その日は、ルビーの身体が軽かった。
朝起きたとき、喉の奥に引っかかっていた違和感もなく、胸の冷えもない。息を吸っても苦しくならない。窓から差し込む光が、やけに眩しく感じられた。
「……ね、アクア」
玄関先で、ルビーは少し遠慮がちに言った。
「今日の卵とり、ついていってもいいかな?」
アクアは靴紐を結ぶ手を止め、妹を見る。
顔色、目の動き、呼吸。すべてを確かめるように。
「……無理はするな」
「うん。大丈夫」
短く息を吐き、アクアはマフラーを手に取ると、無言でルビーの首に巻いた。指先はぶっきらぼうだが、力は優しい。
ルビーは目を瞬かせ、微笑んだ。
「ありがとう」
「……うむ」
その足元で、ココが「連れていけ」と言わんばかりに鳴いた。
―――
公園の池は、冬の光を映して静かだった。
水鳥たちは岸辺に集まり、落ち葉の間から小さな命を守るように巣を作っている。
アクアが身をかがめ、水鳥の巣に手を伸ばそうとした――その瞬間。
「相変わらず、いい場所知ってるな」
背後から声がした。
ルビーの背筋が、すっと冷える。
音もなく、気配もなく、そこに“いた”。
振り向いた先に立っていたのは、雲野だった。アクアの悪友であり、ルビーにとっても顔なじみの存在。
アクアの目が細まる。
「……うぬか。何用だ」
だが雲野は答えず、ルビーに視線を向ける。
「今日は元気そうだな。顔色がいい」
「……うん。ありがとう」
ルビーは返事をしながら、アクアに小さく近づき、囁いた。
「怒ちゃだめだよ。たぶん、それが狙いだから」
「……うむ」
雲野はそのやり取りを見て、今さら思い出したように言った。
「ああ、そうか。アクアもいたんだっけ」
そして、片手を開く。
その手のひらの上で、白く小さな卵が、ころりと転がった。
「今日の収穫だ。いいだろ?」
空気が、変わった。
アクアの周囲の気配が、目に見えない圧となって広がる。
怒りは言葉にならず、ただ、沈黙としてそこにあった。
「……勝負しようぜ」
雲野が言う。
「卵を賭けて」
次の瞬間、地面が鳴った。
アクアの踏み込みは、一直線。
無駄のない剛拳が、空気を割る。
だが雲野は、そこにいない。
紙一重。
形のない動き。定まらない重心。
ルビーは見抜く。
「我流だよ、これ」
雲野の拳は、型を持たない。
流れ、ずれ、揺らぎ――捕まえどころがない。
アクアの拳が空を裂くたび、地面にひびが走る。
だが決定打が、入らない。
――無形。
それゆえに、誰にも読めない。
一瞬、そう思われた。
だが。
アクアは戦法をかえた。
打撃があたらない? かまわぬ。
ならば、そこにある全てを砕けばよい。
アクアの拳は、雲野“本人”ではなく、眼前の空間そのモノを叩いた。
衝撃。
雲野の身体が吹き飛び、地面に転がる。
片膝をつき、荒い息。
「……俺の、負けか」
苦笑しながら、雲野は言った。
「今日はいけると思ったんだけどな」
その前に、アクアが立つ。
「俺の勝ちだ」
短い言葉。
だがその眼差しには、確かな評価があった。
「約束どおり……卵はもらうぞ」
そう言って、卵に目を向け――
ない。
いや。
あった。
ココが、夢中で卵を食べていた。
「……」
「……」
アクアと雲野は、呆然と立ち尽くす。
ルビーが、くすっと笑った。
「ココの……勝ちだね」
次の瞬間、三人は揃って笑った。
冬の公園に、穏やかな笑い声が溶けていく。
ココは不思議そうに首をかしげ、尻尾を振って三人を見つめていた。
―――
夕方の冷え込みが、窓ガラスをそっと曇らせていた。
キッチンからは、ことことと鍋が煮える音。昆布の香りに、野菜の甘い匂いが混じって、家の中をやさしく満たしている。
「今日は冷えるから、お鍋にしたんだ」
アイが振り返って微笑むと、リビングのローテーブルでくつろぐ二人が同時に顔を上げた。
「……うむ」
短く頷くアクアの背筋は自然と伸びている。だが、その表情はどこか和らいでいた。外で見せる厳しさは、家の中では影を潜める。
「やった。母さんのお鍋、美味しいよね」
ルビーはそう言って、膝の上のココを撫でる。
「ふふ、そう言ってもらえると作りがいがあるなあ」
アイは嬉しそうに目を細め、別皿をテーブルの横に置く。
「これはココ用。味つけしてないからね」
白い仔犬は、皿が置かれた瞬間に耳をぴんと立て、控えめに一声鳴いたあと、行儀よく食べ始めた。小さな口で一生懸命に噛みしめる様子に、ルビーの口元がふっと緩む。
「……よかった。ちゃんと食べてる」
「おまえは心配しすぎる」
アクアはそう言いながらも、ルビーの様子をちらりと見る。その視線は短いが、確かに気にかけているものだった。
「うん。もう大丈夫だよ、アクア」
ルビーは静かに微笑み、湯気の立つ鍋を見つめる。
――この景色。
温かい食卓。母の声。兄の存在。足元にはココ。
ルビーの胸に、穏やかな確信が広がる。
(……ここに、あるね)
言葉にはしないが、アクアも同じ空気を感じていた。箸を持つ手が止まり、ほんの一瞬、アイを見る。
「……母者」
「なあに?」
「……うまい」
それだけだったが、アイは驚いたように目を瞬かせ、すぐに柔らかく笑った。
「ありがとう。いっぱい食べてね」
ルビーも頷く。
「母さんの料理は、心まで温まるよね」
「もう、二人とも大げさなんだから」
そう言いながらも、アイの声は嬉しさを隠せていなかった。
鍋を囲む三人と一匹。湯気のなかで、アイの声が、アクアの低い声が、ルビーの穏やかな声が、重なっていく。
外は冷たい夜へと向かっているが、この家の中には、確かなぬくもりがあった。
ルビーは、湯気越しに二人を見つめながら、胸の奥で静かに思う。
――よかった。
アクアとルビーが望んだ世界は、ここにある。温かな食卓と、守られる日常と、寄り添う命が、確かにここにある。
ルビーはココの頭を撫で、穏やかに目を伏せる。
ココが満足そうに丸くなり、母さんが「おかわり、あるよ」と微笑む。
その平凡で、かけがえのない夜は、ゆっくりと更けていった。