超越少女は路を示すが旅をするのは俺達だ   作:小沼高希

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アカデミック・ジーニアロジー 8

冬の風が、今日は少し和らいでいる。だから運動も兼ねて、四辻さんと少し散歩をすることにした。あるいは駅前のチェーン店の限定メニューを食べに来たとも言う。

 

「四辻さんから誘われるのはそういえば珍しいな」

 

「基本的に食堂の食事で不満はないから。けれども、時にはある程度のリスクを取る必要もある」

 

グヤーシュ。広告の画像によればごろごろとした肉の入った煮込み料理。肉が食べたい。食堂のご飯は胃袋がそう強いわけではない中年研究員に合わせて作ってあるので育ち盛りの女の子やよく食べる大学院生には少し物足りない。一応間食とか夜食とかちょくちょく作っていて四辻さんの腕前はかなり上がってきているんですよ。なんと彼女はフライパンを軽く振って綺麗なパンケーキを焼くことができます。

 

それが決して簡単ではないことを、俺は軽いやけどとともに理解した。腕の筋肉の量、それを制御する経験、持っているものの重心を把握して、それを動かした時に全体がどう反応するかを理解していなければならない。そしてそれを瞬時に行って、パンケーキをちょうど半回転するだけの時間と運動量を揃えなければならない。

 

「リスク、ね」

 

「私が食べたことのある食材は、世界にあるものから比べれば決して多いわけではない。それは調理のしやすさや量の確保、あるいは味の好みの傾向に強く依存している」

 

「だから変なものが食べたいと」

 

「変というわけではない。グヤーシュの構成要素自体は珍しいものではない。牛肉を食べる機会は多くはないし、あそこまで塊になっているものは食べたことがないけれども」

 

「食べたかったらステーキとか食べればいいだろ、遠いけれど」

 

「買いに行くための時間が惜しい」

 

「こういう散歩は?」

 

「必要なコスト」

 

なるほど、このあたりの価値関数が彼女は独自のようだ。そう考えてそれって単なる好みじゃないですかねという結論に行き当たる。好き嫌いと言ってもいい。

 

「……別に、もう四辻さんは好きに遊んで過ごしていいんだが」

 

「趣味になるようなものが今のところ知識の入出力が中心になっている」

 

「出す方も?」

 

「そう。個人の感じる価値観という側面においては、私は報酬を貰うに値する仕事をしているとは思えない」

 

「楽しく仕事ができる環境を作れていると安堵するべきか、あるいは仕事は単なる苦役の程度によって決定するわけではないみたいな話をするべきか」

 

「どちらもおそらく古瀬さんと同程度に議論できる知識がある」

 

「嘘つけ、俺はこの種の話を体系的にやったことがないぞ」

 

新書を数冊流し読みして、高校や学部時代にBIFRONSの知識確認という形で一日八時間ぐらい会話をしていた程度だ。それで引き出しは増えたが、底は浅い。ちゃんと専門書に目を通して体系的な知識をインストールしている四辻さんとは格が違うのだ。

 

「実際の社会の経験が私にはない」

 

「俺だってあるわけじゃないぞ」

 

「私の十倍以上、あなたはこの世界を見ていて、この世界の中にいる」

 

「……そう、だな」

 

俺は周囲を確認するが、人はいない。研究施設が並ぶこの道をわざわざ歩く人はいない。徒歩圏内で昼食を食べるとなると相当な長さの昼休みが必要になってしまう。それはそうと、少しは警戒するべきじゃないかと思ってしまう。四辻さんが聞かれないだろうと思って、あるいは引きこもっていたみたいな話でごまかせると思っているのかは知らないが。

 

「それはそれとして、ほとんどの人は世界を漫然と生きているのだなとは思う」

 

「意思を持って生き続けるっていうのは難しい、というのは言う必要があるか?」

 

「それができるように教育があるのでは?」

 

「……どうなんだろうな」

 

教育の目的とはなにか、みたいな話は色々ある。社会を維持したり、あるいは社会の外側に行かないようにしたり。四辻さんはそもそもこの世界の教育を受けていないし、それを今更受けても彼女の根幹が大きく変わることはないだろう。永遠の部外者である。

 

ただ、人間は多かれ少なかれ世界の部外者なのだ。完全に内側に入っている人はいない。どこか合わないなと感じながら、不具合をごまかしながら生きているのだ。

 

「少なくとも、あなたが博士号を取ったのは世界をちゃんと知りたいからだと思っている」

 

「それがないと就職が面倒だからだよ」

 

「そういう方向に進まないことだってできた。五年間を投じなくとも、働くことはできたはず」

 

「金とか労働環境とか色々選びやすくなるんだよ」

 

「そこまでして、したいことが?」

 

「……研究自体は、それなりに楽しかったがな」

 

心を見透かされている、わけではないだろう。俺がわかりやすいだけだ。そう思って、自分の心の中を侵害されているんじゃないかという妄想から来る恐怖を押し殺す。

 

それができるわけがない、とは思わない。人工知能に比べれば人間の脳はシンプルだ。少なくとも、感情的な行動はある程度の決まったパターンの組み合わせとして解釈できる。それをどう切り分けるかの議論は尽きないが、それでもある程度の型がありそうだというのは広く合意されている。

 

「研究のための研究をしているとまでは言わないけれども、研究したいものがあるというよりも研究の過程で得るものがある、と考える人だと思っている、私は古瀬さんを」

 

「軽率に文法を崩すな」

 

「発言者と対象を限定したほうがいいと後から気がついた、線状性を破れない口頭言語が悪い」

 

「考えずに口を開くようになっている?」

 

「訓練の成果」

 

自慢げに言うなよ。人間の脳が一度に処理できることには限界があるし、ある程度効率を求めれば精度は犠牲になる。無料の昼食なんてものはなくて、その対価はどこかで支払われているのだ。人工知能の分野ではいかに人間に近づけるかみたいな話で本当の人間性の判定は人間の脳の中に存在するのだからそこをハックすればいいみたいな議論もあったな。

 

つまり生身の人間に近づけるのではなく、人間だと感じるような部分を重点的にいじっていくのだ。同情を誘うような行動とか、共感しているような態度とか。でもあまりそれをやりすぎると逆に人工知能らしさが出るという奇妙なパラドックスがある。

 

中途半端なぐらいがちょうどいい、とかであれば四辻さんはその領域に入り始めているのだろう。変わった不思議な女性というぐらいであれば、この世界には大勢いるのだ。

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