」
「それもそうか」
「それにしてもそちらの人類は本当に面白い、本を読んでよかった」
「媒体としてはどうなんだ?」
ブレイン・マシン・インターフェースをつけている人からすれば、文字を目で追わないと理解できないような紙の本はあまりいいものではないだろう。俺だって高校時代までは小説とかそれなりに好きだったし、旅のときに本を買うのは悪くないと思っているが、それでも教科書は電子書籍であってほしいと思っている。そうでないと全文検索ができないから。
「意識して日本語で頭の中で処理できるように切り分けているけれども、まだ慣れない」
「慣れないでこの流暢さかよ……」
俺は一応英語ができる。学会発表と質疑応答ぐらいならなんとかなる。地元のホテルに電話で予約をする時とかなら訛りが入った早口だと辛い。幸い今までそういう機会はない。今どきは全部オンラインでできてしまうのだ。
「BIFRONSから発音の修正点を学んだのが良かった。口の中の筋肉を慣れない方法で動かすためには練習が必要だったけれども、そこまで困難ではなかった」
「そういうものかね」
「そう」
そう言って彼女は座っていた事務椅子に体重をかける。事務用品は比較的簡単に手に入るが、このあたりの予算ってどうなっているんだろうな。大学とかでは丁寧にシールとか貼って帳簿を作っていたけれどもこういう秘密施設もそうするのだろうか。確か内閣情報局の下には大蔵省とか国税庁とかは入っていないはずなので、そっち側から調査されたら大変なのではないだろうか。
「それで、古瀬さんはいつからこちらで仕事を?」
「博士号取るのは一年半ぐらい後になるが、実質こっちでメインの研究や作業は続けることになるだろうな」
博士号持ちの就活は色々難しいと聞くし、俺は激務を避けるつもりで色々調査はしていた。ただ、学部や修士の一括採用と微妙に趣が異なるので後回しになっていたのはある。最悪アカデミアの隅っこに入れればいいやというのもあったのだが。
というか就活の表と裏の規則が全然食い違っているのなんなんだよ。青田買いの時期の後の不況のせいで一気に採用を絞って、それに加えて世代交代やらなんやらで人材基盤が崩壊するなんて笑い話がかつてのバブル景気とその崩壊と韻を踏んで起こっていたという。このあたりの業界情報はBIFRONSの適当にまとめたやつを面白おかしく読んだだけだからな。信頼できない。
「私の職業もそこで決まると考えていい?」
「須藤さんがうまい具合にやってくれるだろ。というかあの場には先工研の人がいなかったな……」
以前の地下かどこかわからない部屋での会議を思い出す。あそこに集まっていた人は直接的に研究とか政治とか行政とかに絡んでいるわけではない。むしろあれは須藤さんと同じ側の、それぞれに目的があって大きなことを動かす権限を持っている人と見るべきなんじゃないだろうか。あまり考え込みすぎても難しいのだが。
というより早く十分な速度で動くBIFRONSが欲しい。オフラインでないと重要な情報は入れにくいし、そうでないと俺の能力は本当に二割とかに落ちてしまう。二割で済むかな、一割かも。
「ここの?」
「そう。たぶん理解している人はいるんだろうけれど、どこまで伝えられているのか……」
一人を幽閉して何かをさせる、というのはどうしても大変なものだ。後から責任とかなんとか言われたら面倒になる。そしてそもそもそこまで閉じ込める必要があるものは、たいてい危険なのだ。
俺が知る中でも、さすがに敷地内に研究施設と生活環境の建物を全部まとめている例は数えるほどしかない。それにここ先工研にはちゃんと宿泊施設があるらしい。度量衡研究所の研修に使うとかなんとか。というか俺もそこ泊まりたいんですよね、毎回バスで移動するの面倒なんですよ。とはいえあそこも結局は事業所内を巡るバスに乗る必要があるから同じかも。この話はやめておくか。
「そのあたりは、そちらに任せます。私にはわからないので」
「知恵を貸すとかないの?」
「多人数社会における信用基盤を毀損せずに独自の手法を確立するような方法は純粋に私がいたところでは築く必要がなかったものなので……」
困惑されたように言われてしまった。うん、確かに嘘というか欺瞞と不正の塊みたいなことをしているわけで、それは数百人の社会ではやりにくいことだよな。数千人か数万人という規模のシステムを官僚主義によって回す時に生まれる匿名化の隙間がなければできないことだ。