アクアたちが高校生になった、その年。
戦争が起きた。
それは、突然だった。
だが同時に、どこかで「いずれ来る」と誰もが薄々理解していたものでもあった。
核は使われなかった。
使う意味がないからだ。
汚染された土地など、誰も欲しがらない。
支配する価値も、奪う理由もない。
物量で押し潰せばいい。
人と街と歴史ごと、ただ押し流すだけでいい。
日本は、そうやって狙われた。
最初は、誰もが思っていた。
――友好国が助けてくれる、と。
だが、それは日本だけの思い込みだった。
声明は出た。
懸念も表明された。
だが、艦隊は動かず、兵は来なかった。
画面の向こうで語られる「遺憾」は、
現実の砲火よりも、ずっと冷たかった。
⸻
星野家のリビングは、異様なほど静かだった。
テレビは消され、カーテン越しの光だけが床に落ちている。
その中で、アクアは立っていた。
学生服のまま。
だが、その背中には、すでに覚悟が張りついていた。
「……俺は、行く」
低い声。
ルビーは、何も言わずに兄を見ていた。
胸の奥が、嫌な音を立てて軋む。
「仕掛けてきた大陸へ渡る。
この国を、母者を――守るためだ」
アイは、言葉を失っていた。
母として、止めるべきなのは分かっている。
だが、目の前の息子は、もはや「子供」ではなかった。
ルビーが、一歩前に出る。
「……アクア」
声は、震えていなかった。
それが、かえって怖かった。
アクアは、妹を見て、ほんのわずかに口元を緩めた。
「母者を、頼むぞ」
その笑顔は、静かで、穏やかで――
どこか、遠かった。
ルビーは、息を吸う。
「……うん」
それだけしか、言えなかった。
それが、
ルビーが見た、アクアの最後の笑顔だった。
⸻
玄関先。
雲野が立っていた。
いつもの軽い態度のまま、だが、その目は冗談を許さない色をしている。
「で? 本気で行くんだな」
「うむ」
短い肯定。
アクアは、振り返らずに言った。
「母者とルビーを、頼む」
雲野は一瞬、口を開きかけて――
すぐに、いつもの調子に戻した。
「はは。
おまえにそんなこと頼まれたら、断れねえだろ」
軽口。
だが、拳は強く握られていた。
「……しょうがねえな」
その目には、覚悟があった。
逃げない者の目。
残ることを選んだ者の目だった。
アクアは、わずかに頷いた。
「感謝する」
それだけ言うと、扉に手をかける。
ルビーは、何も言わなかった。
声を出せば、縋ってしまうと分かっていたから。
ただ、胸の奥で、祈る。
――帰ってきて。
扉が閉まる。
その音は、ひどく静かで、
それなのに、世界が一つ終わったように重かった。
ルビーは、母の手を握る。
アイは、何も言わずに、ただ強く握り返した。
戦争は、まだ始まったばかりだった。
⸻
大陸の中枢、地下深くに設えられた会議室。
重厚な机を囲む指導者たちは、部下の報告を聞いて――笑った。
「……冗談はよせ」
誰かが鼻で嗤う。
「日本に向かわせた先遣部隊が、消えた?
連絡が取れない? くだらん」
別の指導者が手を振る。
「末端の兵など、すぐに職務を怠る。
通信を切って逃げているだけだ」
必死に報告を続ける将校の声は、次第に震えていった。
「し、しかし……戦車部隊も、航空支援も……現地の映像が――」
「黙れ!」
怒号が飛ぶ。
机を叩き、指導者の一人が立ち上がった。
「貴様が無能だから、部下に舐められるのだ!
管理もできぬ者が、言い訳を並べるな!」
将校は、それ以上何も言えなかった。
事実を語ることが、罪になる場所だった。
⸻
アクアは、すでに大陸にいた。
ここに至るまで、いくつもの部隊が進路を塞いだ。
だが、それらはすべて――潰した。
そして今。
広大な平原に、戦車を中心とした部隊が展開していた。
砲身が揃い、機銃が空を睨み、兵士たちの指が引き金にかかる。
その正面に――
ただ一人、少年が立っている。
アクアは、ゆっくりと息を吐いた。
「……肩慣らしには、ちょうどいい」
口元に、不敵な笑み。
「かかってこい」
次の瞬間、世界が轟音に包まれた。
砲撃。
地面をえぐる爆炎。
機銃掃射が、雨のように降り注ぐ。
だが――
アクアは、止まらない。
一歩踏み出し、次の瞬間には距離を詰めている。
爆風を突き抜け、弾幕を裂き、むしろ速度を増していく。
拳が、振るわれた。
戦車の装甲が、紙のように歪み、砕けた。
蹴りが放たれれば、数トンの鋼鉄が宙を舞う。
兵士たちの叫びが、混乱に変わる。
「撃て! 止めろ!」
「あたらない……!」
次々と、部隊は壊滅していった。
生き残った兵たちが、恐怖に歪んだ声で叫ぶ。
「化け物……!」
「侵略者が!」
「この国から、出ていけ!」
アクアは、止まらない。
その声を、すべて受け止めながら、前に進む。
「……構わん」
低く、しかし確かな声。
「お前たちが正義でも、構わぬ」
拳が振るわれ、また一つ、命が戦場から消える。
「悪鬼羅刹と呼ばれようと、構わぬ」
血と炎の中で、アクアの瞳は揺れない。
「これは――俺のエゴだ」
踏みしめる大地が、割れる。
ただ、母者とルビーの未来のため
それだけだった。
⸻
その頃、大陸の指導者たちは、異変を悟り始めていた。
最初はよくある戦場伝説だと思った。
映像。
通信。
報告。
どれもが、同じ結論を指している。
「……通常兵器が、効いていない」
誰かが、かすれた声で呟く。
「たった一人……だと?」
沈黙が落ちた。
恐怖が、言葉を奪う。
そして――
一人の指導者が、狂った決断を下した。
「あの化け物に、通常兵器は通じない」
声は、冷静を装っていた。
だが、その目は追い詰められている。
「ならば……残る手はひとつ」
周囲が、息を呑む。
「核を撃て」
言葉は、選ばなかった。
赤いランプが灯る。
発射準備、完了。
空の彼方で、
終末の光が、アクアへと向かって放たれた。
自国内にいる、たった一人に向けて――
それが、何を意味するのかを知りながら。
戦争は、
ついに、戻れない場所へ踏み込んだ。
⸻
その映像は、各国のスパイ衛星に等しく捉えられていた。
当然だった。
他国の核施設が、明確な手順を踏んで起動したのだ。
警告は、ほぼ同時に世界中へ走る。
「核サイロが動いたぞ!」
「目標はどこだ!?」
各国の分析官が怒鳴り合い、指令室は一瞬で混乱に包まれた。
大陸間弾道弾――その軌道解析が、秒単位で進められる。
そして。
「……待て」
誰かの声が、震えながら割って入る。
「目標……大陸自国内です」
一瞬、沈黙。
次の瞬間、怒号が爆発した。
「正気か!?」
「狂ったのかあいつらは!」
「自国に核を撃つだと!?」
理性が、理解を拒んでいた。
だが、数値は嘘をつかない。
「……監視を、継続しろ」
誰かが、絞り出すように言う。
止められない以上、
世界はただ“見る”しかなかった。
⸻
アクアは、空を見上げていた。
曇天を切り裂き、
流星のごとく迫りくる光。
それが何であるかなど、説明されるまでもない。
「……腑に落ちた」
低く、呟く。
恐怖はなかった。
焦りもない。
ただ、胸の奥で、ある記憶が静かに浮かび上がってくる。
――以前、ルビーと雲野に聞かれたことがあった。
「アクアはさ、もう十分強いのに。
なんで、まだ鍛え続けるの?」
あの時は、少し考えてから答えた。
「……俺が、俺だからだ」
その時は、それで足りると思った。
それ以上の理由など、必要ないと。
だが――
今なら、わかる。
アクアは、ゆっくりと拳を握る。
「すべては……」
天から降り注ぐ死を、正面から見据え。
「この一撃のため」
放射線?
知らぬ。
熱線?
意味はない。
「――すべて、打ち砕く」
その言葉と同時に、
アクアの全身から、力が解き放たれた。
筋肉が軋み、骨が鳴る。
だが、それは限界ではない。
命そのものを、拳に変える。
全身全霊の――剛拳。
踏み込み。
振りかぶり。
拳が、放たれた。
瞬間、光が生まれる。
それは炎ではなく、雷でもなく――
極光。
夜空を貫き、天を衝く、純粋な力の奔流。
剛拳は、迫りくるミサイル群に真正面から叩きつけられた。
衝突。
いや――
消滅。
核弾頭は、爆発することすら許されなかった。
起爆の前に、構造ごと砕かれ、蒸発し、光の中に溶けていく。
一発、また一発。
流星は、すべて消えた。
空には、何も残らない。
ただ、極光の残滓だけが、静かに揺れていた。
⸻
その光は、国境を越えた。
海を越え、山を越え、
遠く離れた他国の空にも、はっきりと見えた。
「……何だ、あれは」
各国の都市で、人々が空を見上げる。
観測所で、
軍事施設で、
静かな郊外で。
誰もが同じものを見た。
夜を昼に変えるほどの、
一本の光の柱。
日本。
星野家のリビング。
窓の外が、突然、白く染まった。
ルビーは、はっとして立ち上がる。
「……?」
次の瞬間、空が見えた。
遠いはずの場所から、
それでもはっきりと分かるほどの光。
夜空を貫く、一本の柱。
ルビーの胸が、強く脈打つ。
――ああ。
理由もなく、確信が落ちてきた。
「……アクア」
言葉にした瞬間、
涙がおちた。
この日、世界は知ることになる。
国家でも、兵器でもない。
思想でも、正義でもない。
ただ一人の“拳”が、
核を否定したという事実を。
そして、人々は語り始める。
あの存在を、何と呼ぶべきか。
怪物か。
神か。
それとも、災厄か。
やがて、一つの名が定着する。
――拳王。
天を砕き、核を退け、
己のエゴのために世界を止めた男。
この日を境に、
戦争の形は、
そして世界の常識は、
静かに、しかし決定的に――変わった。
その拳の先に、
母と妹の未来がある限り。
拳王は、止まらない。
⸻
戦争は、終わった。
少なくとも――表向きには。
報道ではこう語られた。
大陸の暴走した指導者たちは、内部の保守派によるクーデターによって排除された。
理性が勝ち、愚行は止められたのだと。
各国は安堵の声明を出し、
市場は落ち着きを取り戻し、
人々は「最悪は回避された」と胸を撫で下ろした。
だが、裏側では、別の決定がなされていた。
拳王――
そして、その関係者への一切の介入を禁ずる。
それは条約でもなく、文書にも残らない。
ただの、共通認識だった。
「敵対して、最後の合衆国大統領になりたい者がいるか?」
誰かがそう言い、
あの光を見た者たちは、誰一人として反対しなかった。
地上から天を貫いた、極光。
核を否定した、魂の柱。
あれを見てなお、
一人の少年に干渉しようと考える者はいなかった。
戦争は、終わった。
だが――
アクアは、帰ってこなかった。
⸻
星野家の食卓は、今日も三人分が並べられている。
いや、正確には――四人分だった。
「はい、ご飯できたよ」
アイはそう言って、
一つ余分に茶碗を置く。
湯気の立つご飯。
箸。
おかず。
「アクアの分」
にこりと笑う。
「こういうの、陰膳って言うんだよ」
そして、少し冗談めかして言う。
「向こうでご飯に困ってたらかわいそうでしょ?」
ルビーも、雲野も、何も言わない。
笑えなかった。
否定も、できなかった。
ルビーは、知っている。
母が、夜になると――
誰もいないと思っている時間に、
声を殺して泣いていることを。
肩を震わせ、
布団を握りしめ、
必死に音を押し殺していることを。
ルビーは、何も言わない。
自分も、同じだから。
夜、毛布にくるまり、
空を思い浮かべて、
涙が出るのを止められない。
だから、何も言わない。
⸻
ルビーは、考えてしまう。
もし。
もし、自分がもっと元気だったら。
アクアについていけたら。
あるいは――
「母さんは、わたしが守るから」
そう言って、
雲野にアクアを託していたら。
今、この家に、
アクアはいただろうか。
食卓に、
無言で座っていただろうか。
「うむ」とだけ言って、
ご飯を食べていただろうか。
答えは、出ない。
考えれば考えるほど、
胸の奥が、冷たく締めつけられる。
それでも、ルビーは顔を上げる。
泣かない。
母の前では、笑う。
アクアが守った未来を、
ここで壊すわけにはいかないから。
食卓の上で、
湯気だけが、静かに揺れていた。
アクアの席は、空いたまま。
戦争は、終わった。
けれど――
この家の時間は、
まだ、彼を待っていた。
⸻
――そして、ルビーは目を覚ます。
ぼんやりとした視界の中、最初に見えたのは――覗き込んでくる顔だった。
「……?」
子供のアクア。
無口で、少し仏頂面で、けれど確かに兄だった。
その横で、仔犬のココがしっぽを振り、鼻先を近づけてくる。
「……ココ?」
夢を、見ているのだろうか。
そう思った瞬間、アクアが口を開いた。
「母者。ルビーが、目を覚ました」
低く、落ち着いた声。
次の瞬間、視界の端から影が差し込み、母さんが現れる。
「ほんとだ」
優しい声。
アイはルビーの額にそっと手を当て、体温を確かめる。
「……うん、熱は下がったね」
安心したように微笑み、続けて聞いた。
「お腹、すいてる?」
ルビーの胸が、ぎゅっと鳴った。
どちらが夢で、どちらが現実なのか。
分からなくなる。
――戦争。
――光。
――帰ってこないアクア。
けれど、今ここにいるのは、
子供の兄と、仔犬と、母。
ルビーは、思い出す。
久しぶりにひどい風邪をひいて、
何日も寝込んでいたこと。
しかし、あれがただの夢だとは――どうしても思えなかった。
この、あまりにも幸せな世界は、
きっと、微妙なバランスの上に成り立っている。
少し何かがずれれば、
簡単に壊れてしまう。
だから。
ルビーは、アクアを見る。
「……アクア」
「うむ」
短い返事。
ルビーは、ゆっくりと言葉を選んだ。
「わたし……強くなりたい」
喉の奥が、少しだけ震える。
「なにかあったら……家族を、守れるくらい」
その瞬間。
――くぅ。
お腹が、正直な音を立てた。
一瞬の沈黙。
アイが、くすっと笑う。
「ふふ。じゃあさ」
優しい声で、聞く。
「おかゆと、おうどん。どっちがいい?」
ルビーの頬が、赤くなる。
「……お、おうどん」
小さな声。
「はいはい」
アイは微笑んで、立ち上がる。
「ちょっと待っててね」
キッチンへ向かう背中が、あたたかい。
アクアは腕を組み、ルビーを見る。
「……とりあえず、飯を食え」
「修行は、風邪が治ってからだ」
「……うん」
足元で、ココが「わん」と鳴いた。
まるで、自分も修行に付き合うと言わんばかりに。
その声に、キッチンからアイの声が重なる。
「じゃあ母さんはね」
少し楽しそうに。
「おいしいご飯で、応援しちゃおうかな」
ルビーの胸が、あたたかく満たされる。
「……うん」
今度は、はっきりと。
嬉しくて、優しくて、
壊れそうだからこそ、大切な日常。
ルビーは、布団の中で小さく笑った。
――守りたい。
この時間も、この家族も。
だから、強くなる。
その決意を胸に抱いたまま、
ルビーは、湯気の立つおうどんを待っていた。
禁断の夢オチ!?
レベルを上げて物理で殴るを聞きながら書きました