控え室の照明は落とされ、カーテン越しの昼光だけが、柔らかく床に滲んでいた。
仕事と仕事の隙間に生まれた、ほんの数十分の空白。
黒川あかねは、その時間を逃さない。
ソファに座り、膝の上でゲーム機を起動する。
――『お兄ちゃんメモリアル1.2』
タイトル画面の音楽が流れただけで、胸の奥がほどけていく。
このゲームを渡してくれたルビーの顔が、自然と思い浮かんだ。
「ちゃんとプレイすれば、幸せになるルートあるからね」
冗談めかした言い方だったけれど、その言葉は今も確かにここにある。
画面の中で、アクアはいつも通り不器用だ。
言葉は少なく、表情も硬い。
それでも、選択肢を重ねるたびに、少しずつ距離が縮まっていく。
その過程が、あかねは好きだった。
急がず、焦らず、ちゃんと「わかり合おう」とする時間。
エンディングが近づくと、音楽が変わる。
優しく、どこか懐かしい旋律。
画面が暗転し、現れる一枚絵。
誓いの言葉を交わすアクアと、彼の腕にそっと手を添える自分。
ウェディングドレスの白は眩しすぎず、ただ穏やかで。
アクアの横顔は、珍しく迷いがなく、静かな安心に満ちていた。
「……こんな顔、するんだ」
思わず、あかねは呟く。
それがゲームだとわかっていても、胸が締め付けられるほど、優しい。
クリア表示が出ても、すぐにはボタンを押さなかった。
時間が止まってくれればいいと、ほんの一瞬だけ思う。
けれど、やがて指が動く。
エンディングを閉じ、また最初へ。
あかねは、このゲームを一日に一度、必ず終わらせる。
それは自分を慰めるためでも、夢に逃げるためでもない。
――大丈夫。
――こんな未来を、願ってもいい。
そう、自分に許可を出すための、静かな儀式。
控え室の外から、スタッフの声が聞こえる。
現実が近づいてくる気配。
あかねはゲーム機の画面を見つめ、微笑んだ。
またね、アクアくん。
そして彼女は、静かに物語をはじめる。
――
ソファに深く腰掛け、かなはゲーム機を両手で抱えている。
膝をきゅっと閉じ、画面を覗き込む姿勢は、妙に真剣だ。
「……これ、ほんとに改良版なんでしょうね……」
タイトルロゴ。
――『お兄ちゃんメモリアル1.5』
前回のバージョンでは、
好感度が急降下するわ、意味不明な修羅場は起きるわ、
挙げ句の果てに「悪役令嬢・有馬かな」に罵倒されるわで散々だった。
それが今回は、かなの不満点を修正した完全調整版。
そう、ルビーは自信満々に言っていた。
「かなちゃん専用だよ♡」
その言葉を思い出し、かなはごくりと唾を飲んでスタートを押す。
――
ゲーム内。
アクアとかなは街中デートの真っ最中だった。
映画館、カフェ、ちょっとした街歩き。
――あ、ここで転ぶイベントだ。
ゲーム内の自分が見事につまずく。
反射的に息を呑むかな。
『大丈夫か?』
画面の中のアクアが、自然に腕を伸ばす。
フォロー完璧。減点なし。むしろ好感度アップ。
「……っ」
かなの耳が、みるみる赤くなる。
「ちょ、ちょっと……優しすぎでしょ……」
選択肢を選ぶ指が、わずかに震える。
失敗しても、拗ねても、照れても、
ゲーム内のアクアはちゃんと受け止めてくれる。
「……なによこれ……甘すぎ……」
そう言いながら、口元はどうしても緩んでしまう。
イベント失敗どころか、好感度上昇のエフェクト。
「……っ」
かなは顔を逸らし、頬を指で押さえた。
「……そういうの……ずるいって……」
選択肢を選ぶたび、
失敗しても、言い訳しても、
アクアは必ずフォローしてくれる。
かなは照れ隠しに、足を小さくばたつかせた。
「なにこれ……
甘やかされすぎでしょ……!」
――
やがて、エンディング直前。
音楽が変わり、画面が暗転。
かなは無意識に背筋を伸ばす。
「……くる、よね……」
――ウエディングイベント。
純白のドレスを着たゲーム内かな。
隣に立つアクア。
「……ば、ばか……」
かなは口元を手で隠し、
指の隙間から画面を盗み見る。
その瞬間。
――バァン!!
豪快なSEとともに、悪役令嬢・有馬かなが乱入する。
赤黒いドレスに高笑い。
彼女は扇子をパチンと閉じ、冷笑する。
『その未来――
あなたには46億年早くってよ?』
扇子を広げ、続ける。
『アミノ酸からやり直してきなさいな』
「ちょっ ⋯⋯ふざけんなぁぁぁ!!」
「消したって言ったじゃない!
甘々ルートって言ったじゃない!」
画面では、悪役令嬢かなが悠然と立ち、ウェディングを完全に台無しにしていた。
――
「かなちゃーん?」
控え室のドアが開き、ルビーが顔を出す。
「……ルビー」
かなの笑顔は、逆に怖かった。
「ゲームどう?」
「どうって……」
かなはゆっくり立ち上がる。
「ぐりぐりぐり……!」
「いだだだだだだ!!」
拳がルビーのこめかみに食い込む。
即座に発動するぐりぐり地獄の刑。
「悪役令嬢かな、
消してないってどういうこと!?」
「だってぇ!
かなちゃんのツンデレ成分を
最大限に引き出す重要キャラで――」
「余計なことすんなぁぁぁ!!
自分に自分がマウント取ってくるゲームとか
聞いたことないわよ!!」
ぐりぐり、ぐりぐり。
「で、でも……
デートイベントは完璧でしょ?」
「……っ」
かなの動きが、ほんの一瞬止まる。
「……そこは……
まぁ……よかった……けど……」
「でしょー!」
「調子乗らない!!」
控え室には、
悲鳴と笑い声が交錯する。
画面の中では、
悪役令嬢かなが満足そうに微笑みながら、
こう呟いていた。
『――精進なさいな』
かなは赤い顔のまま、
今日もルビーをぐりぐりし続けるのだった。