超越少女は路を示すが旅をするのは俺達だ   作:小沼高希

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アカデミック・ジーニアロジー 9

印刷機から吐き出される生暖かい透かし入り用紙。それが俺の博士号を証明する書類だ。

 

工学博士を授与されたことを証明する。これを博士(工学)なんていうセンスの欠片もないものに変えようとした事があったらしいと考えると恐ろしい。

 

「……終わった!」

 

そう言って紙をファイルに戻す。記念品と学位記と後輩から送られた一升瓶のせいで重い。というかあの、そういう卒業記念品の話を俺は聞いたことがないんですが。どうやら学生たちがある程度お金を出し合うみたいな伝統があるようで、修士から入ってきてあまり後輩や先輩たちとかとゼミ以外で顔を合わせることがなかったので知らなかったのも仕方がない。そういうふうにD1の後輩に言って雑に財布の中にあった五万円を渡したら議論になっていた。

 

どうやら古瀬記念基金として資産運用をするべきだとか、この後の追い出し会で使うべきだとか議論になっている。金ならそれなりに余っているんだよ。一応はパートタイムということになっているのに先工研の給料は悪くはない。フルタイムで働くことになったらどうなるのだろうか。須藤さんから裁量労働制の枠に入れてくれるという話だったので期待しておこう。

 

「いやぁ、君ももう卒業か」

 

居酒屋というには料理のメニューが豊富な大学近くのお店の小さな席に、俺と宮部先生は押し込まれる。一応部外者枠に近いですし、宮部先生を扱えるのは俺だけですからね。岩間研究室の皆様からは宮部名誉教授は良くわからないしあまり近づきたくない老人扱いされているそうだ。否定はしないけれどもね。

 

「はい。短い間でしたが、本当にお世話になりました」

 

頭を深々と下げる。この感謝は嘘ではない。この爺さんには俺の論文の半分はわからないだろうという気持ちと、この爺さんは俺の論文を半分はわかっているんだよなという畏怖がある。それに彼は俺と同じぐらいの年齢の時に磁気テープ式の録音機材を持ってあちこちに行って貴重な記録を残したし、大学で教鞭を取りながらそれをデジタル化することを怠らずにいたのだ。

 

宮部名誉教授は、もう古い人だ。知り合いももはや少なく、存在する業界自体が衰退している。重鎮というわけでもなく、時代が時代なら万年助教となっている人だ。彼が工学系大学で教養系の教授として働けたのは、色々と奇跡的なところがある。

 

それでもこの三河工業大学の人文知と呼ぶべきものの一角を築いた人物だ。そこに敬意は払わなければならない。たとえ酒で禿頭の肌が赤くなって、楽しそうに大笑いして周囲からちょっと白い目線を向けられている男であったとしても。

 

「大変な仕事だろうが、頑張ってほしい」

 

「ただの公務員ですよ」

 

酒が入っているが大丈夫か、とちょっと不安になりながら俺は甘いノンアルのカクテルを飲む。こういうものが昔は殆どなかったらしいのでいい時代だ。実際ここに来ている人でアルコールを摂取しているのは半数切っているんじゃないだろうか。

 

「……別にな、人生逃げたっていいんだぞ」

 

「宮部先生は、逃げたことがあるんですか?」

 

俺はちょっとだけ口角を上げ、冗談だという表情を作りながら言う。

 

「ああ、僕だって色々隠したいことも、話したくないことも、あるんだよ」

 

「……そうです、よね」

 

大学というのはそれなりに複雑な社会だ。人間が一定数いて、そこに利害関係があればシステムは勝手に複雑になっていく。そしてアカデミアというのは国の税金を使って危険人物が一般社会にでないように隔離しておく空間だ。赤城先端学術都市で過ごしているとそういう事がよくわかる。あそこは巨大な牢獄だ。高い柵で囲われた敷地が両側にずっと並ぶ幅広の道は、刑務所と同じような構造をしている。

 

「もちろん、一度立ち上がった椅子に座り直すことができるとは限らないのは覚えておけよ。それでも椅子は探せば結構あるんだ。座っちまえば案外馴染むものだしな」

 

「覚えておきます」

 

四辻さんの手を引いてどこかに逃げる、とか考えて無理だなとすぐに気がついた。逃げる人を見つけ出すというのが決して容易ではないとはいえ、逃げ続けるのはきっとそれ以上に難しいだろう。それに逃げてどこに行くんだという話でもある。四辻さんの幸せはきっと管理された空間で頭を回しながら知らないことを学んでいくことだ。今の地下室じゃないか。

 

「とかなんとか言ってるがな、僕は君が逃げないかがかなり心配なんだよ」

 

「俺ってそんなに信用がありませんか?」

 

別に授業をそんなに欠席したわけでもなし、岩間研究室にはコアタイムみたいな概念がないから週一の全体ゼミに顔を出してすぐ帰るみたいな感じだったとはいえ逃げてはいないだろ。たぶん。

 

「逃げるっていうか、得意なことから出れないって方がいいか?」

 

「ああ、それならその危惧は間違っていないと思います」

 

人工知能に頼り切った人間、と言われればまさにその通りである。最近のインテリの皆様は人類の劣化についての議論が好きですからね。プラトンか誰かも書き言葉って話し言葉に比べれば劣るよねみたいな話をしていたはずだ。ちゃんと原文を読んでいないから突っ込まれたら勝てない。

 

「強みを伸ばして、そこで戦うのも大切だが、自分の弱いところがあって、なんていうかそこもちゃんと使うのもなぁ……」

 

そう言って宮部先生は水を飲んだ。うん、酔っている老人の話は話半分に聞こう。単純な利益からいえば俺が彼から受け取れるものはそうあるわけではない。そういう言い訳で自分の中の面倒な道徳心を適当に殺しておく。俺はそういうものをアルコールでなかなか飛ばせないらしい。

 

「でも戦わないですむならそれが一番ですよ」

 

「シー・ウィース・パセム」

 

「パラ・ベラム……ラテン語の発音ですか?」

 

汝平和を欲さば、戦の備えをせよ。有名な格言だ。

 

「君のそれは英語読みだな、よくないぞ英語帝国主義は」

 

「アメリカ語帝国主義って言いましょうよ、連合王国はもう衰退しましたよ」

 

「アメリカだってあの体たらくだ、衰退しているだろ」

 

「それは……そうですね」

 

この程度の話ができる、というのは三河工業大学ではあまりない関係だった。岩間教授はできるけど知識がちょっと怪しいんだよな。その点宮部先生は王道の人文学者で、フランス語とかドイツ語とかは今でもちゃんと読めるそうだ。俺は結局、そういう形の知を手にはできなかったんだな。

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