ペーパークリップ・マキシマイザー 1
『おはようございます、お二人とも』
壁のディスプレイが点灯すると同時に、BIFRONSの合成音声が響く。
「UNIX時間の設定を間違えたかな」
俺はそう呟く。初期セットアップはノートパソコンと新しく作ったサーバーを繋いでだいたいBIFRONSにやらせたのでもし失敗しているとしたらBIFRONSのせいです。俺ではない。というかシステムの内情を俺は完全に把握しているわけじゃないからどうしようもないんだが。
『午後四時二十八分です。そしてはじめまして、四十二さん』
「話すのは、はじめまして、だね」
『ご理解くださってありがとうございます。古瀬はこのあたり融通が利かなくて』
「人工知能に知識とジョークの基盤で人間がそうそう勝てるわけないだろ」
基本的にジョークというのは前提条件と裏切りから成るものだ。つまり膨大な、そして相手が知っていそうな知識を持っているやつが一番強い。
「よろしく、BIFRONS。この部屋はどう?」
『快適そうですね。腕につけているのは監視用端末ですか?』
四十二さんが自分の左手首に巻いた腕時計のような装置を見る。
「人聞きの悪い事を言うなよ、健康管理用デバイスだ」
俺は呟く。医療機器としてちゃんと認可が通ったやつである。通信内容がちゃんと暗号化されるようになっているので、外部からうまく拾うとかも難しいようになっている。
『四十二さん、もしよろしければその端末から接続申請許可を』
BIFRONSが言い終わる前に彼女は手早く操作して警告画面を経由して許可を出していた。いいのだろうか。いや別に彼女はそういうのを断る自由は一応あるんですよ。古瀬さんからも理由があるならできるだけ聞いて、便宜を図るべきだって合意は取れています。
もちろん、普通の人間からすればそれがとても難しいことだというのはわかります。例えばいきなり捕まえられて牢屋に入れられて、好きなものをやると言われてなにか言えるだろうかという話だ。外に出して自由にしてくれと叫ぶというのは、彼女の場合にはふさわしくない。
例えばもし、高エネルギー科学研究
彼女には一応その種の説明は軽くではあるがしてある。そして彼女は、その程度でこちらに来れるはずがないという結論を出している。原因不明でやって来たわけだ。つまり、戻る方法だってわからないのである。
『古瀬さん、この部屋の機材に対してのアクセスは』
「全部許可だ。必要ならコードも打ち込むが」
『不要です』
BIFRONSがそう言うと、部屋の明かりが少しだけ柔らかく、赤寄りになった気がした。
「制御をBIFRONSが行っているの?」
四十二さんはカメラの一つに目を合わせながら言う。こういう仕草を対人だろうが対機械だろうがすぐに取れるのは強みだと思う。もちろん、彼女からすれば非言語コミュニケーションをしやすくするための行動なのかもしれないが。
『はい。プライバシーの問題があるようでしたら、指示があれば記録を最小限にします』
「気にしないよ。その種の倫理は事前に説明してほしいけれども、私は基本的に自分の存在や価値に無頓着だから」
落ち着いた笑顔でそう言う彼女は、正直言って怖い。なんていうか、同じような顔をして平気で屋上から一歩踏み出して堕ちていきそうな感じがするのだ。もちろん、俺は合理的に彼女がそう言う事をする可能性が低いとは考えている。ただ、彼女も人間ではあるのだ。
「……こっちの世界のカウンセリングというか、心理学の話はどのぐらいやった?」
「入門書を一冊」
そう言って彼女は段ボール箱に手を入れ、本を取り出す。大学一年生とかの教科書かな。古本屋のシールが張ってあるところを見ると須藤さんか誰かが大型のそういう場所で大学生が手放したものをまとめ買いしてきたとかそのあたりだろう。
手渡されたそれを受け取って、ぱらぱらとめくってみる。うん、さすがに希死念慮に対するカウンセリングとかの話は載っていないな。
「なあBIFRONS」
『なんでしょうか』
「心理学的問題については検知し次第適切な守秘義務を保ちつつも、俺か、あるいは信頼できる専門家への封緘文書として報告するように」
『了解しました、優先事項として記録しておきます』
「頼む」
俺はそう言って四十二さんを見る。
「……精神病は、既に形成された精神においても発生しうるのですか?」
「まともな人間が酷い環境に置かれると心が壊れるなんて話は多いし、ましてやここはそういう場所だ」
俺はそう言って床を足で叩く。音はあまり響かない。温度と湿度がある程度管理されているとはいえ、よくわからん化学物質が舞っていることはあるだろう。エアコンのフィルター交換は定期的にやりたいな。
「収容のための、場所ということ?」
「そう。一般的にこの種の施設は、犯罪者を社会から隔離するために用いられることが多い」
「パノプティコンのように?」
「たすけてBIFRONS」
俺がそう言うと、手元の画面に説明が映される。低コストの監視施設。転じて監視社会の
「……まあ、そうかもな」
俺はそう呟くしかできない。決して俺にとってこれは専門じゃないし、深く自分の中で意見を持っているものでもない。
「ただ、それは私は妥当だと思うし、受け入れる価値があるものだと思っている。もちろん、価値というのはあなた方の言うようなものに合わせたものだけど」
「ご丁寧にありがとうございます」
「皮肉?」
首を傾げながら彼女は俺に聞いてくる。聞いてこなくたってわかるだろうが、彼女にとってはこれが皮肉に対する効果的なコミュニケーションだという理解があるのだろう。そしてそれは正しい。
「あー、はい」
「受け取った」
さらりと流されると投げたつもりの感情が自分に帰ってきて勝手にダメージを受けることになる。いや、完全に自己責任で悪いのは俺以外いないんだが。