指輪を撫でてスクロールしながら、BIFRONSが書いた報告書を読んでゆく。残り時間はあと二分。時間に合わせて残りの部分を簡略バージョンに再生成してくれているのを見ると全部お前がやれよと言いたくなる。それができるスペックはあるのだ。
既にある程度の単語は掴めている。「私」と「あなた」、そしておそらく「見る」という動詞と、「機械」あるいは「装置」に相当する言葉。彼女の発言のうちいくつかは、俺がやっていることについての解説らしい。もちろんそれでは説明がつかないことも多いが。
「……俺は、どこまでやっていいんですか?」
「どこまで、とは」
「相手に日本語を教えても?」
「そうでなければ会話が……君のほうが彼女の言葉を理解するのは?」
「どっちが先か正直わかりませんし、それに日本語でないとあなたがたのその後の尋問が難しいでしょう?」
「……そのあたりは専門家に任せる。ただ、無理はしないでくれ」
「わかりました」
サングラスの中の骨伝導イヤホンがあと三十秒であることを告げるので、俺は病室に戻る。カードキーと番号は政府の人が管理しているので頼まないと入れないが。あとちゃんと手で番号を打ち込むところを隠すのはプロ意識というやつなのだろうか。
部屋に入った俺と、ベッドの脇に立っていた彼女の目線が合う。アイコンタクトは苦手なんだよな。そもそも目を合わせる文化かどうか、相互にわかっていないだろう。
もちろん、彼女は俺以外にも誰かと接触しているはずだ。入院着の下には包帯がある。怪我をしたのかもしれない。
「歩き方とかそういうのにも注意しておいて」
指輪に触りながら小声で言うと、既に解析中との文字が流れてくる。まあそうか、俺が考えつくようなことはたいてい終わらせているからな。それならもう少し唇の読み取りを正確にしろよ。ミスをその場の雰囲気で判断するのは上手なのだが。
「さて、じゃあちょっと基本的な語彙の話をするか」
椅子に座って俺は言う。相手もタイミングを合わせて座った。向こうの方をこちらに合わせさせているというのは調査する側としては不手際としか言いようがない。
「█████████████████████」
一部が翻訳される。頻出の文頭と、「私」に相当するだろう単語。意味はまだ足りない。
「ぜろ、いち、に、さん、よん……」
相手に見つめられる中で、俺はゆっくりと声を出して指を十本まで伸ばす。
「ご、ろく、しち、はち、きゅう、じゅう」
両手を広げて、これで終わり。
「ぜろ、いち、に、さん、よん、ご、ろく、しち、はち、きゅう、じゅう」
相手がそれを真似した。そこまでは想定内だった。想定外だったのは発音だ。まず低めの声。彼女のそれまでの声も落ち着いてはいたが、ここまでではなかった。
「真似された?」
── 事実上模倣: タイミングはほぼ一秒間隔
小声にすぐ返ってくる文章。向こうはこちらに完全に合わせに来ている。ただ、確かにそれが妥当だというのもわかる。こちらのほうが色々と準備をしてきているし、主導権を握っている立場にあるのだ。
そして彼女の発話タイミングはタイマーの意味を理解していることを意味する。さて、算数の時間を始めよう。
「ゴールデンレコードかLincos?」
一瞬酷い誤字が映るが、察してくれたBIFRONSが修正してくれる。
── 生成済みです
「さすが」
そう囁くように呟いて、俺はインフォーマントを見る。
「まずは単語と、比較的単純な計算の話からしよう。数っていうのがあると区別であるとか比較とかに便利だからな」
そう言ってノートパソコンに映った数式を相手に見せる。八個の式は、どれも一桁同士の足し算だ。
「いち、たす、よん、は、ご」
俺が最初の式に指を当てて言う。
「さん、たす、ろく、は、きゅう。ご、たす、に、は、なな」
まだ言っていないのに次の式を読み始めた。うん、やってほしかったことそのものなのだが、これを普通の人間ができるとは思っていなかったのでかなり驚きだ。あとかなり発音が上手い。多少の癖が残っているが、方言研究を一時期やっていた耳からするとどこの地域だろうと考えてしまう程度には日本語だ。
例えばいきなり「シネ、
つまり相当な記憶力か観察力か、あるいは一回で全部覚えるという気合があるということだ。教える側としては楽でいいが、学ばれる側としてはちょっと思うところがある。
「よんたすきゅうはじゅうさん」
「ななたすはちはじゅうご」
俺と彼女がそんな事をしばらく続けていれば、加算と二桁の文字の読み方は終わった。
「どうするのがいいかね」
── 主題に対する係助詞としての「は」の方向
「計算を進めるのは?」
── 数学概念の共有は後でも良い
「はいはい」
「じゅうごたすじゅうななは、さん、じゅう、に?」
上昇調のイントネーションで、彼女は尋ねてきた。
── はい。十五足す十七は三十二です。
俺はBIFRONSが出した文字を読みながら、相手がどこまで読んでいるのかを読めずにいた。
たしかに俺は何度か上昇調を使った。だが、それが疑問文だとわかるだけの回数は使ったか?
── 相手は効率的学習を志向しています
「なるほど、外れて上等ってことか」
もし相手がBIFRONS級の処理能力を持っているなら、あるいは独自の言語学体系を持っているなら、それは不可能ではない。しかし、俺には無理だ。
「任せる」
そう言って、俺はパスコードを打ち込む。IitEwkwtbwb。一応法律とかガイドラインでこの水準の人工知能を使用するときには管理権限がどうこうとかあるからな。
あるいは
── 任された
深呼吸を一つ。ここにいるのは二つの高度な知性だ。そして俺はその仲介役。もちろんまずい事態が起こっていると俺が判断できれば止めるが、それは自動運転車の運転手が一般道ではブレーキに足をおいてハンドルを握っていることを一応は義務付けられているというやつだ。大抵はそれより先に車のセンサーが自動で避けてくれる。
「それでは、基本的な日本語の文法を説明していきます」
一字一句、間違えないように。合成音声にしろよとも思ったが、相手も人間という物理インターフェイスを使っている以上、それを使ってどう日本語を話しているか見せたほうがいいという考えなのだろうな。