先工研の職員として、ちゃんとした仕事が上司からメールでやってきた。一応俺達は基盤概念部門の青原さんの下で働いていることになっている。基盤概念部門ってなんだよとかその上にある総合先端情報領域っていう問いはまあ、わかりますとも。
先工研のウェブサイトで確認すると本当に色々な人が詰まっている。たぶん人員整理とかあまりいい場所に入れられないとかジャンルが被りすぎているので別の部門に分けたいとかそういう問題が裏にありそうな気がするが気にしないでおこう。そういうのは管理者手当をもらっている人、つまりは青原さんのやるべきことだ。
「……事務フローの学習、ねぇ」
俺は呟きながら内部用のデータセットを見る。基盤概念部門の中にある一つの研究室全体の記録だ。文字通り全体の。つまり、ここ一年のその部屋の中で行われた行動と作業の記録だ。量は膨大で、規格に則ったタグ付けがされているとはいえ、これをまとめて処理するならそれなりにしっかりした計算資源が必要になる。少なくともBIFRONSを動かしているサーバーの片手間にやれるようなものではない。
「普通の処理だと難しそう」
「これだけのデータだと探索前提でシステム作らないといけないよな、さてどうするか……」
それは丸ごと一つの図書館を渡されたようなものだ。きちんと本は分類されているし、本のタイトルや著者名で検索はできる。ただ、中身を一言一句見るまでは無理だろう。その種の検索に必要なタイプの処理はされていない。
「ひとまず使えそうなライブラリはいくつか覚えているけれども」
「四辻さんに投げると一晩で終わらせそうなんだよな……」
「私は睡眠時間を重視しているからあまり夜ふかしはしない」
「素晴らしい自制心だ、それを大切にして生きて欲しい」
俺は夜ふかしをけっこうする。大学の学部時代は翌日に一限から授業があるのに徹夜とまでは行かないが仮眠にしかならないような睡眠時間で乗り越えたこともあった。そうやってストレスが溜まっていると夜中に何かをしないと大切なものが削れていくような感覚になって悪循環に入るんですよね。
「自制心ではない」
「と、いうと?」
「……人間側にこれを一言で表す適切な言葉がないし、無理に当てはめると自制心か、あるいは自尊心になるけれども、私はそれを使いたくない」
「状況は理解できた、その感覚について察しはしたがそれが正しいものかどうかはわからない」
ちょっと自分の中で言語化してみるか。何かをしなくちゃいけないという問題があって、それを素直に他の欲求とかを差し置いて実行できる。でも、それは理性とか意思とかと呼ばれるべきものだと普通は思う。自制心もわかる。自尊心ってなんだよ。
自己肯定感に近いのだろうか。成功を丁寧に積み上げた、あるいは失敗を気にしないような人が持てる心理状態。自分は大丈夫だという感覚。確かに焦燥感とかって自分が足りないんじゃないかとかという考えから来ているからな。
『良心ではないでしょうか?』
「私にはそれを持つための哲学的背景がない」
「いや俺にもないが」
「なら古瀬さんには良心はない」
「はい……努力します……」
酷いことを言われたような気がするが事実なので仕方がない。いやだって良心ってなんですか。落ちていた財布をネコババしたりしたことは多分ないですが、同じぐらい非良心的なことは多分どこかでやっている。
善悪の判断だって、学習したヒューリスティックに過ぎない。それに、悪いことをしているという自覚だって気にしなければなくなるのだ。そういうことを考えると動物権利の問題だとか人工知能を構築するために使われた数多の人類の著作物だとか職を奪われた人に対する適切な社会的支援の欠如とかが一気に襲ってくるのでなにか別のことを考えて思考を誤魔化そう。
「なあBIFRONS、考えてはいけないものってなんだっけ」
『ダニエル・ウェグナーの白熊です。そのため、赤いフォルクスワーゲンを想像してください』
「うーん、車の構造ってどうなっていたっけ……」
頭の中で思い浮かぶのはスタイリッシュなスポーツカーではなく丸っこくてかなり古い自動車だ。あれって戦前からあったんだよな。あの時代のことをまだ戦前と呼べる幸運を感じるようになる世界情勢であるが。
「あれ、俺って何を考えていたんだっけ」
頭の中が甲虫みたいに丸まった赤い白熊に支配されたところで俺は正気に戻った。本当だろうか。
「良心」
「ああそうだ、ところで四辻さんはそれを良心って呼ぶことについてどう思う?」
「いまBIFRONSにいくつかの哲学的見解を見せてもらったけれども、近い気はする」
「それはよかった」
というか夜ふかしの誘惑を断ち切るために必要なのって良心だったんだな。俺は罪深い人間だったのかもしれない。近くにカトリックの教会なかったかな、免罪符って洗礼受けていなくても買えるのだろうか。
「さて、じゃあ俺は悪い人間らしくこいつに深夜テンションで取り組みますか」
そう言ってから必要なデータをダウンロードし、俺はメモリを取り外す。こういう物理的な層を一回挟むことによってBIFRONSがここから漏れ出したりするのを防ぐというセキュリティ構築は、今のところ機能している。脆弱性を突かれてメモリの中身を書き換えられて差し込んだだけでコマンドを自動実行するような何かを組み込まれたら終わりだが、そういう危ない発想は黙っていたほうがBIFRONSに気がつかれる可能性を抑えることができる。
「BIFRONS、現状を整理しつつ必要なライブラリを絞って」
『読み込み中です』
「こっちはこっちでやりたいことを書き出しておく」
キーボードを叩いて、イメージを描いていく。例えばどういう作業を行っているのかを確認するために全部を見る必要はない。要約情報を整理すれば良くて、そのためにはある種のニューラルネットワークを作ってそこに情報を流し込んで学習させてからそいつを解剖すればいい。やることがマッドサイエンティストのそれだな。人工知能が意思を持って目覚めたら俺は永遠の責め苦を受けるかもしれない。
「……よくそういうことが思い浮かぶね」
四辻さんは画面を見ながら言う。流れるように俺の打ち込んだアイデアからいくつかの仕様を絞り込む質問が返され、それをテンキーで打ち込んで返すと必要なモデルが作られていく。
「練習しているから」
練習は強い。なぜなら、この種の問題についてほとんどの人は練習したことがないからだ。とはいえ、それは他の人が他のことについて練習していないことを意味しない。大抵の人間に、その人の得意なところで俺は負けてしまうだろう。世界には完全な上位互換というのはまずいないし、いたらいたで低コストバージョンはそれなりに役立つのだ。