1
朝起きた時に、当たり前のように挨拶をしてくれる人がいる。それはとても幸せな事なんじゃないか。とは、最近良く思う事である。
新聞に目を通しながら、
ついで、苦笑した。
まるで人生に疲れ果てた人間の思考ではないか。30前で、流石にそこまで老けこむのはどうかと思う。
時刻は朝の6時半。晴天の空には、ゆっくりと太陽が昇ろうとしている。今日はきっと晴れるだろう。まだ少し肌寒い日が続いているが、それも間もなく春の陽気に代わるのではないだろうか。
やや癖のある単髪の下にある、優しげな瞳を細め、日差しを見詰める。
「・・・・・・久しぶりか。こうしているのも」
感慨深く呟きながら、再び新聞に目を落とす。もっとも、めぼしいと思える記事は特にないのだが。
日本の犯罪事情も凶悪化しているとは聞いていたが、取り敢えず今のところは、目立った事件も起きていないらしい。
「平和だね。結構な事だ」
のんびりとそう言いながら、片手に持ったコーヒーカップを傾けた。
コーヒー豆の香ばしい香りが、鼻腔をくすぐる。つい先日までイギリスにいたので紅茶の味に慣れてしまっていたのだが、やはり朝はコーヒーの方が良い。
元々甘党のせいで、若い頃は砂糖とミルクを入れてカフェオレにして飲んでいたのだが、最近ではブラックを飲まないと1日が始まらない気がした。
我ながら、現金な物であると思うが、30年も生きていれば、味覚が変わるのも当然の事だった。
そんな事を考えていると、パタパタと小さな足音が、斎の耳に聞こえて来た。
「お、起きたか」
微笑を浮かべる斎。
この家には、自分と「彼女」しか住んでいない。故に、足音を聞くだけで、近付いて来るのが誰かはすぐに判る。
扉が開くと、小さな影が元気に飛び出してきた。
「おはよーッ おとーさん!!」
挨拶も元気一杯だ。
意識せずとも、自然と微笑がこぼれてしまう。
「おはよう」
少女の名は
起きたてだと言うのに、元気一杯の娘の姿を見る事は、斎にとって欠かす事の出来ない、朝の通過儀式である。
長く伸ばした黒髪が、小さな躍動を感じさせるほどに跳び跳ねているのも、我が家の朝の光景としては見慣れた物である。
「ご飯、できてるよ。まだ時間はあるから、ゆっくり食べなさい」
「はーい」
返事をしながら自分の席に着くと、愛那は手を合わせて「頂きます」と言い、皿の上のパンに齧りついた。
本当は、折角日本に戻って来たのだから、早々に米食に切り替えたいと思っている斎だが、何分、海外での生活が長過ぎた。日本で暮らした時期が長い斎はともかく、愛那はまだ暫く、パン食の方が良いと言う希望が出た為、斎もそれに付き合ってパン食を貫いていた。
まあ、米食を含めて、和食にはおいおい馴れさせれば良いだろう。
「どう、体の調子は? もう馴れた?」
「うーん。まだちょっと、変な感じがするよ」
斎の質問に、愛那は微妙な笑いを浮かべながら答えた。
無理も無い。イギリスのロンドンに長く暮らしていたせいで、こっちに戻って来た時には、ひどい時差ぼけに悩まされた。睡眠不足や、ひどい時は体調不良も起こした。
もっとも、斎自身は数日で馴れたのだが、幼い愛那はそうもいかなかったらしい。
斎ですらそうだったのだ。長旅に慣れていない愛那が、まだ本調子を取り戻せないのも無理からぬところである。
「ごちそうさま。お父さん。お願い」
「ん。こっちおいで」
言いながら、斎はテーブルの上に置いておいた串を手に取り、娘を前に座らせた。
愛那の髪は背中まで伸び、今はストレートにしている。その、娘の髪を梳かし、セットしてあげるのが斎の朝の日課だった。
「今日はどうしようか?」
「うーん、そうだなー・・・・・・」
少し考えてから、愛那は答えた。
「今日は、このままで良いや」
愛那はその日の気分によって、髪型を変える。ポニーテールや三つ編み時もあれば、ツインテールを要求された事もあった。
おかげで斎は、ヘアメイクアーティスト並み、とまでは行かずとも、大抵の髪型は作れるようになっていた。
今回はストレートなので、それほど手間を掛ける事も無いが、初めの頃は1つの髪型に30分近く掛かってしまった事もあった。
要望通りの髪型にセットしてあげると、時間はそろそろ良い感じに過ぎ去っていた。
流石に、赴任初日から遅刻と言う訳にもいかないだろう。
「準備は良い? 忘れ物は無い?」
「うん、大丈夫だよ」
自身も鞄を背負いながら、愛那は答えた。
斎が赴任初日であるのと同様、愛那もまた、転校初日と言う事になる。転校先は、斎が赴任する高校の付属小学校である。校舎が違う為、顔を合わせる事は少ないだろうが、それでもいざという時に娘の傍にいたいと思った斎の選んだ選択だった。
「お父さん。お母さんに挨拶しないと」
「あ、うん。そうだね」
愛那に指摘され、斎は少し自嘲した。
娘には忘れ物は無いか尋ねておいて、自分は一番大事な事を忘れていたのだから。
リビングに置いてある棚の上に、1枚の写真が、写真立てに入って飾られている。
その写真の中では、1人の女性が微笑みながらこちらを見ている。
彼女は愛那の母であり、
そして、今は亡き、斎の妻でもあった女性である。
2人は並んで、写真に向かって手を合わせる。これもまた、朝の日課の一つだった。
「さあ、行こうか」
「うんッ」
部屋を出て、ドアに鍵を掛ける。
待っていた愛那と手を繋ぐと、斎は娘の歩調に合わせて歩き出した。
「楽しみだな。友達、たくさんできると良いな」
「きっと、大丈夫だよ。それに、落ち着いたら、イギリスの友達にも、お手紙を書かないとね」
「あ、うん、そうだねッ」
元気に頷く愛那は、学校が余程楽しみなのか、繋いだ手をブンブンと振りまわす。
その様子を微笑ましく見詰めながら、斎はゆっくりと歩いていた。
2
武偵とは、その名が示す通り、「武装した探偵」を意味している。
近年急速に、安易化、凶悪化する犯罪に対抗する為、各国政府は公的機関に依らない新たなライセンスを作り出した。それこそが、武偵である。
武偵は刀剣、銃火器による武装を公式に許可されていると同時に、凶悪犯罪者に対する捜査、逮捕権を有すると言う、警察に準じた権限が与えられている。警察との違いは、ある程度組織に捕らわれず独自の行動が推奨されている事、上からの指示や命令に従う必要はなく、依頼によって行動する「便利屋」の側面がある事である。
そして武偵を育成する為、世界には数多くの武偵養成校が存在している。
レインボーブリッジの南に浮かぶ南北2キロ、東西500メートルに及ぶ巨大な人工島。通称「学園島」。この人工島にある東京武偵校もまた、そうした武偵育成機関の一つである。
存在する専門学科は、強襲科、狙撃科、探偵科、鑑識科、諜報科、尋問科、車輛科、装備科、通信科、情報科、救護科、衛生科、超能力捜査研究科、特殊捜査研究科の14。それぞれに在籍する学生は一般科目の他に、これらの専門科目の受講も行う事になる。また、学生によっては既に犯罪捜査の一線に立って戦っている者も多い。
その東京武偵校こそが、斎の新たな職場と言う事になる。
校長室の前に立つと、大きく深呼吸をする。
流石に、新たな職場ともなると、緊張してしまう。ましてか久々の教職だ。緊張するな、と言う方が無理である。
「・・・・・・よしっ」
気合を入れ直すと改めて扉の前に立ち、手の甲を打ちつけた。
「はいはい、開いてますよ」
「失礼します」
中からの声に誘われ、扉の中に進み入ると、そこには1人の男が斎を待つように立っていた。
男の顔を見て、斎は『ああ、そう言えば、こんな顔だった』と思い出す。
男は、この東京武偵校の校長で、名前は緑松武尊。
一見すると、物腰穏やかな好々爺然とした男性にも見える。恐らく、保育園などの園長先生とかでも無難にこなせそうだ。
しかし、そんな印象とは裏腹に、否、だからこそと言うべきか、緑松の恐ろしさは際立っていると言える。
先程の初見の時、斎は緑松の顔を見てから思い出していた。これは、単なる記憶の劣化から来る物では無い。斎は初めから、旧知の筈の緑松の「顔を記憶できていなかった」のだ。
緑松の容姿は、身長、体重、声、顔形、頭髪、全てが日本人の持つ特徴の平均を取っている為、記憶に残りにくいのだ。
言ってしまえば、平凡以上に平凡な容姿の男。
この男の特徴を聞かれた人間は大抵、「男で・・・・・・」で止まってしまう。それ以上は思い出す事が絶対にできない。
故に、この男が暗殺者として現われた場合、例えどのような手段を使っても防ぎようがないのだ。
付いた通り名は「見える透明人間」。
正に世界最強の暗殺者。まこと、武偵校の校長に相応しい人物と言える。
「はいはい。お久しぶりですね」
「ええ。その節はお世話になりました」
進められたソファに腰掛けつつ、緑松と対面で向かい合う。
こうして向かい合っていても、殆ど微弱な気配しか感じる事ができない。いったい、どのような訓練をし、どのような戦場を渡り歩けば、このような技能を身に付けられるのか、斎には見当もつかなかった。
「確か、君が教育実習でうちに来た時以来ですから、6・・・・・・」
「7年ぶりですね。あの時はお世話になりました」
斎は、この学校のOBでもある。在学中にも大きな事件をいくつか解決し、将来的には一線で活躍する事も望まれたのだが、元々、教育関連に興味があった斎は、元々、学業もおろそかにしていなかった事もあり、卒業後すぐに武偵教員のライセンスを取り、教員免許を取得したのだ。
教育実習として、この学校に来た斎は、そこで・・・・・・
「君をわざわざヨーロッパから呼び寄せたのは、他でもありません」
斎の思考は、緑松の言葉によって中断させられた。
見れば、緑松はそれまでの温和な表情を、僅かに引き締めて斎を見ている。どうやら、深刻な話題であるらしい。
そう感じ取った斎も、神妙な面持ちで緑松に向かい合った。
「・・・・・・『あの組織』が、どうやら、この国の周辺で活動を開始したようです」
「ッ!?」
緑松の言葉に、斎は思わず息を飲んだ。
緑松の言う『あの組織』。主語を省いたその言葉が何を指すのか、斎には判っていた。
「・・・・・・確かですか?」
「確度の高い情報です」
緑松の言葉に、斎は己の中に流れる血が波打つのを感じていた。
あの組織が動きだした。
かつて、『彼女』を奪って行った、あの組織が。
確かに、奴等が動きだしたとすれば、緑松がわざわざ武偵校に自分を呼び寄せた理由にも納得がいく。
「取り敢えず、君には数学教師として赴任してもらいます。大丈夫ですよね?」
「ええ、問題ありません」
元々数学は得意の方であり、教員免許を取得する際にもそれが大きく作用した。数学の教師を引き受けるに当たって、何の問題も無かった。
「専門学科の教師では無く、
「御配慮には、感謝します」
当面は、情報収集が基本となるだろう。だが、『あの組織』が動きだしているのなら、ここも戦場になる可能性がある。
準備は、早めにしておく必要がありそうだった。
3
迂闊だった。
ここ数日、幼馴染で先輩でもある男子の任務を手伝い、あまり眠っていなかったのが災いしてしまった。
武偵校には徒友制度と言う物があり、上級生1人が下級生1人を選んで契約を結び、優先的に指導を行う事になる。その男子生徒は瑠香にとって徒友契約の相手。つまり、専門用語で言えば戦兄と言う事になる。
この場合、相手が女なら戦姉と言う事になる。逆に下級生に対する呼び名は戦弟、あるいは戦妹となる。
話が逸れた。
ともかく、瑠香は戦兄である上級生が請け負った任務の手伝いを、ここ数日行っているのだ。
任務自体は、あと少しで結果が出る所まで来ている。だが、今日の所は状況が動く可能性は低いと見られた為、戦兄から許可をもらって学校に出席したのだ。
だが、連日の疲れが祟って、朝、寝過ごしてしまったのがいけなかった。
おかげで、始業ギリギリに校門を滑り込む羽目になった。
少し癖のあるショートヘアを揺らしながら、瑠香は幼さの残る顔に焦りを滲ませて走っている。
既にホームルームは終わっている。だが、既に友達からもメールで、内容的には大した連絡事項はなく、出欠も取らなかったと伝えられていた。
腕に嵌めた時計に目をやると、一限の授業開始まで、あと3分。最初は数学の授業の筈だが、授業開始までに滑り込めばセーフである。
廊下を駆け、階段を4段飛ばしで上る。
角が見えて来た。アレを曲がれば、教室はすぐそこである。
大丈夫、間にあう筈。
そう思った時、
ドンッ
教室とは反対方向から歩いて来た人影と、思いっきりぶつかってしまった。
「わぶっ!?」
「おっと?」
通りの良い、男性の声が驚いたように発せられる。
どうやら、相手の男性は瑠香よりも相当背が高いらしく、瑠香の頭は相手の腹の辺りに当たった。お陰で、あまり衝撃はこなかったが。
珍妙な声と共に数歩後ろによろける瑠香とは対照的に、相手はバランスを取って転倒を免れたらしい。
「えっと、大丈夫?」
突然飛び出してきた瑠香を、相手は慌てたように肩を掴んで支える。
「だ、大丈夫れす」
ぶつけた鼻を押さえながら涙目で見上げると、そこには温和そうな青年が困った顔で見上げていた。
制服を着ていない事からも、相手が教員である事が判った。
「ダメだよ、廊下を走っちゃ」
苦笑しながら、斎は瑠香に注意する。
とは言え、流石に少しばかり驚いた。
緑松への挨拶を終え、早速一時限目の授業がある1年A組に向かう途中で、いきなり角から女子生徒が飛び出して来たのである。驚くなと言う方が無理である。
「す、すみません。遅刻しそうだったもんで、つい・・・・・・」
俯いて頭を下げる瑠香を、「ふむ」と見詰めてから、斎は問い掛けた。
「君、1年だよね。クラスは?」
「はい? ・・・えっと、Aですけど?」
瑠香の言葉に斎は、なるほど、と呟き、微笑を返す。
「じゃあ、今日は特別に大目に見てあげよう」
「へ?」
言っている意味が判らず、瑠香は斎をまじまじと見つめる。
見覚えのない、若い男性教師。その手には、数学の教科書が抱えられている。
「えっと・・・・・・もしかして、数学の先生?」
「もしかしなくても、数学の先生だよ」
笑って答える斎に対し、瑠香はサーッと顔を青くする。
このまま急げばギリギリセーフだと思っていたのに、まさかのまさか、直前で数学の先生とぶつかってしまうとは。廊下を走っていた事を加えて、二重の失敗である。
そんな瑠香の様子を見て、斎は苦笑する。
「ほらほら、今日の所は大目に見てあげるって言ってるんだから。早く教室に入りなさい」
「は、はいッ」
慌てて、瑠香は斎の後を追って教室へと向かう。
「あの・・・・・・」
斎の横に並びながら、瑠香は見上げるようにして尋ねる。
「何かな?」
「先生は、新しく来られたんですか?」
控えめな口調で尋ねる瑠香の様子に、斎は内心で少しだけ驚いた。初めの印象のせいで、最近よく見掛ける遠慮のないタイプの娘なのかと思っていたが、しゃべり方からは、どこかの良家の子女のような印象も受ける。
余程、良い教育を受けて来たのか、あるいは、ある程度そうした礼儀作法をやかましく言われる家柄なのかもしれない。と、斎は察した。
「そう、今日からなんだ。宜しく」
そう言って、教室のドアを開けようとした時だった。
ガッシャーンッ
中から、けたたましい音と共に、怒声や悲鳴が聞こえて来た。
瑠香と斎は、思わず足を止めて顔を見合わせる。
騒音は、教室の中から聞こえて来ている。廊下まで響くくらいだから、相当騒がしいのだろう。
慌てて扉を開けて中に入ると、男子生徒が2人、取っ組み合いの喧嘩をしている最中だった。
喧嘩、などと言えば大した事がないようにも聞こえるかもしれないが、実際には、手にナイフを持っている。下手をすれば、どちらかが怪我をする可能性すらあった。
もっとも、荒事を専門に扱う武偵校からすれば、このような事は特に珍しいとは言えない。
武偵の喧嘩で銃やナイフが出るのは、最早お約束。特に、強襲科の生徒などは、日常茶飯的な光景だった。
とは言え、授業前、担当教師が来ている時に乱闘騒ぎとは、流石に穏やかでは無かった。
机や椅子はあらかた薙ぎ倒され、クラスメイト達は、巻き添えを食らわないように教室の壁際に寄り事態を見守っていた。
「ちょ、どうしたの、これ!?」
瑠香は手近なクラスメイトを捕まえて、この事態か何事か尋ねる。
その女子生徒は、確か鑑識科の娘だった筈。荒事に慣れていないせいか、乱闘の様子を見て完全に怯えきっている。
「あ、し、四乃森さん・・・・・・あの、2人とも、最初は仲良さそうに話していたんだけど、どっちかが、もう片方の持ってる武器の事を馬鹿にして、それから・・・・・・」
「・・・・・・あ~」
説明を聞いて、瑠香は呆れ気味に納得する。
これも良くあることだ。武偵なら、自分の武器を自分で見繕うのも仕事の内である。中には傍から見れば非効率的な武器であっても、使う本人にとっては愛着があったり、それで理に叶っていたりする物だ。
余談だが、瑠香の戦兄などは、武器は日本刀1本しか持っていない。江戸時代じゃあるまいし、銃火器全盛の時代にそれは無いだろうと言った事があるが、目の前で、飛んで来た銃弾をかわしたり、刀身で弾いて見せられた時には、流石に開いた口がふさがらなかった。
そんな訳で、武器とは敵と戦い、身を守るための道具であると同時に、言ってしまえば自分の体の一部であるとも言える。それを馬鹿にされれば、頭に来るのは当然であった。
乱闘は尚も続いている。どうやら、2人は先生が来た事すら気付いていないみたいだ。
何とか止めないと。
自分でも割とお節介な性格をしている事は自覚しているが、行動せずにはいられなかった。
そう思って瑠香が前に出ようとした時、それを制するように彼女の隣に立つ人物が前へと出た。
「はいはい。授業が始まるぞ。そこら辺で止めにして、席に着きなさい」
細い体に似合わず、大きな声を出して斎が乱闘している2人を止めに入った。
無謀だ、と瑠香はとっさに制止しようとする。
相手は入学したての1年生とは言え、れっきとした武偵だ。その戦闘力は、素人の武道家とは比べ物にならない。
対して斎は、一般科目の非常勤講師。更に言えば、見た目の細さから言って、何か武術のような物をやっているようには見えない。
恐らく、戦えば相手にもならないだろう。最悪の場合、斎が怪我をする事も考えられる。
せめて、専門科目の講師がいれば、取り押さえる事も容易なのだろうが。頭に血を上らせた武偵を、一般人が取り押さえるのは無理がある。
「うっせーんだよッ パンピーは黙ってろ!!」
言うが早いか、乱闘をしていた男子の1人がナイフを手に斬りかかる。
武偵校でも2年生以上の者なら、決してこのような事はしないだろう。相手は教師とは言え一般人。下手をすれば罪に問われる事になる。それ以前に、2年生ともなれば、大半が精神的にも落ち着きが出て来る。教師に向かってナイフを振り翳す、などと言う行為は決してしないだろう。
だが、1年生と言うのは、つい1か月前まで中学生をやっていたような者達であり、頭の中身は殆ど子供であると言っても過言ではない。そんな彼等にとって、教師が発する注意など、それがいくら道理に満ち溢れていたとしても、そんな物は犬の餌程度の価値も無い、と考えている者もいる。
悲鳴が上がる。
瑠香も、とっさに制止に入ろうとするが、間に合いそうもない。
誰もが、斎がナイフで刺されて血を噴き出す瞬間を想像し、声を上げる。
次の瞬間、
斎は向かって来た男子生徒の手首を軽く掴むと、素早く体重移動を行い、更に軽く手首を返す。
「おッ!?」
それだけで男子生徒の視界は360度回転する。
一瞬の出来事だった。
投げられた本人はおろか、瑠香を含めて見ていたクラスメイト達も、何が起きたのか、とっさに理解する事ができなかった。
次の瞬間、男子生徒は大きな音と共に、背中から床に叩きつけられた。
「て、てめッ 何す・・・・・・」
痛みを堪え、罵声を発しながら立ち上がろうとする男子生徒。どうやら、打たれ強さにはそこそこ自信がある様子だ。
だが、その動きも、すぐに止められる事になる。
その鼻先に、振り下ろされた拳を突きつけられたからだ。
拳と鼻先の距離は、僅か1ミリ以下。あとほんの僅かに力を込めるだけで、男子生徒の鼻はひしゃげ、初日から保健室送りにされていた事だろう。
「教訓。人を見た目や肩書きで判断しちゃいけない。武偵校に来る一般科目の非常勤講師が、武偵じゃないと言う法はどこにもないんだから」
言いながら、斎は懐の内ポケットに手を入れ、そこから手帳を取り出すと掲げて見せた。
「元ロンドン武偵局所属、
そう言って、ニッコリ笑う斎。
「今日から、君達の数学を担当する事になった。宜しく」
瑠香を含め、開いた口を塞げた者は1人もいなかった。
第1話「郷愁の学舎」 終わり