星の子 アナザー   作:猫太鼓

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北斗の兄妹 ④

 

 その日は、ルビーの身体が軽かった。

 朝起きたとき、喉の奥に引っかかっていた違和感もなく、胸の冷えもない。息を吸っても苦しくならない。窓から差し込む光が、やけに眩しく感じられた。

 

「……ね、アクア」

 

 玄関先で、ルビーは少し遠慮がちに言った。

 

「今日の卵とり、ついていってもいいかな?」

 

 アクアは靴紐を結ぶ手を止め、妹を見る。

 顔色、目の動き、呼吸。すべてを確かめるように。

 

「……無理はするな」

 

「うん。大丈夫」

 

 短く息を吐き、アクアはマフラーを手に取ると、無言でルビーの首に巻いた。指先はぶっきらぼうだが、力は優しい。

 

 ルビーは目を瞬かせ、微笑んだ。

 

「ありがとう」

 

「……うむ」

 

 その足元で、ココが「連れていけ」と言わんばかりに鳴いた。

 

―――

 

 公園の池は、冬の光を映して静かだった。

 水鳥たちは岸辺に集まり、落ち葉の間から小さな命を守るように巣を作っている。

 

 アクアが身をかがめ、水鳥の巣に手を伸ばそうとした――その瞬間。

 

「相変わらず、いい場所知ってるな」

 

 背後から声がした。

 

 ルビーの背筋が、すっと冷える。

 音もなく、気配もなく、そこに“いた”。

 

 振り向いた先に立っていたのは、雲野だった。アクアの悪友であり、ルビーにとっても顔なじみの存在。

 

 アクアの目が細まる。

 

「……うぬか。何用だ」

 

 だが雲野は答えず、ルビーに視線を向ける。

 

「今日は元気そうだな。顔色がいい」

 

「……うん。ありがとう」

 

 ルビーは返事をしながら、アクアに小さく近づき、囁いた。

 

「怒ちゃだめだよ。たぶん、それが狙いだから」

 

「……うむ」

 

 雲野はそのやり取りを見て、今さら思い出したように言った。

 

「ああ、そうか。アクアもいたんだっけ」

 

 そして、片手を開く。

 

 その手のひらの上で、白く小さな卵が、ころりと転がった。

 

「今日の収穫だ。いいだろ?」

 

 空気が、変わった。

 

 アクアの周囲の気配が、目に見えない圧となって広がる。

 怒りは言葉にならず、ただ、沈黙としてそこにあった。

 

「……勝負しようぜ」

 

 雲野が言う。

 

「卵を賭けて」

 

 次の瞬間、地面が鳴った。

 

 アクアの踏み込みは、一直線。

 無駄のない剛拳が、空気を割る。

 

 だが雲野は、そこにいない。

 

 紙一重。

 形のない動き。定まらない重心。

 

 ルビーは見抜く。

「我流だよ、これ」

 

 雲野の拳は、型を持たない。

 流れ、ずれ、揺らぎ――捕まえどころがない。

 

 アクアの拳が空を裂くたび、地面にひびが走る。

 だが決定打が、入らない。

 

 ――無形。

 

 それゆえに、誰にも読めない。

 

 一瞬、そう思われた。

 

 だが。

 

 アクアは戦法をかえた。

 

 打撃があたらない? かまわぬ。

 ならば、そこにある全てを砕けばよい。

 

 アクアの拳は、雲野“本人”ではなく、眼前の空間そのモノを叩いた。

 

 衝撃。

 

 雲野の身体が吹き飛び、地面に転がる。

 

 片膝をつき、荒い息。

 

「……俺の、負けか」

 

 苦笑しながら、雲野は言った。

 

「今日はいけると思ったんだけどな」

 

 その前に、アクアが立つ。

 

「俺の勝ちだ」

 

 短い言葉。

 だがその眼差しには、確かな評価があった。

 

「約束どおり……卵はもらうぞ」

 

 そう言って、卵に目を向け――

 

 ない。

 

 いや。

 

 あった。

 

 ココが、夢中で卵を食べていた。

 

「……」

 

「……」

 

 アクアと雲野は、呆然と立ち尽くす。

 

 ルビーが、くすっと笑った。

 

「ココの……勝ちだね」

 

 次の瞬間、三人は揃って笑った。

 

 冬の公園に、穏やかな笑い声が溶けていく。

 

 ココは不思議そうに首をかしげ、尻尾を振って三人を見つめていた。

 

―――

 

 夕方の冷え込みが、窓ガラスをそっと曇らせていた。

 

 キッチンからは、ことことと鍋が煮える音。昆布の香りに、野菜の甘い匂いが混じって、家の中をやさしく満たしている。

 

「今日は冷えるから、お鍋にしたんだ」

 

 アイが振り返って微笑むと、リビングのローテーブルでくつろぐ二人が同時に顔を上げた。

 

「……うむ」

 

 短く頷くアクアの背筋は自然と伸びている。だが、その表情はどこか和らいでいた。外で見せる厳しさは、家の中では影を潜める。

 

「やった。母さんのお鍋、美味しいよね」

 

 ルビーはそう言って、膝の上のココを撫でる。

 

「ふふ、そう言ってもらえると作りがいがあるなあ」

 

 アイは嬉しそうに目を細め、別皿をテーブルの横に置く。

 

「これはココ用。味つけしてないからね」

 

 白い仔犬は、皿が置かれた瞬間に耳をぴんと立て、控えめに一声鳴いたあと、行儀よく食べ始めた。小さな口で一生懸命に噛みしめる様子に、ルビーの口元がふっと緩む。

 

「……よかった。ちゃんと食べてる」

 

「おまえは心配しすぎる」

 

 アクアはそう言いながらも、ルビーの様子をちらりと見る。その視線は短いが、確かに気にかけているものだった。

 

「うん。もう大丈夫だよ、アクア」

 

 ルビーは静かに微笑み、湯気の立つ鍋を見つめる。

 

 ――この景色。

 

 温かい食卓。母の声。兄の存在。足元にはココ。

 

 ルビーの胸に、穏やかな確信が広がる。

 

(……ここに、あるね)

 

 言葉にはしないが、アクアも同じ空気を感じていた。箸を持つ手が止まり、ほんの一瞬、アイを見る。

 

「……母者」

 

「なあに?」

 

「……うまい」

 

 それだけだったが、アイは驚いたように目を瞬かせ、すぐに柔らかく笑った。

 

「ありがとう。いっぱい食べてね」

 

 ルビーも頷く。

 

「母さんの料理は、心まで温まるよね」

 

「もう、二人とも大げさなんだから」

 

 そう言いながらも、アイの声は嬉しさを隠せていなかった。

 

 鍋を囲む三人と一匹。湯気のなかで、アイの声が、アクアの低い声が、ルビーの穏やかな声が、重なっていく。

 

 外は冷たい夜へと向かっているが、この家の中には、確かなぬくもりがあった。

 

 ルビーは、湯気越しに二人を見つめながら、胸の奥で静かに思う。

 

――よかった。

 

 アクアとルビーが望んだ世界は、ここにある。温かな食卓と、守られる日常と、寄り添う命が、確かにここにある。

 

 ルビーはココの頭を撫で、穏やかに目を伏せる。

 

 ココが満足そうに丸くなり、母さんが「おかわり、あるよ」と微笑む。

 

 その平凡で、かけがえのない夜は、ゆっくりと更けていった。

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