「……お久しぶりです、学生さん」
「どうも、先生」
そう言って俺達は握手をする。今日ここにやってきたこの女性は、四十二さんを診察した医師である。赤城大学附属病院の非常勤の人。
ちなみに須藤さんからは互いに名前を知らないほうがいいと言われているので、ここでもただ先生と呼ぶだけでよそよそしい頭文字を使わないようにしよう。
「それじゃあ口、開けてもらえる?」
そういって四十二さんが診療をされていく。とはいえ先生が持ち込むことのできた機材はそう多いわけではない。それでも全身を診るのには十分なようだ。
「おいBIFRONS、セキュリティとプライバシーの問題から記録は止めておけよ」
俺は小声でマイクのほうに囁く。
『本人からはできるだけ多くを記録するように言われていますが』
歯を見ているらしい先生が気がついていないところを見ると、たぶん指向性スピーカーだろう声が聞こえる。というか医師が歯科医師の真似事をしていいのだろうか。
「あー、そうか成人年齢越えているのか……」
俺はある程度は個人の選択を尊重したいと思っている人間だ。もちろん大抵の人間はまともな判断も選択もできないが、だからといって彼らから判断や選択の権利を奪うべきではない。さすがに自殺とかになってくるとその前にハードルを増やしておくべきだとは思うが、深夜にラーメンを食べに行くために自転車を漕ぐのは許される愚かさだと思っている。
『学術的、あるいは医学的記録として保証される水準となるよう努力はできます』
「女性を一人幽閉しておいてそういうところを気にするのは愚かだって後から言われないかな」
『言える人がいる時点で色々ともっと考えるべきことが他に生まれているでしょう』
「それもそうか」
そう言って俺は色々と諦めることにした。その横で彼女は血を抜かれている。俺は正直採血が嫌いだ。たとえ思ったほど痛くなくたって、それまでの時間と終わった後の微妙な感覚が好きになれないのだ。四十二さんは顔色一つ変えずにされるがままだが。
「しびれや痛みはありませんか?」
「ありません」
「それでは次は呼吸器系を確認しますね」
そう言って、先生は聴診器を取り出す。気になったことがあったので聞きたかったが、今は黙っているしかない。集中して聴いている先生が聴診器を耳から外すまでの時間はかなり長いように思われた。
「……少し質問いいですか?」
「なんでしょうか、学生さん」
「こういう検診の経験があるのですか?」
「アルバイトとして突発的に入ることがあるので、例えば旅行のついでに仕事をこなすようなことをしてきました」
そう言いながら、先生はクリップボードに留められた紙に色々書き込んでいる。このあたりはあからさまに個人情報だから見ないほうがいいな。
「本当はきちんとした全身検査を受けてほしいのですが、そうすると機密保持上の問題が大きくなります」
「先端工業科技研究所にはそういうものはないのですか?」
四十二さんが先生に尋ねる。
「ええと、脳科学とかをやっている場所でもさすがにMRIは持っていないと思います。メンテナンスが大変ですし、そもそも常用しないならコストが見合わないことが多いので。超音波エコーと産業用CTであれば持っていてもおかしくはないと思いますが、人間用として認可が降りていないものを使うのはおすすめしません」
「ありがとうございます」
そう言って四十二さんはぺこりと頭を下げた。
「あと、学生さん。この結果はあなたにも渡します」
「いいんですか?」
「彼女の生活を管理するのはあなたの仕事だと聞きましたが」
「……須藤さんにはそこまでは言われていないですね」
「事実上そのような仕事を彼はすでにしているので問題ありません」
「そう?よかった」
俺が何かを言う前に四十二さんと先生の間で話が通ってしまった。まあ別に言われなくたってやりますけどさ。
「さて、これでひとまずは終わりです。心理調査については須藤さんから不要だと言われていますが、念の為直接確認します。必要ですか?」
「人間の基準できちんと行った分析がどうなるのかには興味がありますが、あまり効果的ではないと思うので不要です」
「……そうなるのね。ありがとう。ただ、受けたくなったら言ってください。必要であれば私が学びます」
「学ぶ?」
俺はちょっと驚く。
「はい。医師免許があるので最低限の心得がある、とみなされることは理解していますが、彼女の医学的管理のために必要な技術はできるだけ自分で習得したいと思っていて」
「……もしかして先生、こういう仕事が好きだったりします?」
「非常勤で変なことができるような職場にいるというのはそういうことですからね。専門医認定のためには患者を見る数が必要なので、それで働かざるを得ないのは難しいところですが」
彼女はそう言いながら鞄に色々なものをしまった。好きなことをやるために金のための仕事ではなく仕事のための仕事が必要なのは難儀だろうな。
「ところで先生、その分析ってどう行われるんですか?」
「私が自分でやります」
「難しくないのですか?」
「僻地の病院にいた時と船医の経験があります。もちろん本職の技師さんや病理さんたちに比べれば下手ではありますが」
先生の説明に納得したように四十二さんは頷いた。
「……あれ、遺伝子分析と感染症が専門って言っていませんでした?」
俺は尋ねる。前の部屋の会議で彼女の経歴がなんかそんなふうに書かれていたのだ。
「嘘ではありませんよ、ここ十年はそういうものを中心に色々やってきたので」
そう言って先生はこちらを見る。良く考えてみれば俺より年上ってことは、俺より幅広い分野をやっていてもおかしくないってことだよな。機械工学と材料工学と人工知能と言語学に比べれば、医学というのは狭い範囲なのかもしれない。
「……ちょうどいい人がいて、助かりましたね」
「須藤さんと別に面識があったわけではないのですが、いきなり電話がかかってきて驚きましたよ。それでも私が赤城大学附属病院で働いていたというのは間違いなく幸運ですし、今の日本で私より彼女をうまく診断できる人はあまりいないと思います」
「具体的には何人ぐらいですか?」
「専門医の中でも上位二割ぐらいとなると、三百人ぐらい?ああでも分野横断となるともう少し減るかな……」
疑問に疑問で返されたが、そもそもあまり答えがしっかりと返ってくることを期待できるような問いかけではなかったな。反省しよう。