アカデミック・ジーニアロジー 1
公聴会の時間は、発表が四十分に質疑応答が三十分。ここで受けたものをもとにブラッシュアップをして最終稿を作成し、最終口頭試問が来年の二月に行われる。
世間はまもなくクリスマスだという。へぇ。
「……じっとできないな」
俺はそう言って冷たい廊下のベンチから立ち上がる。三河工業大学には九年間いたわけだし、愛着もそれなりにあるが、ここ一年は赤城にいた時間のほうが長かったので色々と不思議な気分だ。
立ち上がり、ちょっと周囲をうろついて、深呼吸をして、まだなんかそわそわしている。
論文を読んでおくとか、質疑応答に備えておくみたいなことはしない。それはもうここ半月ずっとやってきた。四辻さんとBIFRONSの追求にかろうじて耐えられるほどには、俺の生身の脳も鍛えられたはずだ。やっていることは蒸留にも似ているんですけれどもね。
ニューラルネットワークにおける知識蒸留。古典的手法でありながら、今なお人工知能の圧縮や転移学習について不動の地位を持つ概念を提唱したものだ。ちゃんと読んだことはないです。
たぶん、半年もしたらこうやって詰め込んだものも忘れるのだろう。それでいい。俺が小笠原語をやるのも、今年度が最後になる。言語学だってちゃんとやることはなくなるだろう。宮部先生に対しては少し申し訳ない気持ちもあるが、世界には廃れていくものが多いのだ。多すぎるぐらいなのだ。
人口は限られていて、博士号に行ける人数にも色々な制約がつく。経済的に言えば俺達みたいな生産性のない階層を維持するためには追加の行政とか正当化のコストが必要になる。特に俺の研究は社会にどれだけ還元されるのかよくわからない領域だ。
もちろん、今の経済を見るに何かを生み出さないと価値がないといい切るのは危なすぎる。通貨がそれなりに機能していて、役に立ちにくい分野よりも役に立ちやすい分野のほうが促進されている。将来にどのような分野が有用になるかはわからないから、完全に割り振るのは得策ではないのだろう。
そうとはわかっていても、俺が卒業をしたら三年ぐらいやってきた分野がほぼ終わってしまうというのはどこか胸が痛むものだ。後継者がもしいた時のために色々と情報は残しておいてあるが、それでも学び直すのには時間がかかるだろう。
だからといって、俺が言語学の分野で食べていけるようなポストがあるわけではない。本職の人達に比べればフィールドワークも文献の読み込みも浅く、あと十年ぐらいで人工知能が学術界にもっとしっかり浸透してくれば俺の研究は修士論文レベルになるだろう。ソフトウェアのチュートリアルに追加でなにかしたぐらいのものだ。
「……嫌な考えが巡っているときは、疲れているかお腹が空いているかだ」
わざと声に出す。思考だけならごまかせるが、声帯を震わせて口を動かすとなるとどうしても直面することになる。ちょっとコンビニに行っておにぎりとか買っておこうかな。そんな事を考えながら立ち上がり、冷たい風に身体を晒す。
早めの昼食はここに来る前に取っているのに、精神の高ぶりみたいなもののせいで身体の感覚が奇妙になっている。深呼吸。少し身体を伸ばす。大丈夫。ここから落ちる可能性は事実上ない。
考えてみれば、卒業に必要な要件はだいたい満たしているのだ。BIFRONSの批評はかなり信頼できる。一昔前のおべっか使いではなく、様々な分野のジェネラリストとして現状での問題指摘と評価をしてくれる。そして、問題についてはテーマ上どうしようもないものとかやり直すのにあと半年かかるだろう研究とかそっちに進むと工学から出てしまうんですよみたいなところを除いてはカバーしてある。
今日来てくれる人は暇な人ばかりではない。四辻さんに出会う前から何回か話を聞いた言語学の本職の人もいれば、同じ大学の教授だからといって引っ張り出されたような人もいる。説明は専門性を持たせているが、前提知識が少ない人でも興味を持てる場所がちゃんとあるように作っている、はずだ。
とかなんとか悩んでいたら電子レンジであたためたコンビニのおにぎりはお腹の中に消えていて、発表時刻が迫っていた。俺とあともう一人が話すことになる。俺の次に一時間近くかけて詰められるのは土木系の人だ。一応浮世の義理ってやつで俺も聞いてやる。
服装を確認。久しぶりに出してきた革靴とスーツは、大学に入った時に買ったものだ。体型があまり変わっていなくて助かっているが、確か体重は少しだけ減っているんだよな。頭の中で筋肉と脂肪の密度とか連立方程式とかを考えてしまったがそれぐらいにしておこう。
会場となる教室には、もう既に司会担当の学部生が来ていた。小さく礼をして、事前に提出していたスライドがちゃんと映ることを確認。こういうところでミスをしたらどうしようもないですからね。誤字とかも、見た限りではなかった。
タイムスケジュールは大丈夫。スライド練習は文字通りに二十四時間ぐらいした。論文の草稿も今すぐ提出しても問題ないぐらいに練り上げた。なにせこっちには人類の知性を超えている存在が二人もついているんだぞ、謝辞にはその他の皆さま枠になっていますけれどもね。先工研の皆様とか、計算資源の提供とか。嘘ではない。
俺みたいな年齢になると、色々な人の名前が謝辞に入ることは珍しくない。分野によっては支えてくれた配偶者と子供にみたいな事もあったりする。俺も博士課程入ってから数えるほどしか会っていない両親についてもちゃんと書いたからな。
ああ、ひどいものだと俺は口角を上げる。役に立たない研究に、飾りみたいな博士号。それが俺の何を証明するってわけでもないし、きっと今後人類にこの博士論文の学術的系譜が続くことはないだろう。
それでもいい。俺の公的な名誉は、そのぐらいで十分だ。あとは世界に散らばってくれ。誰かのちょっとした幸せの積み重ねになってくれ。ちっぽけな祈りみたいなものだ。緊張のせいで気分が変になってセンチメンタルにでもなっているのだろうか。
「まもなく、発表が始まります。発表者の方は準備をお願いします」
マイク越しに司会の学生の声が聞こえた。俺はネクタイを整えてレーザーポインターを握りしめ、教室の前の演台に立った。