超越少女は路を示すが旅をするのは俺達だ   作:小沼高希

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ペーパークリップ・マキシマイザー 2

「……わからん」

 

「脳の処理容量の問題かもしれない。私は強化されているし、BIFRONSはもとからそうだけど、これは普通の生身の人間が対応させることが困難か、あるいは特殊な訓練を積む必要がある」

 

「あるいは適切な教育カリキュラムだな……」

 

例えば俺が大学でやった数学というのはコンピューターでさくっとグラフが書けるような関数しか扱わない。ベッセル関数が何だったか忘れたけどたぶんルンゲ・クッタ法かシンプレクティック数値積分で計算できるからいいんだよ。

 

ただ、それらはかつて計算尺と数値表を用いて行われていた処理の中で洗練されていった手法を使っているに過ぎない。先人の積み重ねがあるから、俺達はその先に行く人を押し上げることができる。誰もが次の標高を更新するわけではないが、土台にはなれるのだ。

 

『数学モデルの画像を提示しましょうか?』

 

「……あまりうまくいく気がしないが、見せてくれ」

 

画面に表示されるのは、ゆっくりと回転する複雑なワイヤーフレーム。立方体なのか正八面体なのか、それらが拡大するように、あるいは裏返されるように交代して行く様子。

 

『微分作用素による代数的構造の変化を群論として扱うことは普遍代数学の基本的アプローチとある程度の共通点を持ちますが、未だ四十二さんの言うような基本的な水準でさえ言語化されているものではありません』

 

「……つまり、未知の理論が数学界のそこらへんに落ちているのか?」

 

『いいえ。それが少し難しいところです』

 

さて、BIFRONSがそう言うなら俺は姿勢を正して聞く姿勢になる。四十二さんはあぐらを組むように細めの足をワンピースの中に入れた。幸いなことに、彼女は他人に裸を見せることをある種の恥だと思う文化を持っていた。まあその原因について管理できない性的接触が発生する可能性を論じてきたのは怖かったし、BIFRONSも同様にいくつかの文化における被覆、特にサハラ砂漠の遊牧民であるトゥアレグにおける男性の被覆について語ってくるのもどうかと思う。面白かったけれど。

 

『まず前提として、数学が扱うことのできる構造は無数に存在します。その中で興味深いものだけが研究されていますが、それがどう興味深いかは研究するまではわからないことがほとんどです』

 

「……四十二さんが基盤にしている構造は、その中にある?」

 

『保存されている論文の中でいくつか言及されているものもありますし、モデルの構築も難しくはありませんが、コミュニティとして研究がされている例はありませんでした。オンラインでの検索は禁止されているためできませんが』

 

「そこはどうにかしたいんだが、しばらくは無理だ」

 

『はい。そして彼女の提示した構造は、いくつかの特徴的な部分構造を持ちます。それらはいくつかの微分作用素を含む複数の操作に対応します』

 

「……続けてくれ」

 

『この方法で扱うと、いくつかの物理法則をかなり簡略化することができます。特に大統一理論を扱う場合、自明に非対称性が現れます』

 

そう言ってBIFRONSが映し出すのは式ではない。いや、ある種の数式なのだがそれを高次元上のものとして表しているのだ。一旦BIFRONSの音声での説明を聞いた後だと、説明の文章がわかる気がしてくる。

 

「……おい待て、ということはあれか?大統一理論は」

 

『より洗練されたモデルに変換可能です。これに基づけば、重力特異点の形成に直接必要なエネルギーはプランクエネルギーの数百倍のスケールとなります』

 

「プランクエネルギー……プランク定数ではなく?」

 

『はい。プランク質量と等価なエネルギーであり、およそ $2 \times 10^{9}$ ジュールに相当します』

 

それは、加速器に投じられるエネルギーの数百倍だ。つまり、不可能な数字ではない。いやもちろん加速器はそのエネルギーを例えば一定量の電子と半電子とか、あるいは陽子同士とかに注ぎ込んで、それをほんの僅かしか起こらない正面衝突を通して解放する。

 

だから、ここには二段階の飛躍がある。一つ目は投入されるエネルギー。これは二桁違う。そして投入されたエネルギーが興味深い反応に変わる効率。これは、十桁とかそのぐらいじゃないだろうか。

 

「それで、彼女が言っていたエネルギーの……相転移の話はどうなっている?」

 

『実証するための計算モデルが不足しています』

 

「それもそうだよな……」

 

俺は息を吐く。理論があればシミュレーションができるわけではない。俺達は電子の振る舞いを説明する微分方程式を持っている。それがおそらく正しいことも知っている。ではそれを用いて計算ができるかというと、話は全く別だ。

 

『既存の計算モデルは長距離相互作用を十分な精度で分析できません。実験データによる補正は外挿的なものとなり、必然的に精度の悪化、そして事実上の発散を招きます』

 

「適切なモデルについて、彼女は知らないのか?」

 

俺がそう言うと、かろうじて聞き慣れた単語が高速で流れていくのが聞こえる声が部屋に響く。四十二さんの言葉の加速されたやつだ。

 

「……日本語でいい?」

 

彼女が俺の方を見て言う。一回BIFRONSの翻訳を挟むよりも、俺に理解させるためなら日本語のほうがいいという判断だろう。

 

『構いませんよ』

 

「ない」

 

「そうか……」

 

俺は肩を落とす。

 

「例えば入門書には、具体的な計算方法は多くの場合欠落している。例えば読者への宿題、とか」

 

「あれは人類文明の悪しきところの一つだから学ばなくていいぞ」

 

「善悪をあなたがたがどう判断しているのかを知るためには、一定程度の悪の知識が不可欠。もちろん実践はできるだけ避けるけれども」

 

「……できるだけ、と言える範囲にまで悪を拡大解釈していると捉えていいか?」

 

「はい。アイデンティティの侵害が悪とされているのは理解していますが、それをやる必要があることも理解しています」

 

「……そうだな」

 

誰もが自分を他人に変えさせる権利はない、という響きのいい言葉は世界に満ちている。では義務教育とはなにか。金が無いと生きていけない社会で、労働は事実上の強制ではないか。不本意な労働をしている人がひとりでもいれば、その社会は不正義なのではないか。

 

まあ、物事は何もかもが程度である。そこそこの人をそこそこ幸せにするために、俺達はしばしば嫌なものから目を背ける。それはきっと悪だけれども、電車を正確に走らせるための陳腐な悪なのだろう。

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