山は、再びひれ伏していた。
折れた巨木。抉れた岩肌。雪と土と血の匂いが混じり合い、奥羽の峰は静まり返っている。
赤カブトは、その中心に立っていた。
――すべて、覚えている。
人間どもが火を持ち、鉄を持ち、数で押し寄せてきた日々。
罠も、銃声も、叫びも、すべて踏み潰した。
己の皮膚を貫いた鉛すら、怒りの糧に変えてきた。
やがて人間は退いた。
山は再び、熊のものとなった。
否――
赤カブトのものとなった。
背後には配下の熊たち。
かつては単独であった赤毛の魔獣も、今や王として群れを従えている。
己より小さき者は従い、逆らう者は砕いた。それだけのことだ。
その前に、犬どもがいた。
銀色の毛を持つ若き狼犬。
その周囲に集う、数多の牙。
因縁は、風よりも前から知っている。
――来たか。
討伐。
人間の言葉で言えばそうなるのだろう。
だが赤カブトにとっては、ただの延長だ。
敵が来た。それだけだ。
しかし。
赤カブトは、違和感を覚えた。
銀たちの目には、憎しみよりも先に、
躊躇があった。
怯えではない。
怒りでもない。
――気まずさ、だと?
理解できぬ感情に、赤カブトは鼻を鳴らした。そのときだった。
前列の犬たちが、道を開いた。
そこから現れたのは――
白い仔犬だった。
雪に紛れるほど小さく、細い四肢。
この戦場にはあまりにも不釣り合いな存在。
「……まず、僕が相手だ」
震えはない。
だが、強くもない。
赤カブトの喉奥から、低い唸りが漏れた。
――なんだ、このガキは。
一歩で潰せる。
爪を振るうまでもない。
そう思った、その瞬間。
赤カブトは、気づいた。
白い仔犬の背後。
さらにその奥。
二本の脚で立つ影。
毛皮を持たぬ、小さな体。
静かに、しかし確かに――人間の少年。
その瞬間だった。
脳裏に、ありえぬ光景が叩きつけられる。
雪原。
動かぬ自分の身体。
そして――
首が落とされた自分の身体の横に立ち、
その首を手にした少年。
落とされた首。
見下ろす視線。
恐怖ではない。憎しみでもない。
ただ、静かな目。
「――――ッ!!」
赤カブトは吼えた。
否。
これは現実ではない。
理解した瞬間、幻は揺らぎ始める。
これは記憶ではない。
過去でもない。
――未来だ。
もし、この白い仔犬と、
その背後に立つ“存在”と刃を交えれば、
辿り着く結末。
恐怖が内側から湧き上がり、巨体がわずかに揺れた。
赤カブトは、銀を見た。
――どういうことだ。
銀も見返した。
一瞬だけ。
そして――
スッ……と目を逸らした。
耳が伏せられる。
――ごめん。ほんとごめん。
赤カブトには、はっきりそう見えた。
「……え?」
思わず心の中で声が出た。
これ、
赤カブトの脳裏に浮かんだのは、
子供同士の喧嘩に親じゃなく、いきなり核ミサイルが撃ち込まれる。そんな光景だった。
そのとき。
低く、腹の底に響く声が落ちてきた。
「……やらぬのか」
短い。
淡々としている。
――まずい。
赤カブトの本能が、全力で警鐘を鳴らした。
この声は、苛立っている。
怒鳴らない。
威圧しない。
だからこそ、一番まずい。
声の主は、白い仔犬を見下ろした。
「俺は手を出さぬ」
おっ、と思った。
――あ、助かった?
――ワンチャンある?
「お前だけで、倒してみよ」
白い仔犬が前に出る。
そして、赤カブトは気づいた。
――この流れ、知ってる。
最初、仔犬が挑む。
なぜか善戦する。
周囲が「おお……」ってなる。
ムカついた俺が本気出すと、
仔犬がピンチになる。
その瞬間。
後ろの男が出てくる。
俺が「話しが違う!」という。
すると――
「……お前は、約束を守ったことがあるのか?」
――言う。絶対言う。
言われた瞬間、俺は死ぬ。
約束?
なにそれ?
熊にそんな文化ねーよ。
赤カブトは、配下の熊たちの気配を感じた。
全員、目を逸らしている。
――お前ら、助けろよ。
誰も助けない。
赤カブトは、考えた。
必死に。
熊生最大級に。
――落ち着け。
――深呼吸だ。
――これは戦いじゃない。舞台だ。
――俺は役者だ。そう思え。
演出は単純。
トドメを刺そうとして勢い余る俺。
足を滑らせる俺。
そこに仔犬の一撃。
派手に倒れる俺。
――完璧だ。
問題はただ一つ。
俺に、そこまでの演技力があるのか。
一発勝負。
NGは許されない。
白い仔犬が駆ける。
赤カブトは腕を振り上げた。
(まだだまだだまだだまだだ……!)
「いまだ!!」
赤カブトは、盛大に外した。
しかも、必要以上に。
「おおっ!?」
よろける。
体勢を崩す。
自分でもびっくりするくらい、崩す。
銀が思わず叫んだ。
「う、上手い!!」
熊たちもざわつく。
「今の自然すぎる……」
――よし、ウケてる。
次の瞬間。
白い仔犬が突っ込んできた。
ぽすっ。
……軽い。
軽すぎる。
赤カブトは一瞬迷った。
――ここで吹き飛びすぎると、嘘くさい。
――だが、控えめだと“まだ動ける”と思われる。
0.3秒の葛藤。
結果。
全力で飛んだ。
回転数多め。
雪エフェクト大。
着地音「ドゴォン」。
そして――
完全静止。
……。
………。
山が、静まり返る。
視線が、一点に集中する。
――判定役だ。
誰かが、唾を飲む音が聞こえた。
幻聴かもしれない。
低い位置から、ため息。
「……まあ、よい」
――勝った。
赤カブトは内心でガッツポーズを決めた。
「母者を待たせる訳にもいかぬ」
白い仔犬が振り返り、
男の元へ戻る。
一人と一匹は、あっさりと去っていった。
……。
………。
「うおおおおおお!!」
歓声。
犬も熊も、跳ねる跳ねる。
赤カブトは、
「今起き上がるのは早いか?」
と様子をうかがいながら、
そっと片目を開けた。
銀が近づいてきて、頭を下げる。
「……今日は、ほんとごめんな」
――いや、こっちこそ。
犬たちが去り、
山に静けさが戻る。
赤カブトは、むくりと起き上がった。
「……決めた」
熊たちが注目する。
「これからは、ドングリ中心の食生活だ」
「賛成です王!」
「南斜面に最高の穴場があります!」
「俺、取っておいたハチミツあります!」
赤カブトは深く頷いた。
紅き魔獣は、
静かな余生を選んだ。
ココが修行を始めました
力はまだまだですが胆力はあります
そのうち何ちゃら抜刀牙を使うかもしれません