超越少女は路を示すが旅をするのは俺達だ   作:小沼高希

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マックスフロー・ミニカット 5

ソファーに四辻さんが埋もれている。外出に慣れていないのか、かなり体力の消耗があるようだ。ただそれでもかなり回復が早い。俺がもう歳なのかもしれないが。

 

「……分野体系が、ぜんぜん違う」

 

「予習はしていただろ」

 

「予習していたとはいえ、かなり多くのことが全く異なる原理と分析方式で構築されている」

 

まあ、そういうこともあるか。俺はおそらく計算機科学の分野であれば百年前の真空管時代の一流の専門家たちに勝てるだろうが、電気回路の特性とかについては議論できないだろう。もし当時の大学の授業を受けたら、追いつけるはずもない。たとえ最終的な結論は知っていたとしても、その過程が全く異なるのだ。

 

四辻さんが感じているのもそれだろう。彼女に埋め込まれている知識はかなり体系化されて、無駄がなく導出されている。理論物理学みたいな比較的理路整然とした分野でさえ、定番とされる教科書が生まれるのは二十年ぐらいだろうか。

 

「BIFRONS、理論と教科書のタイムラグってどのぐらいだ?」

 

『量子力学ではポール・ディラックのThe Principles of Quantum Mechanicsが1930年とほぼ同時期にでていますが、相対性理論ではおよそ半世紀の時間が必要でした』

 

「量子力学怖いな」

 

『共通言語が求められていた、というのが大きいと考えられます。それまでにある程度の実験的な積み重ねがあったうえで、必要となっていたのが適切な数学体系と表記でした』

 

「あー、ディラックってブラケット?」

 

『はい』

 

「あの記法は人間の紙上処理に向いているようで、あまり綺麗だとは思わない」

 

そういう四辻さんの声色は拗ねている、のだろうか。問題のあるものを学んで、それに合わせて自分のきれいな知識を解釈して出さねばならないというのはストレスが溜まるものなのかもしれない。ただ四辻さんがその種の、なんていうな人間らしい知的怠惰を見せるというのは珍しいので面白い。

 

「ところで人類ってどのぐらい表記方法に縛られているんだ?」

 

「かなり」

 

『より効率的な表記方法を導入していたならば、二十世紀までの理論で既に量子重力理論の基盤が構築できた可能性もあります』

 

思ったより障害が大きいな。人間が言語に縛られているなんて言うのは言語学においてよくある話であるが、数学理論でもそういうものがあるのか。

 

「とはいえそれは後出しの議論なんじゃないのか?」

 

『もちろんです』

 

「よかった」

 

答えを知っている未来の視点から見た時、過去の人間が変なことをしているように見えることはままある。フロギストンの質量が負と考えるより、燃焼の過程で大気中の何かが金属と結合して酸化物になると考えたほうが合理的に思えるのだ。ただ、こういう考え方はそもそも当時見ることのできていた燃焼反応が基本的に有機物、具体的には木を燃やした時のものが中心だったことを忘れがちなのだ。

 

『とはいえ、今から数学を丸ごと作り直すのは困難です』

 

「つまり経路変更をでっち上げる必要があって……そういえばあれってうまく行っているんだろうか」

 

Rχiv(アーカイブ)系列のところに投稿した論文を思い出して、俺はパソコンで軽く調べる。アクセス数は伸びているわけじゃないな。引用は、おっSNSで触れている人がいる。フォローの傾向からするとアカデミアの人かな、名前は本名ではないらしいがもし調べる気になれば特定できるだろうというぐらいに特定地域の大学関連の投稿をしている。ただこの人がいるのイギリスなんだよな。

 

「日本国外には行かないほうがいい?」

 

「さすがに止められそうなんだよな、外交系のそういう集団に紛れるとしても、そこに入る理由は必要になるし」

 

「……ある程度、異言語を学んでみる」

 

「ただでさえ英語俺よりうまくなっているんだからほどほどにしてくれ」

 

彼女は既に英語の論文をそのまま読めるほどの英語力を持っている。それは数学とか物理とかの専門性が高い分野であっても、だ。かなり怖い。とはいえ日本語を学ぶことができたのだからそれぐらいはできるという考え方もあるし、所詮は論文みたいな文法的にしっかりしていて構造的な文章しか読解できないとも言える。

 

一般的に、日常会話というのは言語タスクの中で非常に難しいものだ。一流の人間ですら、小説の翻訳にはどうしても悩ましい場所が出る。背景を理解したうえで、それぞれの言葉の意味や対応をある程度保ちながら、原語の読後感を再現するようにしなければならない。それに比べれば論文なんか逐語訳でいいからな。特に先端分野なんて和訳したところで専門用語に適切な対応している語がないせいで半分以上英語が残るなんてことも珍しくない。

 

『それはそうと、常にリスクがあることは理解してください。行動が増えれば増えるほど、四辻さんが危険に巻き込まれる可能性は高まります』

 

「それはそうなんだが、須藤さんはどういう認識なんだろうな」

 

このあたりは非常に小さい確率と発生した時の大きな損失の掛け算みたいなところがある。そして四辻さんが転んで頭を打って死ぬ確率よりも低いことを考えるのはそこまで現実的ではない。それに、ある理論の発明者とか関係者とかに何かをして得られる利益というのは基本的にはないのだ。

 

そのただでさえ低い四辻さんの価値は、もっと下がりつつある。須藤さんは自分の命程度ではその秘密を公開することはないだろうが、国家百年の計に問題が出るようであれば平気でそれを仮想敵国にだって投げ渡すだろう。そもそもこの技術を軍事転用とか安全保障の観点の水準まで扱えるようにするまで時間が掛かるし、それを早めるためには四辻さんはあまり役に立たない。

 

いや、もちろん例えば便利な超伝導体を作るにあたって四辻さんをラボに立たせて作業させればそれなりに優秀な人材になるとは思いますよ。少なくとも三河工業大学で首席を狙うぐらいのことは容易だろう。一流の研究者になれるかはちょっと不安だが。

 

「わからないなら、聞いてみれば?」

 

四辻さんが言う。それもそうだ。連絡は取ることができるし、それに報告と連絡と相談ってやつは金をもらって仕事をしているのであれば管理職とやっておくべきものだ。実際に俺達が雇用されているのは国のはずなんだが、特に研究機関とかは複雑な金の流れになっているから直属の上司とは言えないのがもどかしい。

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